井本喬作品集

車の共和国

1 はじめに

 二〇一五年六月六日、北海道砂川市の国道一二号線の交差点で二台の車が衝突する事故があり、一方の車に乗っていた一家の四人が死亡、一人が重傷となった。他方の車の信号無視が原因のようである。

 この事故そのものについてはいろいろ思いがあるが、これ以上語らない。この事故を冒頭に取り上げたのは、少し前にこれほど悲惨ではないが似たような事故を目撃したこともあって、交通ルールを守るということの意味を考えさせられたからだ。まず、私の体験を話そう。

 その年の四月末の夜遅く、私は豊田市内の国道一五三号線を走っていた。車は多くなかったが、信号でときどき停まらねばならなかった。私の前を白い乗用車が走っていた。交差点を青信号で通過しようとするその車について私も交差点に入ろうとした。そのとき、私の目の前で、その車に突然右から来た車がぶつかった。車間に余裕がありスピードも出ていなかったので、私は手前で車を停めることができた。衝突された乗用車(トヨタ86)は交差点の南西の角まで飛ばされガードレールに当たって停まっていた。衝突した車(ミラ・イース)は交差点の中央付近に停まっていて、前部が壊れバンパー部分が外れて落ちていた。両方の車の壊れた細かい破片が路上に散乱していた。私は交差点を過ぎたところに車を停めた。

 何人かの歩行者や近所の人が集まった。事故車は両方ともエアバックが開いていた。86に乗っていた男の人が車から出て来た。外傷はないようだったが、どこかを痛めたようだった。ミラ・イースに乗っていたのは女性で、降りて来られないようだったが、意識はあった。誰かが救急と警察に電話した。私は86の男性と話し、彼が青信号で交差点に進入したと証言することを約束した。パトカーが来て調査を始め、二台の救急車が運転者二人をそれぞれ別の病院に搬送し、二台のレッカー車が事故車を運び去り、私は警察の事故係の車の中で調書の作成に立ち会い、署名した。

 私が住んでいるのは関西なので、必要ならば電話連絡してくれるように言ってその場を去ったから、その後のことは知らない。だから、なぜミラ・イースが赤信号で突っ込んできたのかは分からない。うっかりしていて赤信号であることに気がつかなかったのかもしれない。あるいは、故意であるならば、通行量の少ない夜の道では信号無視をしても大丈夫と思っていたのかもしれない。また、状況からしてやや考えにくいことではあるが、信号の変わり目で、黄信号を確認していたにもかかわらずそのまま走り続け、赤信号で侵入してしまった可能性もある。

 もちろん、信号無視は許されない。他のドライバーが信号を守るということが信頼できなければ、車の運転など危険過ぎて誰もしようとはしないだろう。これは当然のことのように思えるが、信号を守ることに代表される交通ルールの尊重が絶対視されているようでもなさそうだ。交通ルールは自分や他人の身の安全を守るという明確な目的があるので、守られやすいルールのように見えるが、果たしてそうだろうか。

 まず、歩行者の信号無視というありふれた事象で考えてみよう。歩行者はそれほど厳密に信号は守らない。その理由は、事故に遭えば歩行者は被害者になってしまい、加害者になることは稀であるから、自己責任ですませられるかのように錯覚するからだろう。本当は、歩行者をよけようとする運転者を被害者としてしまったり、事故によって運転手を加害者にしてしまったりするので、自己責任ですませるわけにはいかない。だが、歩行者の信号無視は重大事故になる確率が低いせいか、大目にみられてしまう。

 ところで、交通信号というのはなぜあるのだろうか。交通信号は、交差点などで進路が交差するとき、どちらが優先的に進めるかを、そこを通ろうとする車や人に示す標識である。なぜそれが必要とされるかというと、それがないと渋滞や衝突が発生して、社会的に損失が生じるからだ。社会的損失の防止には、むろん個々の身体の安全の確保も入っている。このような信号の目的なり用途については、よく理解されているはずである。だとすれば、歩行者に信号を守らせるようにするためには、交通事故から自分の身を守る必要性を強調するのが効果的なのだろうか。それは、従来から交通ルールの教育として行われてきた方法である。

 しかし、信号の機能を明確に理解していれば、合理的な行動として信号を守るようになる、ということにはならない。なぜなら、信号が、安全かどうかの状況を知らせるだけのものならば、安全な状況が信号の助けなしに確認できれば、信号を守る必要はないことになる。つまり、車が走っていなければ、赤信号を無視して道路を横断してもよいことになる。事実、そういうことが慣習化している国もあるようだ。合理的な観点からは、車が走っていないのに歩行者が律儀に赤信号を守るというのは奇妙なことなのだ。

 これは「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という状況とは違う。この言葉が言っている状況とは、集団で行動すれば、規則を破ったときの他者のサンクションを気にすることはないということだろう。一方、ここで考えられているのは、歩行者の信号無視は個人的な判断に基づく行動であるという仮定だ。規則というものが個人の安全のためだけにあるのなら、危険でない状況で規則を無視するのは合理的である。それゆえ、交通ルールを合理的な解釈で教えることは、ルールの適用状況を合理的に判断してもよいということになり、場合によってはルールを無視してもよいということになるのだ。

 規則というのは、その根拠が明確であればあるほど、その根拠が当てはまらない状況では規則に従う必要がないという判断をもたらす。逆に、根拠の明確でない規則は、かえって違反することにためらいを感じる。違反することでどんな不都合が起こるのか予測がつかないからだ。だから、作られた当時はその根拠が明確であったのに、時間がたってそのことが忘れられて、ただ規則だけが残った場合、たとえその規則がもはや必要でない状況であっても、それを廃止することは難しくなる。その根拠が不明確なため、必要のないことの認識が難しいからだ。そういう規則が大して害のないものであるならば、残り続け、守られ続けることになる。

 だから、交通規則を守るためには、自分の身の安全のためでなく、単に守らねばならないから守るのだ、という教え方のほうが効果的であると思われる。確かに、そういう教え方をしても、人は合理的に判断して信号を無視するかもしれない。ただ、そういう教育を受けると、信号無視に罪悪を感じるようになる。多少の不便なら、この罪悪感よりましだと、信号を守る確率は増えるだろう。

 ただし、規則を守ろうとする性向には差があり、こういう教育だけでは十分な効果がないかもしれない。そして、歩行者は自分の行動を決めるのに、自分だけの判断に頼るわけではない。車の走っていない道路で律義に赤信号を守る人があざ笑われる社会と、安全だからといって赤信号を無視する人に非難が浴びせられる社会とでは、行動に差が出るのは当然だ。

 車の場合の信号無視についても、危険度ははるかに高いが、同じようなメカニズムが働いていると考えられる。完全な信号無視は稀だが、青に変わる前の発進とか、黄から赤に変わるときの進入などはよく見かける。これも危険がないなら待つ時間を少なくしようという合理的な判断である。信号をきちんと守るのは当然の義務であるという立場からは、このような行動は遺憾なことでしかないだろう。しかし、他者を相手にしたときの適切な選択というのは、行動主体に複雑な対応が求められるのであり、それが社会的存在としての人間の特徴なのである。そして、車もまた他の車とともに形成する社会の中で行動しているのだ。

2 コミュニケーション

 車たちが社会を形成していることを示すものとして、ドライバー間のコミュニケーションについて考えてみよう。低速度や停まっているとき、そして近くにいるときは、手や顔の動作、声などが使えるが、通常の路上ではこれらは有効ではない。では、ドライバーたちは声も身振りもほとんど有効ではない状況で、いかにして意思の伝達を図るのであろうか。ドライバーたちは無線やケータイ電話を使わない限り、言葉による相互の意思疎通ができない。ドライバーにとってのコミュニケーションの手段は、音と光、つまり、ライト、ホーン、ウィンカー、ブレーキライト、ハザードランプなどである。

 ではドライバーたちは何のためにコミュニケーションをするのか。個々のドライバーは交通法規に基づいて車を操作しているが、当然、他の車もそのような動きをするものと予想している。ただ、個々の具体的な走行においては、ドライバーの選択や判断にまかされている部分があるから、それまでとは違った動きをする場合などは、あらかじめ他の車にそれを知らしめて、対応の準備をしてもらう必要がある。

 通常の走行の場合、停まる、曲がる、後退するというのが基本的な動作変更であろう。それぞれ、ブレーキランプ、ウィンカー、バック警報ライト・ブザーによって意思表示ができる(ハザードランプについては後述)。このうち、ブレーキライトとバック警報は自動的であり、その操作と同時に作動する。これは作動を確実にするためと、意思表示が操作に先立たなくても大きな支障がないためである。

 ウィンカーだけは、ドライバーが意図して表示せねばならない。それは、自分がこれから何をしようとしているのかを他のドライバーに告げるためである。近くを走る他のドライバーが何をしようとしているのかが分かっていて準備をしておかないと、ドライバーは即座の対応が難しくなる。それまでとは違った動きについては予測がつきにくい。

 例をあげよう。交差点で曲がる動作を始めてからウィンカーをつけるドライバーがいる。ウィンカーが曲がっていることを示すものであるならば、そのことは車体を見ればすむことで、ウィンカーは余分な表示である。ウィンカーの機能は、自分が何をしているのかを他のドライバーに知らせることではなく、自分が何をしたいのかの意思表示なのである。これから曲がったり位置変更をしたりする動作を開始することを後続車や対向車や歩行者に知らせて、彼らに状況の変化を予告し対応行動を取らせることが目的なのだ。だから、動作を起こしてから知らせるのでは遅いのである。

 ウィンカーの操作が意思表示であることを理解していないドライバーは多い。交差点で前の車について停止していて、信号が変わったので発進しようとしたら、前の車が右折しようとして邪魔をする。もっと早くウィンカーを出せば、回避の手段を取れたのである。また、交差点で右折しようとしていて、対向車線を前方から来る車が通過するのを待っていたら、左折してしまった。もっと早く左折のウィンカーを出してくれれば先に右折できて、その車の後続車をやり過ごすために待ち続ける必要はなかったのである。そういうことはしばしば経験する。ドライバーは他の車を単に物理的存在として認識するのではなく、意思ある主体として取り扱う必要がある。それゆえ、意思伝達について注意深くあるべきなのだ。

 フォーマルな交通ルールでは、車の機器の使い方は限定されている。しかし、コミュニケーションとしての手段になるからには、いわばインフォーマルな使い方も可能だ。

 ハザードランプが使われるのは、緊急事態などで、通常とは違った移動ない停止の場合だが、高速道路での渋滞時の停車、駐車場での駐車スペースへの「車庫入れ」などにも使われる。また、合流や割り込みなどで譲ってくれた場合の、感謝の表現に使われることもある。

 クラクションは、騒音防止の観点からめったに使われないが、音の特性から、相手が見えないときや見ていないときに危険防止のための注意喚起となる。信号待ちをしているとき、青に変わっても動かない車への注意にも使われるが、あまりにせわしないときは反発を招くこともある。また、狭い道や信号のない交差点などで、道を空けてくれたときの感謝の表現にも使われる。

 パッシングはクラクションと同じような使い方をされる。警告の意味が多いが、道を譲る際に使用されることもある。

 これらの機器は、ただ単に車の走行を滑らかにするということを越えて、個人的な意思表示にも使われる。クラクションは相手にこちらの存在を気づかせたり、そこにいない誰かを呼ぶ時に使われる。クラクションやパッシングは、注意喚起を越えて怒りの表現にもなる。車の機器を使って、謙譲や警告や怒りや感謝などを表現することができる。極端な場合として、車体を故意に近づける(あおる)ことによって、強要・脅迫も可能である。

 慣習化していても、法制化されていないという点ではインフォーマルであるやり方は、全ての人に周知徹底しているのではないから、違った解釈も可能となる。たとえば、後続車に追い抜きを促す場合のウィンカーの使い方。片側一車線、あるいはもっと狭い道を遅い速度で走っている車が、後続車に道を譲ろうとする場合、速度を落としたり停車して、ウィンカーをつけるのが一般的であろう。ところが、左右どちらのウィンカーをつけるかは、まちまちであるようだ。これも私の経験であるが、そのような解釈の違いから危ない目にあったことがある。山岳ドライブコースでずっと後続車にあおられ気味で走っていて、やり過ごすつもりで休憩所へ入ろうとした。休憩所は右側にあったので、右のウィンカーをつけて右折しかけたとき、追い越そうとして右に出て来た後続車とぶつかりそうになった。後続車は私のつけたウィンカーを道を譲るサインと思い込んだのである。

 パッシングにもいろいろな意味合いが持たせられている。対向車が右折を待っているとき、直進車が待ってあげるから曲がるようにと促す。割り込みなどの危険行為を警告する。前を走る遅い車に早く走れとせきたてる。クラクションと同じように使われているのだが、音は威嚇的であり、また伝達の発信者が特定しにくいので、パッシングの方が便利なときがある。しかし、パッシングによる伝達も発し手と受け手の解釈が一致するとは限らないので、意味が通じないことがある。

 このように、ドライバーたちは必要に迫られて、あるいは積極的にコミュニケーションの方法を工夫している。それは交通規則だけでは車社会の運営がうまくいかないからである。そのことによって、フォーマルな規定のすき間を埋める自生的なルールを作り出しているのだ。

3 資源としての道路

 ドライバーたちも様々な特徴によって分類がされ得るので、そこからグループが発生し、集団としての特性を持つことも可能なように思われる。たとえば、同じ車種の車を所有している同好会的なグループがある。しかし、集団の成員として、他の成員と協力したり、成員以外のドライバーに対抗したりすることは、ほとんど見られない。

 唯一そのような協力関係がうかがえるのは、ドライバーを取り締まる警察への対抗においてであろう。対向車線で速度違反の取り締まり(ネズミ捕り)が行われているとき、パッシングによって対向車に教えることが慣習化している。ドライバーと交通警察の関係は本来協力的であるべきなのだが、速度違反については過剰取り締まりという思いがドライバーに強いので、「横暴な警察」に対抗する同志的な意識が強く働くようだ。一方、駐車違反の取り締まりについてはそのような互助意識はほとんど見られない。駐車場所の確保に関してはドライバーは相互に競合関係にあり、また、違法駐車による通行阻害という点からも、駐車違反の摘発には(自らがその対象でない限り)さほど反発がないからであろう。このことは、本来ドライバーたちの間にあるのは、協調よりも競合の関係であることを示唆している。

 では、ドライバーたちは何に関して競合的なのであろうか。車が本来の機能を果たすのは路上においてである。したがってドライバーは道路の使用を必要とする。道路は一般的には誰にでも使用が認められている。ただし、道路は純粋な意味での公共財ではない。混雑が生じるし、有料化も可能である(つまり、競合性も排除性もある)。それゆえ、共有地と同じように、誰でもがその資源にアクセス可能であることが、占有の問題を引き起こす。長期の占有(駐車)については法律的な規制で対応が可能である。ただ、動いている乗り物は道路の一部を一時的に占有するだけなので、全てを法的にルールづけるには煩雑すぎる。そこで、大部分は個人の意思決定にゆだねられ、必要ならば自生的なルールが発生することになるだろう。

 道路を資源とみなせば、ドライバーはその使用のために一時的・部分的に所有することになる。始原的な資源の所有は先取による専有である。道路においてはこのことが起こっている。道路上の空いている空間は最初に獲得したものの所有となる。ただし、資源が使用されても費消されない場合(例えば土地のように)、所有の継承がどのようになされるかのルールが必要となる。実は、この点に道路という資源の配分問題の本質がある。自動車が現に占有している道路の部分は既に配分が終わっているのであり、問題となるのは近い将来において占有を目指す部分なのである。それは車が動いているゆえに次々に占有の部分を変えていくからである。ただし、行列の順序を変えることなく単に各車が継続的に占有部分を移していくだけであるなら、資源配分の問題は起こらない。

 ドライバーたちの利害の対立は、空いている道路上の場所を誰が最初に取るかをめぐって発生する。そのような機会が発生するのは、状態の異なる複数の車の進路が重なる場合である。第一に交差点や合流点などにおける進路の交差、第二に同方向走行で速度の異なる場合である。

 交通における最も合意の高いルールは、交差点における信号による交互通行のルールであろう。このルールの合理性は理解しやすいし、信号が故障したとき具体的に明らかになる。この状況においてはドライバーたちはルールによって規制されることを望むのである。ただ、このルールを少し複雑にしているのは、進路変更する(左側通行の場合は主に右折する)車の存在である。交差点では直進車が優先される。青信号の間に右折する機会を得られなかった車は、黄信号の間にせねばならない。そのために直進車は黄信号で交差点に進入することは抑制しなければならない。しかし、青から黄への信号の変化を認識しても、制動距離の関係でそのまま交差点に進入せねばならない場合があり、ときには十分停止可能であっても突っ込むドライバーもいる。右折信号や時差信号などの仕組みは右折車と直進車が重ならないようにしているが、信号の変わり目の間隙を完全になくすことはできない。そのような問題点はあるが、交差点の信号ルールの必要性を否定するドライバーはいまい。

 脇道から主道への合流や、主道から脇道への右折などでは、交通量が多いのにもかかわらず信号がないことがある。それらの場所における明確なルールは、やはり直進車優先である。車の流れへ割り込もうとしたり、横切ったりしようとする車は、空きが生じるのを待たねばならない。信号がないために待ち時間が長くなり、渋滞をもたらすことがある。

 逆に、主道の渋滞により、脇道からの合流が難しい場合がある。この場合、脇道から合流する車に道を譲るのは、主道にいる車の善意とみなされている。それゆえ道を譲られた車はハザードランプによって謝意を表すことが慣習化している。

 しかし、善意にだけ頼っているのでは、渋滞時の合流問題を解決しにくい場合がある。渋滞している二本の道路が信号のない場所で合流するような場合である。どちらの道路にいる車に優先権があるのか分からないので、合流点で混乱が起きる。そこで、一台ずつ交互に進むという自生的なルールが発生する。このルールは明確化されてはいないが、一般的であるようだ。

 似たような状況として、車線減少のための合流によって起こる渋滞がある。この場合は手前でどちらかの車線に寄れという標示があるので、消滅する車線は空き、継続する車線は渋滞することになる。ところが、空いている車線を走って、渋滞の列の前方に割り込む車がいる。これは行列における「横入り」として忌避される行為のように思われる。しかし、合流の際に二つの車線の車が交互に一つの車線に入るのであれば、どちらの車線を選ぼうとかまわないはずである。そうなると、渋滞の列は二本になり、その長さは等しくなるはずだから、一本だけの列より渋滞の長さは短くなる。このことによって、継続車線に並ぶ車の渋滞の時間はさほど変わらないとしても、不公平感はなくなるであろう。ところが、このようなシステムは自生的には生じないようだ。行政的には一列に並ばせる方が安全その他の管理がしやすいので、そうした誘導が行われている。そのようにして出来た行列を乱すことには心理的な抵抗があるからであろう。

 さて、第二点の速度について。慣習化にまでは至っていないが、一部の人にはマナーとみなされているのが、追い越しの出来ない道での一定の速度である。制限速度とは別に、可能な速度の水準というのがあって、それから外れて後続車を停滞させる車は非難されがちである。もちろん、後続車に非難する権利などはないが、いらいらさせられるので、あおるまではしないまでも車間をつめたりする。この場合、先行車にはどこか適当な場所で後続車をやり過ごすという配慮が求められるかもしれない。しかし、そのような配慮は義務化も慣習化もされていないので、先行車にしてみれば後続車の傲慢と受け取られることもある。

 追い越しが簡単に出来るのであれば、前方の道路の占有という資源をめぐる競合は、速い車が優先するという、一種の「早い者勝ち」によって実践的に決着が着くであろう。これは高速道路のように追い越し車線がある場合に起こっていることである(ただしこの場合でも、追い越し車線を遅い速度で走る車の存在が問題になる)。道幅の狭い道路、見通しの悪い道路、車線変更禁止の道路では、先行車が実践的に占有権を持つことになる。今のところ、このような場合の資源をめぐる争いについては、明確なルールはないし、取引による解決も困難であるようだ。

 ここでルールと取引の関係について少し考えておこう。個々の当事者が自主的に事態の改善を図ることができるのであれば、そのためのルールを必要としない。たとえば、行列に並ぶ人たちが、自主的に自分の順番を交換するのであれば、当事者の効用は向上し、他の人にも迷惑をかけないから、全体の状態も改善される。この場合、より前の順番を得たい人はそれだけの必要性を感じていて、その人と代わってあげる人はさほどの必要性を感じていないはずである。しかし、順番を譲る人は行列の後方へ下がることで状態が悪化する。利他的な人であれば他人の効用の向上によって自分の不利益が償われると納得する。そうでなければ、順番を譲ってもらう人が譲る人の不利益を補償すればいいのである。ここに取引が成立する。

 ただし、取引は全く自由であるのではない。行列の場合でも、列に並んでいない人を自分の前に入れさせると他の人々の反発を生む。列の後方の人が不利になるからだ。列に並んでない人に順番を譲るなら、自分は列を離れなければならない。そうすれば後方の人の状態を変化させずに済む。つまり、外部性を生じさせない。

 ところで、前記の車の例にこのことを当てはめるのは難しい。車同士の交渉がしにくいし、順番の交代も物理的に難しい。不可能ではないが、時間と手間を食う。これが取引コストである。取引によって得られる利益よりも取引コストが高くなれば、取引は行われない。取引コストが高すぎる場合には、ルールによる状態の改善が期待される。

4 ルールと役割

 ところで、ルール(規則)と規制は別物であろうか。扱い方によっては同じとみなしてもかまわないのかもしれない。ここでは、それが守られるあり方を検討するために、性格が異なっていると考えよう。むろん、厳密な区別は難しく、接する部分では混ざり合い、どちらがどうかを弁別しにくいかもしれないが、核となる部分を定義づけることは可能だ。

 では、定義を試みてみよう。ルールとは、集団的行為が円滑になされるために、必要に応じて自発的に形成・承認された行動指針、ないしはその集合である。規制とは、ルールが守られないために生じる事象、あるいはルールによって生じる予期せざる事象の弊害を防ぐために、権威的に形成され、違反したときには罰則を伴う行動指針、ないしはその集合である。

 このような定義によって際立たせようとするルールと規制の違いの核心は以下のようである。ルールを守ることは、それによって得られる全体としてのメリットが、個々にとっても同じくメリットであることが理解しやすいのに対し、規制を守ることは、一部の人の不利益を防ぐために他の人の利便を制限するという受け止めがされやすく、全体のメリットが同時に個々のメリットになるということの理解がしにくい。

 交通ルールとしては、片側通行、交差点などでの信号順守、進路変更や速度低下の合図などがあげられよう。これらを無視して得られる個人的メリットは、それによって生じる個人的デメリットよりもはるかにわずかなので、ただ乗り行為でさえ抑制される。

 規制の例として、速度制限、進路変更制限、駐停車場所の制限をあげよう。これらの制限は、全体としてのメリットはある程度理解できるし、場合によっては個人的メリットを得られるが、多くの場合、無視することによって得られるメリットの方がはるかいに大きく思える。個別に適正な制限が不可能なゆえに一律に制限をするという、いわば過剰な制限となっていると受け取られているのである。

 代表例として速度制限を取り上げてみよう。車の安全上の問題の第一は速度であろう。各自がそれぞれの技量と必要に応じて最適な速度が出せればいいとしても、それが安全を保証するわけではない。ドライバーの判断に任せるとした場合、技量についての過信はあるだろうし、予測しえない事態への対応をどの程度考慮するかにも個人差がある。事故の結果をドライバーと同乗者のみが負うならばそれでもいいかもしれないが、交通事故の特質は他者を巻き込む可能性が高いことにある。それゆえ、ある事故率をやむを得ずに伴った効率性が基準とされるべきではなく、効率性を犠牲にしても事故率を下げることが求められる。ただし、事故率の低下のために効率性を損なうことには限度がある。そこには妥協がある。制限速度はその妥協の結果なのだ。

 問題は、現行の速度制限規制が安全性に重きを置きすぎて、効率性を阻害しすぎていると、ドライバーたちに感じられていることだ。彼らは、制限速度まで速度を落としても、安全性はさほど向上せず、失われる効率性の方がはるかに大きいと思っている。逆に言うと、制限速度を超過しても安全性はさほど低下せず、比較して大きな効率性の増加が得られると思っている。それゆえ、法定制限速度はほとんど守られていない。

 取り締まる側もそういう現状は承知していて、ある程度の速度超過は見逃している。厳密に速度制限違反を適用すれば、とうてい事務処理が追いつかない。むろん、速度計測の正確性への信頼という点から、許容範囲を設ける必要性もあるが、その点のあいまいさは法的に明確に規定すればクリアーできるはずである。

 つまり、明文化されない慣習が規則違反取り締まりのルールとなっているのだ。それはそれで、うまく運用されているのなら、現状を変更する必要はないと言えよう。法的な制限速度をはるかに超過する少数者を摘発し、ある程度の超過をする多数は見逃すことで、安全性と効率性のバランスをとる現実的な方策であるならば。

 しかし、警察の取り締まりは、計測上の誤差を独自に考慮した上での速度を使うので、恣意性は免れない。そこで、摘発されたドライバーは自分は運が悪いと思う。取り締まりは全面的ではなく部分的であるからだ。つまり、取り締まりの場所は限られており、その上、その場所で法定制限速度を越えた全員が摘発されるのでもない。ルールが尊重されるのは、そのルールによってもたらされる便益のゆえだけではなく、そのルールが公平に適用されているからでもある。

 ルールの適用の公平性については、ルールの解釈に個人差があることも関係してくる。ルールや規制というのは基準を明確にして解釈の個人差をなくすことを目的とするのであるが、その適用が恣意的であればやはり公平さを欠くものになってしまう。ルールが漠然としていて、それについてのサンクションを誰がするについても明確ではないとき、ルールの守り方にもばらつきが生じる。資源配分が行列(早く並んだ者に優先権が与えられる)によってなされる場合を考えてみよう。具体的には、郵便局や銀行や商店における決済サービスを受けるとか、交通機関に乗り込むとかを想定する。行列での第一のルールは横入り(割り込み)の禁止であることは、誰しも認めることであろう。横入りを認めてしまえばそもそも行列など成り立たない。誰もが我先にと突進して混乱が生じてしまう。だが、このルールも微妙なほころびが生じる場合がある。列に並んでいる人が知人などを自分の前後に入れてしまうことがある。それが禁止されているのかはあいまいなところがある。合意が成立するためには、それを見た人が、注意するか容認するかの態度決定をすればいい。ただ、注意すれば対立や摩擦が生じ、そのことによる心理的身体的コストが、自分の前に並ぶ人が増えたことによる便益の減少よりも大きければ、人はやむを得ず容認するであろう。極端な場合には、ルール無視を当然視する人が横入りしても、その人とのトラブルを回避するために容認してしまうこともある。このようなときあえて注意をする人は、自分の損得勘定よりも、ルールを守ること自体に価値を置く人である。

 車の場合に横入りに相当するのは車線変更であろう。ただし、車の場合は、法的に明確に禁止されていなければ、車線変更は可能である。しかし、車が行列のように並んで走っている(車間距離が少ない)とき、その間に入るのは横入りとみなされてしまうだろう。車線が減少するとか合流するとかで、車線変更がやむを得ないと認められる場合には、その意思表示(ウィンカー)に答えて場所を譲るのが求められるであろう。しかし、その場合でも、あらかじめ十分な車間を見つけるなどの適切な動作がなされていなければ、横入りのようにずるいと受け取られる。たとえば、先方で車線が減少すると分かっているのに、列の後方に並ばずにあえて前へ進んでぎりぎりで割り込み、時間短縮をはかるドライバー。このような行為を強引にすることで利益を得ようとするドライバーに対しては、他のドライバーが出来るサンクションはせいぜいクラクションを鳴らす程度のことでしかないので、無視しうるのだ。ルールを破っているのか巧妙に立ち回っているのか、言い換えるとずるいか合理的か、立場や考え方によって見方が分かれるかもしれない。

 少ない車間距離でも割り込むのは、高度な運転技術のゆえかリスクを無視のゆえかについても意見は分かれる。つまり、技量や見識の差という問題がある。技量や見識が劣る人に対しては、叱責のサンクションがなされる。たとえば、商店のレジでもたつく客に対しては、後に並んだ人が舌打ちをしたりする。このようなサンクションに対して、賛成する人もいるのである。車の場合には、あまりに車間距離を空けすぎていると思える場合や、速度が遅すぎると思える場合に、このようなサンクションがなされる。後ろの車による「あおり」である。わざと車間距離を縮めてせかすのである。しかしこれは危険な行為でもあるので、脅しにもなる。

 ルールの解釈と適用の個人差はサンクションの問題を複雑にする。

5 サンクションと慣習

 サンクションとは、慣習や規則(ルール)や規制などを守らせるために、違反した場合には否定的な評価あるいは罰が、順守した場合には肯定的な評価あるいは報酬が、集団のメンバーから与えられることである。

 交通規制が十分に守られない背景には、速度制限などの交通規制の一部が守らなくても罰せられないどころか、守ることの方がサンクションを受けやすいという状況がある。たとえば、青になって少し発進が遅れただけでもクラクションを鳴らされるように、素早い反応が他のドライバーから要求される状況では、交通規制を厳密に守ることの方が困難となっている。正しいサンクションが適切になされなければ、規制やルールは守られなくなる。

 ただし、交通規制を厳密に守ることによって得られる効果を評価しておくことは大切であろう。交通事故の減少による利益と交通規制を守らせるための費用を勘案するのはもちろん、交通規制遵守の徹底によって失われる利益も考慮されねばならない。考えられるのは、速度の低下などの非効率性によって、生産や消費における受益の減少がおこるのではないかということだ。

 それでも国民の合意によって、交通規制の徹底が好まれるのであれば、規制遵守のための方法が検討されるべきである。まず考えられるのは警察による取り締まりの強化であろう。しかし、警察力の強化にはかなりの費用がかかり、それを回収しうるだけの効果は期待できそうにない。規制は遵守されるようになるだろうが、交通事故の減少などによる利益と比すれば、効率的とは言い難いであろう。

 では、教育や罰則強化などのドライバーへの働き掛けはどうだろうか。教育は重要であり、その点は後述する。罰則強化については、違反の摘発が適切に行われなければ効果は薄いであろう。

 したがって、警察に頼らずに違反の摘発を増やすためには、相互監視の体制が必要となると思われる。しかも、ドライバー相互のサンクションを、無視し得ないものにしなければならない。違反の罰則の適用を、ドライバー相互で行われるようにすべきである。そこで車載カメラの活用が考えられる。車載カメラによる違反の記録を証拠として公式に認めるようなシステムを作り、ドライバーによって告発された違反者に罰則を課せられるようにするのである。

 むろん、そのような告発をする動機をドライバーが持つかは疑問である。自分が不利な目にあわないための防衛手段としてならあえて告発も厭わないかもしれない。しかし、単に違反を目撃しただけなら、わざわざ時間と手間をかけて告発するような人は、よっぽど規制遵守にこだわる人だけであり、数はごくわずかであろう。では、相互監視のシステムを有効にするにはどうすればいいであろうか。警察力の不備を民間の力で補おうとする場合、犯人逮捕の協力に対して賞金を支払うことがある。交通規制違反についても同様のことが考えられる。このことが交通規制違反について有効であると考えられるのは、適切な賞金水準であれば、賞金稼ぎというプロが発生すると予想されるからである。

 交通規制違反が日常茶飯事であるならば、それを見つけて通報することはたやすく、数をこなして生計をたてることも可能となる。一般の人は、告発に伴う手続きの煩雑さや、告発された人の反発などを考慮して、たとえある程度の額の賞金が得られるとしても、実行をためらうであろう。プロになれば、事務手続きをルーチン化したり、被告発者への対策を立てるコストを吸収できる。

 問題は、彼らが生計を立てるためには一定の数の交通規制違反が常に存在していなければならないことだ。交通規制違反が激減して見つけることが困難になれば、賞金稼ぎたちは失業してしまう。賞金稼ぎたちがいなくなれば、交通規制違反は増加する。そうなると、賞金稼ぎが復活する。このようなサイクルがなめらかになって、あるところで均衡するのかもしれない。

 もうひとつの問題点は、賞金稼ぎたちが被告発者と個別取引をする可能性である。賞金より高い金額を払っても違反の罰を逃れようとする人間はいるだろう。賞金稼ぎたちもその機会を逃すことはあるまい。それを防ぐのは難しい。しかし、それはそれである種の抑制とはなる。賞金稼ぎが脅迫や偽証などの犯罪に走るのではない限り、そういう取引を認めてもいのかもしれない。ただし、そういう取引を行い得る財力のある人間が常に違反の罰から免れるということは、一般の人には受け入れ難いことではあるだろう。

 負のサンクションが厳しい集団は、相互監視という環境により、緊張を強いることになる。しかし、負のサンクションを気にするということは、ルールや規制を逃れる機会を常にうかがうことからくる。ルールや規制に常に従っていれば、負のサンクションを恐れることはない。ただし、ルールや規制に常に従うことは、個人的なメリットを得る機会を見出してもそれを活用せず、常に放棄することである。そういうことを可能にするためには、デメリットを相殺するメリットが必要となろう。

 ところで、利益を最大にするために、絶えず機会をうかがい、メリットとデメリットの差を勘案し、実行を決断し、結果を検討することにはやはりコストがかかる。しかも、そのような行為の結果は必ずしも好ましいことにはならない。

 具体的な例で考えてみよう。歩行者が信号のある個所で道路を横断しようとするとき、信号に従うかどうかを決定するために以下のような要素がかかわってくると考えられる。

  1. 急いでいるかどうか:何かの用事で急いでいるときは、信号を無視する傾向が強くなる。
  2. 交通量:車の通行が頻繁であれば、信号無視の横断はリスクが高い。逆に、車の通行がないのに信号に従うのは馬鹿らしく思える。
  3. 道幅:道幅が広ければ渡りきるまでに車に遭遇する確率は高くなる。狭い道ならそのリスクは低い。
  4. 他の人の行動:同じように道路を横断しようとする人々の中に、信号を無視する人が何人かいれば、それに同調することができる。「赤信号、みんなで渡れば怖くない」というわけだ。信号無視の歩行者が多ければ、車の方でもそのことを考慮に入れた運転をするようになるであろう。
  5. 他者のサンクション:非難のまなざしや、叱責の言葉などは、信号無視をためらわせる。その時は無視しえても、その経験が以後の行動に影響する。
  6. 警察官の存在:権力や権威に楯突く覚悟がなければ、強力な抑制となる。
  7. 習慣:交通信号を守ることが習慣づけられていれば、信号無視は忌避される。
  8. 性格:ルールや規制を守ることは好ましいと感じる人は、信号を守ることを苦としない。

 このような様々な要因があるにもかかわらず、常に信号を守るということは、事故による損失のリスクを大きく評価して、時間というコストを支払うことである。リスクの可能性が低い場合にはコストが過剰になる。しかし、個々の行為のリスクを常にその都度考慮するのにもコストがかかる。したがって、最も好ましい結果をもたらすような行為の型を踏襲することによって、このようなコストを軽減するのが適切である。行為をルーチン化するのである。慣習はこのようにして形成されると考えられる。行為の得失は環境によって左右されるが、同じような環境であればほぼ同じ結果が得られると期待される。結果のわずかな差異は無視しうる。たとえ他の方法を取ればよりよい結果を得られることがあったとしても、慣習によるコストの軽減の方が、長期的には有利であるだろう。

 したがって、ルールや規制を必ず守るという態度は、必ずしも非合理的とはいえない。このような態度は融通がきかないとか、堅いとか言われて敬遠されることもあるが、一方、態度の一貫性(誠実性)によって評価される。態度の一貫性が長期にわたって保持されれば、それは性格として認識され、それ自体が(正や負の)サンクションの対象となる。これこそが交通安全教育の目指しているものといえるだろう。

 何度も述べたように、歩行者として常に信号を守ることは合理的ではないかもしれない。しかし、常に信号を守る人は、ルールや規制を常に守る人として評価される。逆に、信号を無視する人は、自分の利益のためにルールや規制に従わない人として警戒を呼び起こし、場合によっては負のサンクションを受けるかもしれないのである。

6 なぜ車に乗るのか

 人はなぜ車に乗るのだろうか。移動というのが目的なのは明らかなように思える。早く、楽をして、遠くへ行きたいからだ。では鉄道や飛行機とはどこが違うのか。車は、道さえあれば、どこへでも行ける。決められた時刻や経路に合わせるのではなく、好きなときに好きなところへ。

 それはもっともなことだ。車とは移動の手段だからだ。移動というのがある地点から他の地点に移ることであるなら、途中経過はできるだけ短いに越したことはない。けれども、私たちは当てもなく移動することもある。移動することそれ自体を楽しむために。

 また、車とは財産であり、ステイタス・シンボルであり、美的鑑賞の対象であり、棲家であり、歴史や思い出の担い手であり、ライフスタイルの実現手段である。交通というのは車の機能のほんの一部分にすぎないのだ。

 したがって、車には情緒的な側面が大きな部分を占めているのは当然だが、それが車社会に与える影響についても考えてみよう。

 車が他の交通機関と違う最大の点は、乗車者(ドライバー)自らが操作をすることである。運転というのはやっかいなことであるが、大きな魅力でもある。自動車を思うように扱うことには、自らの技量を誇れることや、自らの能力が拡大され、支配できる領域が拡張されたような気分が含まれているのだ。たまにではあるが、私もそういうことを感じることがある。自分の感覚が車の大きさにまで延長され、ハンドルやアクセル、ブレーキによる操作が何も経由しないで直接車体に伝わり、まるで手足のように動きが一体化するのだ。古いたとえで言えば人馬一体、言い換えれば人車一体の状態。そういうとき、車を走らせること自体が楽しみになる。

 私たちは車に乗ることで他にもいろいろな体験を得られる。素晴らしい風景の中を走る感動、スピードの爽快さ、同乗者との一体感、困難を克服することの晴れがましさ、競争に勝つ高揚感、等々。時には失意を癒してくれさえもする。悲しみや絶望にさいなまれながら一人車を走らせているうちに、勇気とまではいかないけれどそれに似たような思いがひそかに湧いてきて、帰って眠って忘れて、新しい朝を迎えようという気になる。道路というのは感情の苗床でもあるのだ。

 しかし、そのことが他者の存在を忘れさせてしまうことにもなる。車の中で充実し、孤立することによって、他の車は単なる路上の障害物でしかなくなる。私たちは車に乗ることで全能感のようなものを抱けるのだが、それは世界が車を走らせる素地となってくれるからだ。世界はドライバーにとって自己を確信させてくれる受身の抵抗のようなものだ。ところが、自分と同じような意思を持って介入してくる他の車の存在は、自分一人のものであるこのような世界を壊してしまう。不倶戴天の敵という言葉がある。ドライバーは世界を共有出来ないのである。

 車社会の一メンバーにすぎないということは、ドライバーでないときの自分に戻ってしまうことであり、せっかく車に乗ることで獲得し得た特別な地位が否定されてしまうことなのである。ドライバーが怒りやすいのはそれゆえなのだ。実は、怒るということは、他の車には自分と同じドライバーが乗っているということを認めることなのだ。そのことは十分承知していながら、他の車が単なる物体でしかなく、意思ある主体は自分だけだという幻想で自分を包み込んでいるのだ。単なる物体でしかないとすれば、そんなものに怒りを向けても仕方がない。幻想が破れてしまうからこそ、怒りが生まれる。玉座から転がり落ちたけれども、なおそれに未練を持っているというのが怒りの意味である。

 ドライバーは子供に似ている。車という親の保護のもとで全能性を謳歌しているのだが、それが侵されると泣き叫んで抗議するのである。子供が大人になるように、他の車と協調して車社会を形成するためには、車との一体感が与えてくれる幸福をあきらめなければならない。妥協と譲歩という回り道によって自分の利益を追求していく忍耐が必要となるのだ。

 怒りはドライバーに特有なものではないが、ドライバーに特有の怒りというものはあるかもしれない。ドライバーは車に守られている。車を降りて個体として対決するような恐れがないのであれば、怒りに基づく行動を抑制する必要性が薄れてしまう。ドライバーたちが怒りを表現しやすいのはそのせいもあるのだろう。そういう意味でも、車は怒りを助長してしまう可能性があるのだ。

 だが、ドライバーの怒りの発現を抑えることが車社会の運行を円滑にするかというと、それほど単純ではない。感情を抑制した合理的判断だけでは対処が難しいことがあるのだ。実は、怒りはサンクション支える重要な要素である。合理的な判断だけではルール違反をとがめる動機にはならない。確かに適切なサンクションは交通社会全体のルールの保持には有効であろう。そのことで個々のドライバーは利益を受けるであろう。しかし、だからといって、そのことが個々のドライバーが自身でサンクションを起こすことにはつながらない。サンクションには様々なコストがかかる。特に、相手からの反撃の恐れがあるときなどはコストの見込みが大きくなる。自身の損得のみを考慮するならば、ルール違反を見逃すことになっても、サンクションを控えた方がよいという判断が妥当な場合がある。さらに、サンクションの利益はただ乗りすることができるのである。自分がしなくとも、他の多くの人がしてくれれば、サンクションは依然として社会的に有効であり、その効果を自分も受けることができるのだ(ただし、みんながそのようにすれば、サンクションをする人はいなくなってしまうのだが)。だとすれば、コストがほんのわずかであっても、サンクションは控えられてしまうだろう。しかし、怒りはそのようなコストを無視させることができる。

 ルール違反に対する怒りは、自分が不利な扱いを受けたときだけに生ずるのではない。たとえば、何かの列に並んでいるときに横入りをされたとしよう。自分の前でそういうことがなされたのであれば、順番が遅らされたという直接的な利益の侵害に対して怒りを覚える。しかし、自分の後ろでそういうことがなされたのなら、直接的な影響はないが、それでもルール違反に対して怒りを感じるのだ。このような、いわば第三者的な感情があるからこそ、当事者として権利を侵害されていなくとも、ルール違反者にサンクションを加えることができるのだ。

 いずれにせよ、怒りは行動を促す。合理的な判断としては、怒りによる行動の結果の利益がその行動にかかるコストよりも小さいならば、たとえ他者の行動が不当と思われてもそれを是正しようとするのは妥当ではない。しかし、怒りの感情はそのような合理的な判断を乗り越えてしまう。

 ずっと以前の経験であるが、こんなことがあった。私はターミナル駅で折り返す電車を待って列に並んでいた。電車が入ってくると、列の外にいた二人の不良っぽい若者が列の前に割り込もうとした。それを誰もとがめないので、私は「ちゃんと並びなさい」と注意した。二人は私に詰め寄った(暴力は振るわなかった)。並んでいた人々は私のトラブルには一切関与せず、そのとき着いた電車の席を求めて我先にと乗り込んでしまった(私は彼らの助力を期待していたのではないが、そのような露骨な利己主義を残念に思った)。通りかかった何人かが間に入ってくれたので、二人は私を解放した。結果的に、私もその二人も席を確保できなかった。私は、黙っていればたとえ二人が前に入っても席を確保できる順番にいた。その二人にしても私の言葉など無視して電車に乗ればよかったのに、怒りに駆られて私に向って来てしまった。

 つまり、怒りは往々にしてその主体にいい結果をもたらさない。だから、怒りを感じても、合理的な判断の忠告に従って、行動に結びつけるのを抑止することが多い。けれども、怒りが大きければ、そのような判断でも防ぎきれなくなる。怒りが常にその主体に不利な状況しかもたらさないのであれば、怒りっぽい主体は進化的に淘汰されてしまうはずである。怒りの感情が私たちに残されているのは、進化的に意味があることなのだろう。それは、社会にとって好ましいからだという集団選択的な理由からだけではなく、怒りの主体にとっても個人的に好ましいことでなければならないだろう。統計的に見れば、怒りは割に合うはずだ。

 それは、私怨にも公憤にも当てはまることだと思われる。自分の利益を守るために怒らないものは、他者に搾取されっぱなしになるだろう。ルールを守るために怒らない者は、決してルールを保持することはできないだろう。

7 自動運転

 自動運転の実用化が視野に入ってきている。自動運転は安全運転に寄与することは間違いあるまい。しかし、その実施にはクリアーすべき多くの問題点があると思われるので、そのいくつかを検討してみよう。

 最大ではないにしても最も困難な問題は、事故が起きたときに誰に責任を負わせるかである。機械としての車は責任はとれない。では、ドライバーだろうか。しかし、彼は運転を車に任せていたのだから、責任を負おうとはしないだろう。だとすれば、車の製造者と道路の管理者の争いになるのだろうか。

 事故が起こってしまうと予測された場合、自動運転車は当然回避の行動を取る。たとえ回避できなくても、被害を最小限に抑えようとするだろう。しかし、それが配慮するのは誰の被害だろうか。自動運転のプログラムについて厄介な例を考えてみよう。以下は、分かりやすくするために無理に作ったような例だが、このような状況は典型的な形ではなくとも現実にありえるはずである。

 向かい合って近づいてきた二台の自動車が、衝突が避けがたいと予測したとしよう。二台とも正面からぶつかれば双方の乗客は重傷を負う可能性が高い。二台とも側面を向けてぶつかれば双方の乗客の怪我の程度はかなり軽くなる。しかし、一台が側面で、もう一台が正面でぶつかった場合、側面の方の乗客は死亡する確率が高く、正面の方の乗客は軽傷で済む確率が高い。このような状況が想定されるとき、どのような運転がプログラムされるべきであろうか。

 これは「囚人のジレンマ」状況である。お互いに側面でぶつかれば事故の被害は低く抑えられる。しかし、相手の車が正面からぶつかってくる可能性があるならば、最悪の事態を避けるためには、こちらも正面からぶつかるようにプログラムしなければならないであろう。当然、相手もそのようにプログラムされているはずだから、結局、二台の車は正面衝突することになり、お互いに側面でぶつかるよりは被害は大きくなってしまう。

 どのようにプログラムされようと、まず当該車の乗客の安全が第一であり、相手方の車の乗客の安全を優先するわけにはいかない。お互いの車がコミュニケートし合って、最適の行動を取るようにプログラムすることはできるかもしれない。しかし、平等な結果が確実に保証されない限り、有利な行動を取ろうとするのは当然であり、極端な場合は誤った情報を提供することもありえるかもしれない。

 このことは対歩行者の場合にも考えられる。歩行者を守るために、乗客に重篤な被害を与えるような行動を車に取らせるべきであろうか。あるいは、乗客の被害を少なくするために歩行者を犠牲にすべきだろうか。極端な選択として次のような状況が考えられる。ケースAでは、歩行者も乗客も死んでしまう。ケースBでは、歩行者は死ぬが乗客は死ぬまでには至らない。どちらのケースを選択すべきだろうか。

 このような困難さを考えれば、事故が起きるような状況では、自動運転のプログラムは衝突を避けるための一定方向への回避と適度なブレーキ操作といったような単純なものになってしまうかもしれない。あまり緻密な操作をプログラムすれば、そのことで責任を生じさせてしまうかもしれないからだ。

 事故以外の問題点としては、交通法規との関係が大きいだろう。まず制限速度との関係である。当然、自動運転では法定の制限速度を守るようにプログラムされねばならぬはずだ。しかし、実際には制限速度は守られることはほとんどなく、制限速度ぎりぎりで走っても遅いと嫌われるのが実情である。現状の法定制限速度のままであれば、自動運転の速度に不満なドライバーは手動運転で追い抜こうとするだろう。(速度制限を守る)自動運転の車が増えれば、手動の追い抜き行為も増えて事故の可能性は高まる。また、追い抜かされることが多ければ、自動運転を解除して自分も追い抜こうとするドライバーもいるだろう。結局、自動運転の車は少なくなってしまう。

 では、自動運転が安全性を高めることを理由に、制限速度を上げるべきであろうか。そうすると、自動運転ではない車の安全性が問題となる。自動運転の車とそうでない車の混在という状況が問題を複雑にする。そこで、制限速度を二重にして、自動運転車を手動運転車よりもかなり早く走れるようにすることも考えられる。そうすれば、自動運転車は手動運転車を無理なく追い越せるし、手動運転車が自動運転車を追い越すことはなくなる。当然、速く走ろうとするドライバーは自動に設定するであろう。自動運転車どうしは同じような速度で走るから、追い越すことはない。

 もし、自動運転での速度設定にバラつきがある場合には、追い抜きをどのように扱うかが問題になろう。先行車を追い抜くとき、制限速度を越えぬままであれば時間がかかり、安全性が低下する。追い抜きの場合は制限速度を一時的に越えてもいいようにするプログラムはゆるされるべきなのか。そうでなければ、追い抜きは難しくなり、やはり自動を嫌って手動にするドライバーが増えるかもしれない。

 手動運転の制限速度を低く設定することのマイナス面は、車を(手動で)速く走らせることの楽しみが失われることだ(それはそもそも自動運転に内在している欠点でもある)。全体の安全のために手動運転での速度を厳しく制限することまで容認されるべきかという問題は残る。

 ところで、将来的に車が全て自動運転になったときのことを考えてみよう。このとき、速度制限は不要になるであろう。それぞれの車は好みの速度(車の性能いっぱいまで無制限というのも可能)設定で、コンピュータが安全に運転してくれることが期待できる。ただし、天候や路面状態などの偶発的な事象のゆえに事故が起こることはありうる。また、車同士の接触や衝突を防ぐためには、ウィンカーやクラクションでのコミュニケーションでは時間的にも量的にも不足であり、車同士がお互いの意思を迅速に確認し合う手段が必要となるであろう。

 そのような性能の車ならば、ルールや規制は不要になるであろうか。つまり、お互いに意思を伝え合うことができれば、コンピュータは適切な行動を選択することができるであろうか。

 少なくとも、譲るということが出来なければ、コンピュータ同士は効率的な交通を達成できないに違いない。合流や追い越しにおいては適切な空きスペースがなければ渋滞が発生してしまう。また、もし何らかの理由で(そうプログラムされるかもしれない)強引な割り込みがなされたら、それを防ごうとするか譲るかによって、車の流れは違ってくるだろう。自分だけの有利さを追求するような「自動」車の集まりでは、効率的な車社会を形成できないであろう。

 交差点での信号をなくすことも可能と思われる。速度、交差点までの距離、直進か曲がるかなどの情報をお互いに交わすことで、衝突を回避しながら通過すればいいのだから。しかし、その場合でも、何らかの指標(たとえば、速度と交差点までの距離によって、到達する順序をつける)によって優先権を認め、それを尊重して速度を調節する必要がある。

 つまり、車(のコンピュータ)がルールを守らねばならないのである。もし、車同士がルールを作ることが可能なら、そして、ルールの裏をかくようなことを抑制できるなら、全てが自動でなされるだろう。それが無理なら、人間が細かいルールを定めてプログラムする必要がある。

 他の考えとしては、車に独自の判断を認めず、総合的・統一的なコントロールのもとに置くシステムの方が好ましいとされるかもしれない。コントロールが全面的であるか、部分的であるかによって違ってはくるが、車独自の行動は制限される。場合によっては、速度も中央・中枢によって制御されるかもしれない。出発地、経由地、目的地、到達予定時間などを選択するのみで、後は「自動」的に走行するのみということになるかもしれない。

 それは個々の車が「自動」走行するのと変わりはないように見える。しかし、ドライバー(と呼べるか疑問だが)にとっては大きな違いだろう。中央・中枢によってコントロールされているとき、個々の車は車集団の中の一つの要素でしかなく、特に重視されることも軽視されることもなく、全体の流れに埋没してしまう。一方、個々の車が判断主体であるときは、むろん他の車との協調のために行動が制限されることは認めねばならないとしても、状況の中で自己にとって最善と思われる行動を選ぶことができる。それが結果的に中央・中枢によってコントロールされているときより劣った効果しかもたらさなかったとしても(あるいは結局は同じ行動になったとしても)、自己決定ができるということが重要なのだ。それは自由の感覚である。

 そのことは、私たちがなぜ車に乗ることに惹かれるかの、一つの要素の説明になっていると思われる。私たちは車に乗ることで、(車)社会の中で自由であることを体験できるのだ。車という限られた属性(単純さ)が、ドライバーたちをほぼ平等にすることで、一般社会が理想とする集団の中での自由を実現しているのだ。それが失われてしまえば、車に乗ることはバスや列車や旅客機に乗ることと同じになってしまう。車というのは自由で民主的な共和国の市民なのである。

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