井本喬作品集

さまようケータイ

 その娘が事務所に入ってきたとき、山名は机の上にあった紙を手に取り目を向けた。その紙に書かれてあるのは山名の食生活を気づかって美枝子がプリントアウトした簡単料理のレシピだった。むろん山名はそんなものに興味はなかった。訪ねて来た依頼者に、客を待ち構えているような印象を与えたくなかっただけなのである。このビジネスにおいても信頼されるのは適当に多忙な人間なのだ。

 しかし、美枝子が取り次いでいる間に、山名は紙を机の上に戻し、来客の娘を見つめた。そんな演技をする必要はなかったし、客に興味を持ったことを隠すという原則も放棄してしまった。娘は若すぎた。Gパンに白いブラウス。二十歳にはなっているのだろうか、もしかすると高校生かもしれない。

 キャビネットの陰の応接セットに娘を座らせた後、美枝子は山名の机の傍まで来て、声を低めて言った。

「さっき、電話をかけてきた女性です」

 山名は立ち上がって数歩先の応接セットのところへ行き、娘の向いにすわった。娘は立ち上がって頭を下げた。山名は単刀直入に切り出した。

「私は山名です。お名前をお聞きしてもいいでしょうか」

「かまいません。川上弥生と申します」

「二十歳になっていますか」

「いいえ、まだ」

「ご両親とは相談なさいましたか」

「母はいません。父には内緒にしておきたいのです」

「ご親戚の方とか、先輩とか、先生とか、誰か成人の方が依頼者になってくれればいいのですが」

「誰にも知られたくないことなのです。おカネならあります」

「そうですか。では、こうしていただけませんか。お話はお聞きしますが、内容によってはお引き受けできないことを承知しておいて下さい。それでいいですか」

「かまいませんが、ご迷惑はかかりませんか」

「面倒なことになりさえしなければ。で、ご依頼の内容は」

「母のことで調べてほしいのです」

 たぶん、さんざん迷ったあげくに決心したのだろうが、もはやためらう風はなかった。山名はそうですかという表情をして先をうながした。

「母は死んだのです。あの電車事故で」

 大騒ぎになった事故が起こってからまだひと月もたっていない。何十人も死んだその大きな事故のことは、山名も報道をフォローしていた。しかし、同情や事故の状況への興味は話を長くする。この娘はそういうことは望んでいまい。ビジネスライクにして早く本題に入ってもらった方がいいだろう。

「母は早い段階で病院に運ばれましたが、即死に近かったようです。最近になって、母の遺品のケータイが戻って来たのですが、そこにある着信記録とメールの中に、誰のものか分からないのがありました。その人間を探してほしいのです」

「直接、問い合わせることはされないのですか」

「したくないのです。それに、しても無駄なような気がして」

「なぜですか」

「相手がちゃんと答えてくれないと思うんです」

 山名はだいたいのことがつかめてきた。この娘がどのような経路でそういう考えを抱くようになったかをたどってみることにしよう。彼女の判断が間違っているかもしれない。

「メールの内容は」

「ここにメモしています。ケータイの記録は消去しました」

 娘は手帳を開いて見せた。メールは、どうしたのか心配している、連絡がほしい、というもので、着信は事故が起こってだいぶたった時間になっている。その前には何度か電話の着信記録がある。

「なぜケータイの方は消してしまったんです」

「父に見せたくなかったんです。ケータイは私が受け取って、先に見ました。父に見せる前に、消しました」

「あなたは、これをよこしたのが、男の人だと思っているんですね」

「そうです」

「なぜ、そう思うんですか」

「あの日、母は友人の方と一緒に出かけると言っていました。しかし、後でその人に聞くと、そんな予定はなかったというのです。父も私も母があの電車に乗っていることを知りませんでした。母のことは、警察からの連絡で知ったのです」

「お母さんが、あなた方に嘘をついていた、と。それだけでお母さんを疑うのですか」

「それだけではありません。母の様子がおかしいとはずっと思っていました」

「具体的には、どういったような」

「外出が多くなりました。しかも、できるだけ私たちに知られないようにしていました。それに、ケータイの着信が多くなって、私たちの前では応答しないようにしていました」

「そのことの理由をお母さんに聞いてみましたか」

「友達と一緒に出かけるのだと言ってました。季節ごとの花や何かを見に行くのだと」

「そういう趣味は以前にはなかったかのですか」

「花は好きでした。でも、そのために出かけるというようなことはほとんどなかったのですが、最近は、少し余裕ができたからと言って」

「そういう方は多いですよ」

「母はカメラを持って行かないのですが、ときどきケータイに花だけを写したのを見せてくれました。でも、一緒に行かれた方の写真はありませんでした」

 山名はもう一度彼女の手帳を見た。

「この着信時間だと、事故からだいぶたっていますね。もし、お母さんが誰かと約束があってあの電車に乗ったのであれば、もっと早い時間に問い合わせの電話やメールがあるはずですね」

「母があの電車に乗っていたことを知らなかったのでしょう」

「それにしても、約束の時間に会えなければ、連絡を取ろうとするでしょう」

「約束の時間がもっと後だったのですわ。母は何かの用事をすませてから、会うつもりだったのです」

「お母さんに悪く解釈しすぎていませんか。お母さんを疑うべき何の具体的な証拠もないのでしょう。それに、お母さんは亡くなられておられるのですし」

 娘は山名の口調に懐疑的な響きを感じたようだ。

「そういう調査は出来ないというのなら‥‥」

「待って下さい。私も商売ですから、ご依頼される方の意向は尊重します。しかし、一つだけ聞かせて下さい。相手が誰かが分かったなら、あなたはどうするつもりなのですか。こんなことは探偵として聞くべきことではないのです。調査の結果をどう使おうと、たとえ悪用されても、私には関係ないことです。でも、あなたに関しては、後のことが心配です」

「私は知りたいだけです。相手の男を突き止めたからといって、その人を脅したり、危害を加えたりするつもりなどありません。そんな馬鹿な真似をして、自分を滅ぼす気はないです。私は、母が何をしていたか知りたいのです。疑ったまま、この先ずっといるのは嫌です。もし母が父以外の男の人と付き合っていたなら、そのことを確かめたいのです。母の気持ちは理解できないでしょうけど、母がそのために死んだ、相手のことを知っておきたいのです。それが母を冒涜することにはならないと思います」

「分かりました。調べてみましょう。でも、難しいですよ」

「相手の電話番号が分かっています」

「犯罪が起こったのでなければ、警察や電話会社は所有者を明らかにはしないでしょう」

「だからここへ頼みに来たのです」

 山名は前屈みにしていた上体を起こして背もたれにもたれかかり、ひじ掛けにひじをついて手をあごに当てた。

「たとえ私たちでも電話番号の持ち主を調べるのは無理ですよ。他の方法を考えなければ。ご近所や友人関係、行きつけのお店とかに話を聞きに行ってもよろしいですか」

「それは避けてほしいのです。母のことを傷つけたくはない」

「では、この番号だけを手がかりして調査しろと」

「そうです」

 山名は考え込んだ。娘はじっと待った。

「電話とメールは別人という可能性もありますね。この電話番号にかけてみましたか。あるいはメールを送ってみましたか」

「何もしてません。下手に電話すると相手を警戒させてしまうと思いましたから」

「お母さんが亡くなられたことはこの番号の持ち主には分かっているのでしょうね」

「新聞にも名前が載ったから当然知っているはずです」

「その後、向こうから電話とかメールは来てませんか」

「一切ありません」

「では、少し立ち入った質問をさせて頂きますが、調査に必要なことなので、お答え頂ける範囲で結構ですから、お願いいたします」

 山名は娘から、家族構成、経済状況、住んでいるところの環境などをあらまし聞いた。

「お母さんはどんな方でしたか」

「どちらかと言えばおとなしい性格でした。暗いというのではありませんが、派手とかにぎやかな方ではなかったです。父もそうなので、似た者夫婦だったのですが」

「あなたとは性格がだいぶ違っていたようですね。あなたとの関係はどうでしたか」

「私は母が好きでしたし、母も私を愛していてくれました。ちょっとしたことでケンカをすることもありましたが、そんなことはどこの家庭でもあることでしょう」

「お父さんはこのことについて何もご存じないのですね」

「何も知りません。父には内緒にしてください。このことに巻き込みたくはありません」

 山名は再び体をのり出した。

「お母さんが一緒に出かけるといっておられたお友達には話をさせてください。理由は適当に作ります。それで分かるかもしれない。しかし、最終的には、お母さんのケータイを使って呼び出すしか方法はなさそうですね。おっしゃる通り、相手は警戒しているでしょう。だが、あなたならどうでしょう」

「私が。どう言えばいいんですか」

「お母さんから亡くなる前に聞いていたとか言えば、相手は乗ってくるかもしれない」

「嘘をつくのは嫌です」

「実際にあなたにやってもらう必要はない。あなたの名をかたって誰かにやらせてもいいのです。そういうことはご承知下さいますか」

「それも嫌ですが、それしか手段がないのであれば」

「もっとも、相手が既にケータイを処分してしまっていたなら、この方法も駄目です。そうなると、手の打ちようがないですが」

「その場合は、仕方ありません」

「では、名刺をさしあげておきましょう。ケータイの番号も載せてありますので、緊急のときはそちらに連絡してください」

 娘は山名の差し出した名刺を手に取って眺めた。山名は問うた。

「経過の報告とか、ご相談したいときなどは、どうやって連絡をさせていただければいいですか」

「私のケータイにかけて下さい。メールでも結構です」

 便利な世の中になったものだ。夫が妻を、親が子供を管理するのはよほど困難になっている。

「では、費用の説明をさせていただきましょう。ご了解頂けたなら、調査に取りかかります」

「しっかりした子ですね」

 娘が帰った後で美枝子が言った。

「表面が冷静なだけ、危うさを感じるな。何をしているか、本人もはっきり分かっていないのだろう。今のところ具体的な対象がないので感情が表面に現われてはいないが、母親の相手が誰だか分かったら自制できなくなるかもしれない。それが身近な人間だったりしたら、特に」

「断った方がよかったのではないですか」

「断っても、他のところへ行くだろう」

「相手が誰か分かったら、教えますか。いっそのこと、分からなかったと言ってやれば、あきらめるのではないですか」

「何もせずに嘘はつきたくないな。母親の電話相手が男とは限らないだろう。案外何でもない関係の人間かもしれない。とにかく調べてみよう。結果を報告するかしないかは、そのときになって考えればいいだろう」

 山名は川上弥生のメモのコピーを手に取った。

「これだけが手がかりか」

「でも相手の人間がこの番号のケータイを持ち続けているとは限らないでしょう」

「たとえその人間が母親の不倫相手だったとしても、たぶん、まだ持っていると思う。なぜそう考えるかというと、第一に、この人間は犯罪をしているわけではない。だから、電話会社はプライバシーを守って、送信者が誰であるかを公開しないと期待できる。第二に、この人間は、事故で死んだ女性のケータイが壊れてしまったと考えているかもしれない。メールのメッセージはサーバーには届いたが、そこに留まったままになっている。死んだ人間の契約は破棄されるだろうから、メッセージは誰にも見られない可能性がある。第三に、それらのことを考え合わせた上で、ケータイの契約を新たにし直すのは不便であり面倒あるから、そのまま従来の契約を維持したいと誰しも思う。番号を変えてしまうのはいろいろ支障がある。しかし、もし不審な電話やメッセージが入れば、この人間は警戒してそのケータイを使うことをやめるだろう。そうなると、この人間と我々をつないでいる唯一の絆が断ち切れてしまう」

「そうしてしまってもいいのではないですか」

「いやにこだわるね。依頼者の要望を無視するつもりかい」

「お母さんは亡くなったのだから、そっとしておいてあげればいいのに」

「母親を疑うと同時に、母親の潔白を証明したいという気持ちがあるのだろう」

「たとえ疑いが当たっていても、母親にも理由があるはずでしょう」

「人にはそれぞれやってることの理由は当然ある。だが、それが分かったからといって、容認出来るかはどうかは別だ」

「あの年齢では、母親に男がいることを容認するのは難しいでしょうね。どんな理由があろうとも」

「男と女の関係の理由は一つだろ」

「セックスですか」

「女性の場合は、もっと情緒的ではあるだろうがね。女性にとってセックスは不倫の原因ではなく結果なのだ。多くの女性は青春を過ぎてもロマンチックな部分を残している。現実とは違う何かを常に期待していて、しかしそんなことは起こらないとあきらめていたが、たまたまそういうことが起こってしまった。男の方がそれに値するかどうか分からないが」

「相手はご主人とは違ったタイプでしょうか」

「不倫にふさわしい相手のタイプというのはあるのかな。もしセックスだけが目当ての男なら、死んでしまった女に未練はないだろうが、愛というようなものが付随しているなら、呼びかけに反応してくる可能性は高い。ところで、君は十代の女の子に変身できるかい」

 高原夫人は私を応接間まで案内し、ソファに座るよう勧め、自分も向いに座り、玄関で私の渡した名刺に改めて目をやった。大きな子供がいるにしては若く見える。赤いシャツに白いスラックスという服装のせいかもしれない。顔立ちも派手で髪の毛も豊かである。山名が用件を切り出そうとすると、彼女は言った。

「どこの保険会社の関係ですか」

 私は適当に名前を挙げた。実際に保険に関する仕事はするので、辻褄は合わせられるのである。

「先程も申しましたが、奥様もよくご存じでしょうが、川上様の奥様があの事故で亡くなられまして、保険金をお支払いすることになったのですが、そのことでちょっとお聞かせ願いたいのです」

「調べるようなことはあるんですか。事故だということははっきりしてるじゃありませんか」

「はい、さようですが、鉄道会社の賠償金のからみとか、事故特約の割増金とかで、書類上の手続きがありまして。ほんの形式的なものなんですが、揃えておきませんと。それと、この調査のことはご遺族の方には内密にお願いしたいのですが。いい気がなされないでしょうし、交渉に支障となるとまずいので」

「面倒なのね」

「まあ、雇われていながらこんなことを言うのは何ですが、保険会社も勧誘するときは甘いことをいいますが、いざ支払うとなるとなかなか渋いですからね」

「保険に入るのも考えものね」

「まあ、安心料みたいなもんですから。早速ですが、あの事故のあった日、奥様は亡くなられた川上様とご一緒に出かけるご予定だったのが、突然キャンセルの連絡があったということでございますね」

「そうよ」

「どこへお出かけのご予定でしたか」

「あのときはツツジとシャクナゲを見にY寺へ行くつもりだったのよ」

「キャンセルの連絡はいつ頃ございましたか」

「前の日だったと思うわ」

「理由は何かおっしゃっておられましたか」

「体調がすぐれないと言っておられたようね」

「では、当日は奥様もお出かけにならなかったのですね」

「いえ、出かけたわ。予定を立ててしまっていたから」

「お一人でお出かけになったのですか」

「そうよ」

「Y寺へ」

「そうよ」

「事故のことはいつお知りになりました」

「帰って来てから、テレビのニュースでよ」

「それは何時頃でしたか」

「何でそんなことをお聞きになるの。そんなことが保険金の支払いに関係あるの」

「あ、これは失礼しました。もしかして事故当日に奥様が川上様とご連絡を取られたどうかをお聞きしよう思いまして」

「連絡はしていないわ」

「事故を知った後も、ですか」

「そうよ」

「当然ですね。奥様は川上様が外出されたことをご存じなかったのですから」

 高原夫人はそれには返事しなかった。山名は念押ししてみた。

「川上様がどこへ行こうとなされたか、お心当たりはございませんか」

「ないわ」

「川上様はご家族の方には奥様とご一緒するとおっしゃっていたのですが」

「そうらしいわね」

「当初の川上様とのお約束では、どこで待ち合わせをされることになっていましたか」

「N駅よ」

「いつもそうでしたか」

「いつもって」

「よくご一緒されていたのでしょう」

「そうね。大体はN駅にしていたわ」

「今度のようなことはありませんでしたか」

「今度のようなって」

「キャンセルとか、すっぽかされたとか」

「そうねえ」

 高原夫人は思い出そうとするように目を宙に向けた。そのまま何か考えているようだった。質問の妥当性を検討するような間を与えてはまずいので、山名は思い切って押してみることにした。

「実は、川上様はご家族には内緒で行動されていたようなフシがあるのです。何もそのことをほじくり返して、保険金支払いの交渉に使おうというつもりはさらさらありません。それとこれとは別なことですからね。ただ、われわれは川上様がどこへ行こうとしてあの電車に乗られたのか、それを知っておきたいだけで。まあ、今回の事故に関しては詐欺ということは考えられませんが、会社の規定の確認項目を埋めておかないといけませんので。ご家族の方には決してお知らせしませんから、ご存じなら教えていただけませんか」

 高原夫人は机の上に置いた山名の名刺をわざとらしく再び取り上げて眺めた。

「あなた本当に保険会社の関係」

「保険会社に雇われています」

「じゃあ、あなたに依頼した人間を教えて。会社に確かめてみるわ」

「ええ、いいですよ。担当者がいるといいんだが」

 山名は住所録を見るような振りをして手帳をくった。適当な名前を教えて、電話を受けた方が要領を得ないであちこちたらい回しにしてくれれば、何とか誤魔化せる。しかし山名は考え直した。この相手は手強そうだ。これ以上の情報を得るには、手を変えた方がよさそうだ。

「申し訳ありません。保険会社は関係ありません。でも、怪しいことをしているのではないのです。ご依頼主は、川上様のご家族なのです。そのことをできるだけ隠すように言われていますので、やむを得ず」

「名をかたったのね。それじゃあ、川上さんの家族の話も怪しいわね」

「確かめていただけるといいんですが、そうしますと、こちらの面目が潰れますので。ここまで正直に申し上げたのですから、信用していただけませんか」

「ご家族が川上さんのことを調べておられるの」

「そうです。奥様の当日の行動がお知りになりたいようで」

「ご家族の方は全く見当がつかないの」

「ええ、心当たりがないようで」

「何で知りたがるの。そんなこと、今となってはどうでもいいことじゃない」

「ご家族にしてみれば、気になるようです。そのために亡くなられてしまったのですから」

 高原夫人はなおもしばらく考えていたが、遂にしゃべり出した。

「本当のことを言うと、川上さんと一緒のことはほとんどなかったわ。というより、そういう約束だったのよ。彼女が一人で出かけるときのアリバイになってあげていたの。あの日もそうだった。だから、彼女がどこへ行くつもりだったかは知らないわ。ただ、行き先については口裏を合わせていたけど」

「では、事故の日も、最初から別行動で、予定が変わったわけではないのですね」

「ご家族から問い合わせがあったとき、とっさに約束がキャンセルされたと言ってしまったの」

「川上様は誰かに会いに行かれたのでしょうね」

「たぶん、そうでしょ」

「相手の方についてはご存じないですか」

「知らないわ」

「川上様から何か聞かれたこともございませんか」

「彼女は何も話してくれなかったわ。私も悪いと思って、聞かなかった。」

「相手は男の方と思われたのですね」

「まあ、そう考えるのが自然よね」

「それほどご協力されていたのに、事情を教えてもらえなかったのですか」

「感謝はしてくれていたわよ。いつか何かでお返しをするからと言って」

「謝礼とかは」

「そんなもの貰うわけないでしょ。友達なのよ。もう、いいでしょ」

「は、だいたい」

「他に何かあるの」

「最後に一つだけ。川上様が会っておられた相手の方の電話番号とかメールアドレスはご存じないでしょうか」

「知ってるわけないでしょ」

 私は川上の娘です。母の日記があります。処分するつもりでしたが、これを書いた母の気持ちを思いますと、あなたにお渡しすることが母の遺志のような気がいたします。父はこのことを知りません。ご返事を下さい。

 

 お母上様のご不幸、お悔やみ申し上げます。お問いあわせの件ですが、どのような内容が書かれてあるのかは存じませんが、生前お見知りおき頂いたお形見として頂戴したいと思います。お譲り頂く方法をご連絡下さるようお願い申し上げます。

 直接お渡ししたいと思います。都合のよい日時と場所をお知らせ下さい。

 明日の午後2時、U公園のハーブの丘の頂上のあずまやでお待ちしています。

 ご足労をおかけします。行かせて頂きます。

 上記のようなメールのやり取りがあった後、山名は美枝子に言った。

「どうやらひっかかったようだな。いよいよ君の出番だ」

「相手は娘さんのことを知っていませんかね」

「会わせるようなことはしていまい。しかし、写真ぐらいは見せているかもしれないな」

「背格好は同じようなものですけど、顔は全然違いますよ」

「雰囲気だけでいい。借りた写真にできるだけ似せてくれ」

「日記というのはどうします」

「下手に小細工しない方がいいだろう。やっぱり処分してしまったと告げろ」

 二人は場所の下見に出かけた。公園はいびつな楕円形で、境界に沿って幅のある道路が周回している。その道路から派生する小さな道が周の中の広い領域を縦横に行き来できるようにしている。ハーブの丘というのは、公園の中央の池の傍にあり、いろいろな種類のハーブだけが植えられている。なだらかな斜面には邪魔する建物や木がないので見通しがきく。丘に登りながら、山名は美枝子に注意した。

「まさかとは思うが、見張られているかもしれないから、キョロキョロしてはいけない。散歩に来たアベックのような振りをしろ」

「どうしてここを選んだのでしょう」

「さあ。デイトに使った思い出の場所なのかもしれない。それほどロマンチックでなければ、逃げやすい場所にしたのか」

「都会の雑踏の方がまぎれこみやすいと思うんですが」

「逃げる者がまぎれこみやすいと同時に、追う者も隠れやすい。人が多いと不安なのだろう」

「所長はどこにいるようにします」

 山名は頂上からの眺望を楽しむように辺りを見回した。近くに身を隠すような物陰はない。しかもこの丘には周囲の林から何本も道が通じていて、相手がどこから来てどこへ去るのか見当がつけにくい。

「後をつけられるぐらいに近づくのは難しいようだ。公園の入口は南北二つあるから、分担して出てくるところを見張ることにしよう。ここへ来るにはバスしかないから、車を使うだろう。タクシーを待たせておくかもしれない。君も車を持ってきてくれ」

 翌日、美枝子は出来るだけ若い振りをして約束の場所に来た。山名は丘の裾の夾竹桃の林の中に隠れて望遠レンズ付きのカメラを構えた。

 約束の時間に男が現われて美枝子に話しかけた。山名のいるところとは反対側から来たらしく、美枝子の傍へ来るまで山名は気がつかなかった。柄物のシャツにベージュ色のズボン、帽子をかぶりサングラスをかけているので顔が分からない。山名は写真を何枚か撮った。美枝子との間で少し会話をした後、男はもと来たらしい方へ消えた。山名はカメラをショルダーバッグに入れ、丘を迂回して走った。美枝子は駐車場への最短の道へ駆け下りた。

 山名は南口で待った。男は出て来ない。途中で変装していることも考えて、それらしい背格好の男にも注意していたが、該当するような男はいなかった。山名は北口にいる美枝子に電話した。

「どうだ」

「現れません。そっちはどうですか」

「こっちもだ」

「他にどこか出るところがあるんでしょうか」

「あったのかもしれないな。調べてみよう」

 車で公園の回りを探った。公園は高い柵で囲われていた。幹線から外れた道が公園に沿っているところに、普段は使われていないような門があった。門の扉は二メートルばかりの高さがあったが、中程に足がかりになるような出っ張りがあり、容易に乗り越えられそうだった。山名は車を停めて降り、公園の見取図を広げた。

「この入口は載っていないがこの辺だな。あの男が降りた道はどれだ」

「この道です」

「すると、こうたどれば、ここへ通じる」

「ここから出たんでしょうか」

「たぶん」

「車をここへ停めておいて」

「あるいは、誰かに拾ってもらった」

 山名は見取図をたたんでポケットにしまい、美枝子に言った。

「どんな話をした」

「お母さん、つまり川上夫人とは友達だったが、それだけのことで、あなたが心配するようなことは何もなかった。一緒に映画や展覧会に行ったりしただけ。趣味が同じだったから親しくなった。あの日も一緒に展覧会に行く約束をしていた。あんなことになってしまったのは申し訳ない。責任は感じている。しかし、素性を明かすのは勘弁してほしい。そんな内容でした。テープを聞きますか」

「後にしよう。日記についてはどうだった」

「処分したと言ったら、ああ、そうか、という反応でした。あまりこだわりってはいないようでした」

「どんな男だった」

「何だかガサガサした感じの男でした。少なくとも、ロマンチックな相手とは言えませね。川上夫人はなぜあんな男と付き合うようになったのでしょう」

「顔は分かったか」

「鼻と口しか見えませんでしたから」

「その人間を見たら分かるか」

「自信はありません」

「まだ何かあるの」

 今回は部屋へ上げてもらえなかった。玄関で山名は高原夫人に説明した。

「その後の経過をご報告しておく方がよろしいと思いまして」

「別に聞かなくていいわよ」

「それが、そちら様にも関係することでして」

「どういうこと」

「この写真を見ていただきますか」

 山名が示した写真を見て、高原夫人は明らかに動揺した。

「ご安心下さい。私は恐喝などいたしません。これをカネにしようというのではないのです。ただ、確かめたいことがあるだけで。少し長くなりますが、立ち話でよろしいですか」

 高原夫人はようやく前回の応接間へ通してくれた。山名はU公園でのいきさつを話した。

「失礼でしたが、私は同業の仲間に依頼して、その日のそちら様の行動を調べてもらいました。これも職業上の勘というやつで。そうしたら、案の定、ある人と一緒にU公園にいらしたのですね。その人の素性もその仲間が調べてくれましたよ。ご心配なく、その仲間も信頼できる奴で、汚いことは決してしませんから」

 高原夫人はどう対応すべきか見当をつけかねているようだった。

「別に悪いことをしているわけではないわ」

「そうでしょうか。この男もたたけばだいぶホコリが出そうですけど」

「痛くもない腹を探られるというやつだけど、面倒は嫌ね。交換条件は何。事実が知りたいだけだというの」

「川上夫人に電話とメールをしたのはあなただったのですね」

「そうよ」

「川上夫人には不倫相手などいなかった。けれども、あなたはそれを作りだそうとした。私たちの目をそらすため。何を隠しておられるのです」

「本当に秘密を守ってくれるなら、話してもいいわ」

「約束します」

「保証はなしね。いいわ、もしあなたが約束を破ったなら、あなたが脅迫したと警察に届けるから。そういう種類の仕事をしている相手なら、警察も私のことを信じるでしょうよ」

「私には前科はありませんよ。いいでしょう、私もトラブルは避けたいから、あなたの条件を受け入れましょう」

「では、教えてあげる。あの日、川上さんとある集まりに行くつもりだったの。彼女が来ないから、電話とメールをしたのよ」

「何の集まりですか」

「ある結婚相談の会社がやっている、集団お見合いというか、男女の出会いの場」

「それに参加していらしたんですか。でも、あなた方は結婚してらっしゃるじゃないですか」

「そうよ。だから、隠しておきたかったのよ」

 高原夫人から聞いたことを、川上夫人の娘には告げるが、高原夫人の家族には秘密にすることで、この一件は片づいた。川上弥生に報告をすませた後、山名と美枝子は事務所で缶ビールを飲みながら事件を振り返った。

「高原夫人と川上夫人は、インチキな投資話に乗って大損したのだ。そのことは二人とも家族には内緒にしていた。二人はカネを取り戻す交渉をしていたのだが、交渉相手からまた違った金儲けの話を提供されて、せっぱ詰まっていたこともあってそれに乗ってしまった。結婚相手を紹介するという、これもインチキな事業のようだが、そこの集団見合いの数合わせに出席して、かなりの日当をもらうのだ。この手の集まりには年配の男が多いから、中年の女性というのは貴重なんだ」

「それも詐欺じゃないですか」

「損を取り戻そうとして、目がくらんだんだな。簡単なバイトのつもりで。売春するわけではないからと、そういう風に罪の意識を薄くしていたんだろう。しかし、それを目的に参加する人間もいて、二人も勧められていたようだな。もっと儲かるからと」

「出会い系サイトで金儲けをする女子高生と同じじゃないですか」

「さすがにそこまではしなかったようだが」

「そのことを隠すために、高原夫人はあんなお芝居を仕組んだのですか」

「どうも高原夫人は全てを話してはいない。彼女の果たした役割はもっと大きかったような気がする。川上夫人に投資を勧めたのは高原夫人ではないかな。ひょっとすると、詐欺を働いた連中とつるんでいたのかもしれない。川上夫人の不倫相手の役割を演じた男は、その集まりで知り合った男だと言っていたが、詐欺仲間の一員かもしれない。高原夫人がケータイを二つ持っていること自体が怪しい」

「一台は表向きの、もう一台は秘密の用件用ですか」

「そうだ。高原夫人は秘密が多すぎた。後で事故のことを知っても、川上夫人の家族と連絡を取りづらかった。川上夫人と二人だけで遊びに行く予定だったのなら、もっと早く彼女のことを心配しなければならなかったはずだからね。だから、会う約束などしていなかったと嘘をついてしまった」

「でも、自分の家族には川上夫人と一緒だったと言っていたんでしょう」

「その辺は何とか誤魔化したんだろうな。高原夫人も混乱して、よく考えることなくとっさに嘘をついたのだろう。ずっと嘘をついていたから、どこまで嘘をついていいか分からなくなってしまったのだ。事故のニュースを聞いたとき、川上夫人が集まりに欠席していたので、もしやと不安になってケータイを使って川上夫人に電話をかけ、メールを送った。しかし、川上夫人へのメッセージを自分が送ったことを認めれば、秘密のケータイのこともバレてしまうので、知らないと言わざるを得なかったのだ」

「高原夫人は、私たちが送ったメールが罠だったことは分かっていたんですね」

「そうだ。高原夫人は私の訪問したことでメッセージの送信者が男だと思われていることを知った。それで、いっそ、そのことを利用して、隠し通そうとした。つまり、川上夫人に男がいて、自分は彼女のアリバイ作りに協力したということにしておけば、二人が一緒に出かけた先を調べられることはないだろうと考えた」

「それで男を使って下手な芝居をさせた。所長は高原夫人のことにいつ気づいたのですか」

「最初に高原夫人に話を聞きにいったとき、おかしいと思った。普通なら、追い返されても当然なのに、丁寧に応対してくれたからね。向こうも情報を得ようとしているのが分かった。彼女が何かにからんでいるのは間違いなさそうだった。それで、念のため彼女に尾行をつけておくことにしたのだ」

「川上夫人のご主人は損失のことは知っていらしたんですね」

「たぶん、夫人が亡くなっていろいろ整理したときに気づいたはずだ。娘には黙っていたのだな」

「高原夫人がもっと賢い対応をしていれば、川上弥生さんも悩むことがなかったのに。でも、お母さんへの疑惑が晴れてよかったじゃないですか」

「あまり喜んでいる風ではなかった。むしろ期待はずれみたいな感じを受けた。それも分かるような気がする。あんな下らないことのために命を失ったというのでは、納得がいかないだろう。不倫の罰という方が死を受け入れやすかったかもしれない」

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