いまさら、サルトル?
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自由について考えてみよう。
何をいまさらと言われそうだが、きっかけはリチャード・セイラーの2017年ノーベル経済学賞受賞である。彼の著書『実践行動経済学 健康、富、幸福への聡明な選択』(キャス・サンスティーン共著、2008年、遠藤真美訳、日経BP社、2009年)を読んでみて、相変わらず続いている振り込め詐欺への対応について思い当たることがあった。
リバタリアン的な立場からは、振り込め詐欺の被害を防ぐために、被害者とはならないであろう他の人々(振り込め詐欺に十分対処できるであろう人々)にコストを課すのは、正当化されない。コストの例として、銀行での引出額や振込額を制限するとか、その手続きを複雑にすることなどがあげられる。では、そのような対策をとることによって被害を防げるかもしれない人々について、リバタリアンはどう考えるだろう。むろん、自己責任であると言って突き放すのである。そういう被害にあうことによって、それを教訓として、人々は学ぶ。被害にあった人や、被害にあう可能性があった人が学習していけば、被害はいずれ減少し、最終的には詐欺は成り立たなくなるだろう。ちょうど、裁定取引の進行によって裁定の機会が消滅していくように。もし、騙され続ける人がいたとしても、その人の財産がなくなれば、詐欺も集結する。そのような人は財産を保有する資格がなかったのだ。
むろん、騙す方も学習するから、詐欺の手口は常に変化し巧妙になり、一つの手口の被害による教訓を得ても、違った手口によって騙されるということが起きる。だとしても、これほど被害情報がメディアによって取り上げられているのに一向に被害がなくならないということは、騙されやすい人が一定程度存在するということを現わしているのではないか。そういう人々を自己責任ということで放置してもいいものだろうか。
セイラーの著作の原題は『ナッジ』であり、その意味は「注意や合図のために人の横腹を特にひじでやさしく押したり、軽く突いたりすること」(2頁)である。セイラーはナッジ的な政策の必要性を次のようなことに求めている。
個人は様々なケースで、もし十分な注意を払い、完璧な情報をもち、非常に高い認識能力を備え、自制心を完璧に働かせていたなら、なかっただろうと思われるような間違った意思決定をする。(17頁)
それを防止しようとするのがナッジ的な政策であるが、単なる規制や強制一本鎗ではなく、自由な意思決定にも配慮する。つまり、ナッジ的政策には、パターナリズム的な面とリバタリアン的な面の両方を備えているのだ。
「人々がより長生きし、より健康で、より良い暮らしを送れるようにするために、選択アーキテクトが人々の行動に影響を与えようとするのは当然である」――これがわれわれの戦略のパターナリズム的な側面である。(16頁)
「人は一般に自分がしたいと思うことをして、望ましくない取り決めを拒否したいのなら、オプト・アウト(拒絶の選択)をする自由を与えられるべきである」――このストレートな主張がわれわれの戦略のリバタリアン的な側面である。(16頁)
ナッジ的な政策は自由な選択への介入については慎重であるが、実際の政策、たとえば振り込め詐欺対策においてはパターナリズム的な面が重視されることになりやすい。これは微妙な問題である。ある種の人々の安全を守るために、それ以外の人々の自由を制限することがゆるされるのか。むろん、ある人の行動が自由の名のもとに他人に損害をもたらすような場合には、自由への干渉がゆるされるということには合意があるであろう。しかし、自分の行動が他人に害をなすわけでもないのに、そのような行動が自由にできるということによって犯罪の被害を受ける人がいるというだけの理由で、その行動が制限されるということは、どうなのか。
繰り返すが、リバタリアンは反対するであろう。自由と自己責任は切り離しがたい。自己責任を免れることを認めれば、自由は制限されてしまう。自由の代償は、いかに大きくとも、自由の価値に比べれば無視しうるものである。
自由に対するこのような崇拝と信頼は、なぜか私にサルトルを連想させた。リバタリアンとサルトル。この組み合わせは奇妙であるし、不適切でもある。資本主義の評価に対して両者は対立する。しかし、革命をしようが金儲けをしようがそれぞれの勝手とはいえ、自由を神聖不可侵であるとみなすことにおいては立場は同じではないのか。だとすれば、自由主義が勝利したこの時代に、サルトルが、少なくとも『存在と無』(1943年)については、再評価されるべきと思える。
しかし、そうはならないだろう。サルトルの主張はもはや時代遅れなのだ。
サルトルを批判した者たちが勝利したとは思えない。社会、経済、文化の解明と変革について、マルクス主義、フロイト主義、構造主義、ポストモダンなどの諸思想が期待外れに終わり、捨て去られていった。私たちに残されたのは、しぶとく生き残った自由主義だけのようである。むろん、民族主義や宗教的熱狂のような集団現象は目立つのだけれど、それは地方的なものにとどまっている。だとすれば、自由についてあれほどこだわったサルトルの思想がなぜ生き残れなかったのか。たとえ後期サルトルのマルクス主義への接近が災いしたとしても。そこで、現在の状況を理解する手掛かりとして、サルトルが提示した人間の自由についてもう一度考えてみることにしたい。
ところで、いまなぜサルトルなのかというと、全く個人的な興味からなのである。一個人としての歴史の終わり近くにあって、今いる場所に至った経路を振り返ってみると、岐路と思える地点がいくつかあるのに気づく。そういう地点で出会った本の一つがサルトルの『存在と無』である。もはや単なる古典でしかないこの本が、かつて読者に(つまりは、私に)どういう影響を与えたのか、そして、その力を失ったのはなぜかということを、検討してみたくなったのだ。いわば、まだ清算を済ませていない懸案事項の解消の試みである。
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結論を先に言ってしまえば、サルトルの自由の概念がなぜ有効でなかったかは、二つの観点から指摘することができる。
一つは、意識の限界である。人間行動の全てが意識によってカバーされているというのは、常識的には明白である。意識を失えば、反射的な反応は別として、人は行動できなくなる。それゆえ、意識は、行動の全てについて、たとえ支配しているとは言えなくても、関与しているはずである。サルトルの説もそのような確信に基づいている。しかし、意識が関与できていない行動の領域があるとすれば、意識をいくら詮索してみても、行動についての適切な理解は得られないだろう。人間行動に関するそのような科学的知見がサルトルの説の誤謬性を明らかにしてしまった。
もう一つは、サルトルの属していた知的エリート層の限界ということである。大衆化とか、グローバル化とか、情報化とか言われるような傾向が、知的エリート層の機能を変化させてしまった。これは、知的エリート層とみなされる人々が変化したとも、知的エリート層の社会における位置が変化したとも、あるいはその両方が同時に起こったとも考えられよう。このような変化は、知的エリート層の特殊性に支えられていたサルトルの自由の概念を失効させてしまった。
まず、意識の限界について見ていこう。サルトルの理論の中心にあるのは、意識の主体性に対する絶対的な信頼である。意識がなくても人間は生存できるかもしれないが、意識なしでは何も知ることはできず、意志的な行動もできない。そして、意識に主体性がなければ、世界について、また、自分自身に関して何を言えるだろうか。それゆえ、サルトルは、物質に規定された意識(マルクス)とか、無意識の行動(フロイト)という主張に対しては強く反対する。これを表現している文章は『存在と無』の中にいくらでも見つけられるが、手っ取り早く『唯物論と革命』(1946年)から引用してみよう。
これに反し、もしも、弁証法をもって物質世界の発展の様態をあらわすものとし、意識をもって――それが弁証法と完全に同一化するなどとは思いもよらぬこと――「存在の反映」、部分的産物、綜合的進展の一契機にすぎぬとするならば、さらにまた、意識なるものは、自己生成に内部から立ち会うのではなく、意識外に根を持つ感情やイデオロギーにより外部から浸透され、したがって、それら感情やイデオロギーをつくり出すのではなく、たんにそれらに屈従するものだとすれば、そのとき意識とは、初めと終わりとがはるかにかけはなれている鎖の中の一つの環にすぎなくなる。そして、鎖ぜんたいでない以上、意識が、その鎖について確かなことを何一ついえるわけがないではないか。(多田道太郎訳)
背理法的に、意識は「確かなことを‥‥いえる」のであるから、意識の主体性は当然のことであるとサルトルは主張する。サルトルにしては粗雑な文ではあるが、それだけ彼の考えがよく分かる。意識は「存在の反映、部分的産物、綜合的発展の一契機」ではないのであるから、全体的かつ主体的なものでなければならない。また、意識は「感情やイデオロギー」と区別され、そういうものに「立ち合い」、あるいは、そういうものを「つくり出す」、何かなのだ。
むろん、サルトルは意識が、そして意識による行動が、無限定的であるなどとは言ってはいない。人間のできることは限られている。しかし、それでも人間は自由を保持しているのであり、それは意識の主体性によって保証されている。
事実において実践のこの二つの要求、すなわち主体が自由であるということと行為する世界が決定されているということとのあいだには何ら矛盾はないのである。なぜならこの二面がそれぞれ要求されるのは異なった観点からであり、異なった現実に関してだからである。すなわち自由は人間の行為の構造であり、参加の中にのみあらわれるが、決定論は外界の法則なのである。(同)
サルトルによれば、自由が保証されるのは、人間存在がいかに限定的であろうとも、選択が可能であるからだ。身体的に拘束されていようとも、感覚的・情緒的に誘導されていようとも、利害によって操作されていようとも、意識はあるべき自己であることを選べるのだ。あるべきと思われる自己を選べなければ、それはそういう自己を選んだということなのだ。
しかし、そういう極端な状況でなく、もっと普通の場合で考えてみよう。そもそも選択とはどういうことであろう。二つ以上の選択肢の中から、ある基準によって、最も適切なものを選ぶことと言えよう。同じ状況においては、選択されるものは常に同じになると考えられる。もし、それらの状況において選択がランダムならば、選択の基準というものはなく、何を選ぶかは勝手気ままということになる。自由ということをそのようなものだと解釈するのであれば、選択における悩みはなくなる。あるいは、そもそも選択などは必要なくなる。選択における自由を問題にするのであれば、私たちは何がしたいのか、あるいは何をすべきかが分かっていなければならない。
ところが、サルトルが意識の説明に用いている「対自存在」は、当事者的な関心を欠いた第三者であるかのようである。それは、「即自存在」(欲望や欲求や感情などが属する)の状態を認知し、状況から可能性を読み取り、行動として実現化する。つまり、意識は何をなすかについては無関心であるが、何ごとかをなしうることにおいて自由である。
ただし、もう少し厳密になるべきだろう。意識があまりに無内容すぎるのであれば、選択の主体としては理性が適切なのではないか。理性ならばなすべきことを示せるであろう。いや、理性を持ち出すのはまだ早すぎる。理性という言葉はあまりに多くを含みすぎる。意識の形式性を明確にするために、合理性という言葉を使おう。合理性を対費用効果の考慮とみなせば、選択における行動形式である。たとえそれが宗教的行動であろうと、犠牲的行動であろうと、形式としては合理的でなければならない。
意識を合理性と言い換えてしまうことによって、何が変わっただろうか。自由というのが外部的な条件になってしまうのだ。選択の機会が与えられれば合理性が働き、選択の機会がなければ合理性の働く余地がないというだけでしかない。
そこで、「ビュリダンのロバ」について考えてみよう。二つの同じような干し草のちょうど中間に(同じ距離に)いるロバは、どちらの干し草を食べに行くかの判断を下せず、結局餓死してしまうという仮説である。いろいろな見方ができるが、ロバは選択において自由であるが、そのことが行動を保証するのではないとも解釈することができる。実は、この状況は選択を必要としないのである。どちらの行動も等価値であるならば、選択は偶然にまかせればいい。サイコロ投げで決めればいいのだ。選択とは、どちらに価値があるかを判断することから生じる。その判断に迷いがないとき、つまり、合理性が働けるとき、選択は必然である。逆に迷いがあるとき、つまり、合理性が無力なとき、選択の主体は自由を感じざるを得ないのではないか。選択の主体は何をしていいか分からずに選択を強いられる。どちらを選んでもいいという意味で、選択の主体は状況から遊離し、それ自身において自由である。
サルトルの自由はこれに似ている。即自存在が価値を決められずに選択を対自存在に任せるならば、対自存在は気まぐれな選択が可能になる。どんな価値づけも可能であるということは、価値の序列が存在しないと同じことになるのだから。
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合理性は形式ないし手段でしかなく、行動の内容ないし目的を示してくれはしない。もし意識が合理性であり、目的が内在化されていないのならば、外部から目的が与えられなければならないだろう。
一方、対自存在はあるべき自己に向かって「投企」する。目的を内在化している。それがどこから由来し、どのような内容であるかについては、『存在と無』の中には何も述べられていない。対自存在はそういうものだと言うだけである。
では、行動の目的はどのように立てられると考えるべきか。効用を指標とするのも一つの方法であろう。しかし、ある行動がなぜ効用をもたらすかについては謎のまま残されている。ある人々にとって望ましいことが、他の人々にとっては望ましくないことの説明は、便宜的、ご都合主義的である。なされた選択が効用を極大化したものであるという後づけでしかない。
このことの困難は、意識を行動の窓口とみなすことから来ているのではないか。行動は意識にのみ媒介されていると決めつけてしまっているせいではないのか。たとえ意識が、単なる傍観者ではなく、行動に関与しているとしても、主体ではなく、補助者でしかないのではないか。そうだとしたら、行動の意味を探らねばならない対象は別に求めなければならない。
意識は主体的な役割を持っているのではないという見解は、サルトルではなくても、経験的事実に反するように思える。しかし、意識自体が個体の一機能にすぎなく、意識はそれが属する個体のことをほとんど知らないのであるとしたら、意識の主体性についての経験的事実そのものを疑う必要があるだろう。
では、行動を支配するのは誰なのか。意識の他に何かあるのか。意識のない行動主体を、一部の人が使っているように、ゾンビシステムと呼ぶことにしよう。ゾンビシステムはどのようなことができるのか、あるいはできないのかを検討することで、意識の機能というものを理解するように努めてみよう。
ゾンビシステムには感覚や、欲望とか欲求とかは備わっている。ゾンビシステムは合理性を備えているだろうか。欲望や欲求を満たすために、手近な対象に働きかけるという意味では、合理的であろう。同じような対象が手近にあるのに、わざわざ遠くまで出かける必要はないからだ。では、手近な小さな価値の対象と、遠くの大きな価値の対象があるとき、どちらを選ぼうとするだろうか。手近なものを断念して、わざわざ遠くへ行くだろうか。価値の比較が可能であるならば、場合によっては遠くてもより大きい価値を選ぶのはゾンビシステムでも可能と思われる。その意味で、ゾンビシステムは合理性を備えているはずだ。
では、ゾンビシステムがビュリダンのロバの立場に立たされたらどうだろう。ゾンビシステムには選択が可能であろうか。感覚では価値の相異が判断できないとき、いかに合理的であろうとも、ゾンビシステムは決定を下せないのではないか。
そこで、意識を持ち込んでみよう。では、意識はゾンビシステムに何を付加してくれるのか。ゾンビシステムは自立した体系であり、当面は欠けているものはない。不足しているとすれば、それは感覚外の情報であろう。意識は現在という次元を離れ、過去と将来に情報を求めるのである。
過去については記憶を使うことができる。意識はワーキング・メモリと同一視される。短期記憶を中・長期記憶に変換すること、また、記憶を想起することにおいて、意識が重要な役割を果たしているのは当然であろう。その結果、意識において、過去の記憶が現在の情報と比較されることになる。記憶という情報を追加することによって、感覚のみからの情報による評価を修正しうる。
未来については、起こりうることの想像(シミュレーション機能)が使われる。様々な情報を組み合わせて、将来の状況を予想する。それが過去の経験と同じであれば、記憶の想起と変わらないであろうが、経験とは異なる状況をも想定しうる。これも意識の作用と考えられる。
ビュリダンのロバの場合に当てはめてみよう。ロバは思う。なぜあんなところに干し草の束が二つあるのだろう。あるいは、ぐずぐずしていると他のロバが現れて先を越されてしまうかもしれない。それらは当面の感覚データからは読み取れないが、記憶と想像によって新たな評価を形成しうる。
意識は、過去と未来を視野に入れるために必要とされるのだ。つまり、合理性に長期的視点を取り入れるのである。そのことが選択を容易にするのではなく、より複雑にしてしまうとしても、適応のためにはやむを得ないのである。
対するに、サルトルの意識には過去(歴史)がない。未来を見つめる対自存在だけなのである。過去があるとすれば、即自存在に体現化されたものだけなのだ。また、未来も過去の欠如のため短期的であり、対自存在は、いわば刹那的である。対自存在は、意志のようなものしか備わっていない、純粋で空虚で透明な主体である。
一方、意識をゾンビシステムから派生した一機能と捕えるならば、機能の発展という観点から、意識の複雑性を解明することが可能になるであろう。その複雑性はゾンビシステムの必要によるものであり、意識自体はそのことを意識できていない。意識は自分自身に関して不透明なのである。つまり、意識は自分自身がどうなっているか分かっていない。自分が何のためにどうのように動いているかを理解していない。意識の自己理解は情報不足により見当外れになってしまっている。
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ところで、記憶や想像というものにはあいまい性がつきものであり、その意味で事実の拘束性を免れており、そこに意識の自由が働く余地が生まれてくるのではないか。
記憶の保存やその想起の過程において、間違いや思い込みというのが発生するのは確かだ。保持されている記憶がどの程度の写実性を備えているかは不明である。また、記憶を呼び覚ますときに、欠落を適当に補ったり、つじつまの合わぬ部分を修正したりする可能性はある。自分に都合よいように改変する場合もあるであろう。しかし、それを意識が行っているのならば、意識は自分に騙されたりはしないはずだ。もし、意識が勝手に記憶を変えて、それを自ら信じてしまうならば、記憶の情報を参考にした行動は適切さを欠いてしまうことになる。記憶の改変に何らかの根拠があるとすれば、ゾンビシステムの側にそれを求める方が論理的である。つまり、記憶に何らかの誤謬があるとしても、そのことが意識の自由さを意味しない。
では、想像力についてはどうだろうか。想像力の機能は、行動の選択のための追加情報となることである。むろん、結果的にすべての想像が適切だったとは言えないであろう。また、楽観的や悲観的という傾向性を帯びることもあろう。それならば、どんなことでも想像できるということを根拠に、想像力に意識の自由を期待することはできるだろうか。
そもそも、選択肢(オプション)が提示されるのは行動の前である。行動の結果はまだ現実に手に入れてはいないので、その価値が明確には分からない。また、オプション間には時間的ずれがある。価値を評価するためには、将来のある状態の仮想の中において、実現されたときの状況が実感されるようにオプションが提示される必要があろう。それゆえ、オプションとして私たちが想起する状況は、実感的なシミュレーションでなければならない。仮想にはいわば感覚的・感情的いろどりがついていると言えよう。
また、コストも考慮されねばならない。いくら価値が高いものであってもそれを得るために様々なコストがかかるのであれば、差し引きの利益はさほどではなくなる。コストの一部は享受の遅延であり、将来の不確実性も考慮されねばならないだろう。むろん、かかるであろう労力や耐えねばならない苦痛などはコストの中核となる。つまり手間ひまがかかるという実感がシミュレーションの中に組み込まれねばならぬのである。それはどのような仮想体験であろうか。あまり複雑なものであっては実際的ではない。それは「めんどくさい」「おっくう」などという感覚・感情ではないかと思われる。そういう感覚・感情が指標となったコストが、得られるはずの価値よりも大きければ、そのオプションは採用されないことになるのだろう。
しかし、そのような仮想の機能は危険な要素も含んでいる。それが実現する前に、仮とはいえ、何らかの実感をもたらすのであれば、あえて実現の努力をしなくとも、想像するだけですませるのではないか。空腹のときに御馳走を思い浮かべるだけでは腹の足しにはならないが、何らかの慰めにはなる。好きな異性と一緒にいることを想像するのは、かなりの満足を与えてくれる。実現が困難だと判断されても、空想は快を与えてくれる。想像は行動を導かずに、非行動で満足させてしまう。仮想体験が追求の対象となってしまうのだ。これはゾンビシステムが目指しているものではない。
また、仮想はいまあり得ていなことを想起することだから、あり得ないことをも仮想することは可能だ。たとえば、道具を使わないで空を飛ぶことも仮想できる。その仮想の中では、移動や俯瞰などの叙述的なものだけではなく、それらの与える情感も実感できる。そのような空想としての仮想をオプションにしてしまったら、選択を誤ることになるだろう。
それゆえ、仮想自体に一定の制限を設けた方がより機能的であるように思える。しかしそのような機構は難しそうだ。現実的な制限を設けることは仮想の機能を損なってしまう。予測というのはそもそも不確かである。将来が確実であったら、予測というものは必要なくなる。やはり、確率の問題なのだ。仮想のどこまでを現実的とみなすかは難しく、あいまいな境界は残る。
ゾンビシステムにとっては、仮想の過剰は困ったことである。しかし、それは副作用とか余禄といったような、本来は求められていないのだけれども、避けられない付随作用である。
これはゾンビシステムにとってジレンマである。仮想に実感を備えつけさせなければ、可能性としてのオプションは採用されることはないだろう。しかし、仮想が実感をもたらすのであれば、仮想だけで満足してしまう可能性がある。それどころか、いっそうの実感を求めて実現可能性のない仮想に溺れてしまうおそれだってある。
ところで、ゾンビシステムはそもそも望ましい行動に望ましさの実感をつけることで、その行動を過剰にしがちであるのだ。飲食しかり、性交しかり、親愛の情しかり、好奇心しかり、憎しみや怒りしかり、その他もろもろ。情報にしても、不利な、それゆえ不快な情報は避け、有利な、それゆえ快い情報を受け入れようとする。私たちが楽観的な予想を抱きがちなのも、不利な予想よりも有利な予想の方が好ましいからだ。
ゾンビシステムはそのような過剰を防ぐために事前に適切な大きさに限定することはできなかったのである。ゾンビシステムは適応の結果を受け入れるしかなかった。仮想の過剰についての解決もゾンビシステムは実行にまかすしかなかった。仮想の能力が十分でなかったり、逆に過剰である個体は、生存の可能性が低いはずだ。生き残った個体は、適当な仮想の能力を備えているだろう。むろん、確率の問題だから、ある程度の範囲に収束するであろうし、時には特異な個体も出現するかもしれない。
自慰は、ゾンビシステムにとっては非生産的ではあるが、感覚としては性交との区別がつかないために、オプションになっている。仮想や追憶も、それ自体の実感を追求する行動がオプションとなることが可能である。人は希望を棄てきれない。そして希望が人を生かすこともある。幻想もまたそうである。幻想がつらい現実を耐えやすくすることもある。そのことは意識の自由に関わっているのであろうか。少なくとも、意識はそれに淫することで、ゾンビシステムからちょろまかしているようにも思える。
そして、これは芸術や娯楽にも関連してくる。人生におけるそれらの役割の重要性については異論はなさそういである。しかし、ある人々はそれらを有害なものとして排除しようとする。生きることにおいてそれらが必須であるかどうかは分からない。それらのない人生は味気ないかもしれないが、生存することにおいて不利とは言えないだろう。それらは甘味料のようなものかもしれない。取り過ぎは悪いのは明白だが、全くとらなくても寿命が縮むということにはならないだろう。適度にとるようにしてみてもそれが健康に与える影響は不明としか言いようがない。ただ、楽しみが増えるということなのだ。
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意識の機能をさらに見てみるために、後悔を取り上げてみよう。後悔が無駄なことは誰もが知っている。「後悔先に立たず」「覆水盆に返らず」「こぼれたミルクを嘆いてみても仕方がない」。けれども、そういう教訓があることは、人が後悔にどれほど悩まされているかを告白しているようなものだ。それゆえ、人が重大な決定をするとき、後悔をしないことを基準にするほどである。映画などで登場人物に決断を促すときには、それをしないと(あるいは、すると)「一生後悔することになる」と言い聞かせるのが決まり文句になっている。「後悔するぞ」は脅し文句にさえなっている。
過ぎ去った過去も不確かな未来も思い悩んだところでどうすることもできないのだから、いまだけに集中して生きろ、というのがよくある処世訓である。しかし、過去や未来を無視して現在のことだけに集中することが成功に導くならば、進化論的に考えて、人間はそういう風になっているはずである。むしろ、過去や未来を視野に入れることで人間は現在という桎梏から解放されたのではないだろうか。人間が過去や未来を考慮するようになっていることは、そうすることが無駄ではなかったことの証である。現に、過去を教訓としたり、将来に備えたりして成功した例は多いはずである。
そこで問題は次のような形に変わってくる。なぜ人はちょうどよい程度に過去や未来を考慮することができないのだろうか。
後悔が全く余計なことでしかないのであれば、人間を苦しめるために(神のような存在によって)人間に備わせられたとでも考えねばならないだろう。もちろん、後悔には機能がある。過去を教訓とすること。「同じ轍を踏まぬ」、つまり過去の失敗を繰り返さないようにするために、後悔は過去にこだわらせるのである。ただ、後悔の興味深い点はそこにあるのではない。
過去の教訓として意識させるだけなら、後悔という形態を取る必要はない。失敗したという認識だけでよい。そこに感情的な要素を付加することに何の意味があろうか。失敗の結果、痛みや苦しみを受けているとしたら、教訓としてはそれだけで十分ではなかろうか。後悔は苦しみを追加するだけではないか。さらに、後悔が必要であるとしても、なぜ意味なく繰り返すのだろうか。行動の決定の際に必要に応じて実感すればそれで済むことではないか。
後悔が苦しみや痛みであるのは、肉体的な痛みと並行する議論である。肉体に何らかの損傷を受けたとき、人は痛みを感じる。痛みはいたずらに人を苦しめる。痛みの機能が単に肉体の損傷を知らしめるものであったら、痛みという形態を取らずに、損傷を認知させる何らかの信号であってもいいはずである。
その理由として、損傷が苦痛ではなかったなら、人はそのことの重大さを認識しえずに、肉体をいたわることなく、損傷を悪化させてしまう可能性が大きい、ということが言われている。しかし、損傷に対する反応が反射的なものであるならば、痛みを意識するのは余計なことである。損傷と行動の間に意識を介在さねばならないというシステムは、反応を遅れさせるデメリットがあるのに、なぜ採用されたのであろうか。
感覚や感情は行動(反応)を起こすトリガーであり、同時に存在するいくつかのトリガーの中で重要性を主張するには、感覚的・感情的に優位性を表現しなければならない。肉体的損傷に伴う痛みは、愚かな人間に注意を向けさせるためではなく、他の感覚や感情と競合しなければならないからである。感覚や感情がなく、単なる認知機能しか備えていないロボットのような存在ならば、状況認識だけで判断を下すのが可能であるだろう。肉体的損傷の場合と同様に、後悔が実感を伴わなければ、他の感覚や感情と競合できず、人間は過去の失敗に懲りることなく、同じ過ちを繰り返してしまう、ということになる。
私たちは後悔において、こうすればよかった、ああすればよかった、と因果関係を反芻する。起きてしまったことはどうすることもできないのに、である。つまり、後悔というのは、失敗の結果だけに注目することではない。仮想の事態と比較して、結果を評価しているのだ。得られたかもしれない利益を想定することで、避けられたかもしれない損失として現状をみているのである。後悔というのは一種のシミュレーションであるが、その度に損失を実感させるのである。
現在の状況が必然的であるとき、つまり、ある範囲の過去の時点(現在に影響をもたらすと考えられる近さの過去)の行動がどうであろうと同じ結果をもたらしたと納得されるなら、後悔は起こらない。結果が必然的ならば、いかに悲惨であっても後悔の対象にはならない。後悔は過去の行動の仕方の違いで別の現在があり得たという推察が可能なときに起こる。
後悔というシミュレーションは、起こる可能性のあったよい結果を実感させるものでもあろう。だとしたら、その疑似経験を求めて、何度も後悔を繰り返すことになっているのではないか。それは快い経験の記憶を何度も想起することと同じである。しかし、後悔が単に快い幻想を与えるだけのものなら、教訓とはならない。得られたかもしれない結果を喪失したことの痛みが起こること必要であり、そのために失われたものは好ましくなければならないわけだ。
不快であるから、あるいは非生産的であるから後悔しない(後悔という作用に意識を向けない)ことができれば、誰も後悔に悩まされることはない。「我、ことにおいて後悔せず」という境地は理想である。しかし、私たちはそうはなれない。私たちは後悔するようになっている。
そのことが、私たちが後悔を重荷と感じることの理由である。後悔はゾンビシステムとしての私たちにとっては有益であるのだが、意識としての私たちには不快(苦痛)なのである。なぜなら、ゾンビシステムとしての私たちは、失敗を避け成功を求めるという行動を取るようになっているため、今後避けるべき失敗の経験は不快なもの(苦痛)として意識に想起させねばならないからだ。私という存在において、意識は厚遇されるメンバーではないのだ。むしろ道具として扱われているとみなすのが適当である。
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ところで、サルトルは、欲望や欲求などと同様、感情を即自存在に属させている。対自存在にとってはそれは所与であり、その存在理由を問うことはない。感情が起こったということは認知するし、なぜそれが起こったかについても状況と関連づけて了解するだろうが、そもそもなぜ感情という形で反応がなされるかについては、対自存在は問うことはないのである。
また、感情は即自存在のものであるから、対自存在は感情を感じることはない。例えば、悲しみという感情を即自存在が感じていて、同じように対自存在が感じるならば、それは無駄というものであろう。対自存在は即自存在から離れて、別の状態でいることに意味がある。いわば他人が悲しんでいるのを見るように、即自存在が悲しんでいるのを認知する。そうすることで、悲しんでいる即自存在を乗り越えようとする。
では、乗り越えはどのようにしてなされるのだろうか。乗り越えは未来に向かってなされる。対自存在は、行動を選択することで、悲しみの状況から離れ、即自存在を別の状態に移行させる。その経路は明確ではないが、対自存在からの働きかけによって、即自存在が変化するのだ。それゆえ、対自存在は即自存在のものである感情に拘束されてはならない。感情に没入している即自存在には他の状況というものがない。変化を起こすことができるのは対自存在なのだ。
感情が、即自存在に相当するゾンビシステムのものであることについては、私たちも同意できる。だが、サルトルと違って、意識は感情を感じると考えるべきだろう。なぜなら、ゾンビシステムにとって、感情の本質は感じることにはないからだ。まず、そのことを考えてみよう。
私たちは遺伝的・進化的な理由を探るという道を知っている。通常言われているのは、感情は人類が長期に渡って暮らしてきた環境に対応したもので、その意味では合理的な(理解可能な)根拠がある、というものだ。感情が私たちの生存と生殖において何らかの機能を果たしているという見方はもはや一般的になっている。進化の過程で感情というものが生じ、また維持されているということは、それが有益なものであり、少なくとも無害であるということの証明であろう。ただ、急速に変化した近年(千年、百年単位だが)の生活に遺伝的変化が対応しきれていないので、感情を不合理なものと受け取ることが長い間続いてきた。
感情についての詳細な知識はないので、喜怒哀楽といった大雑把な分類によって簡単な推察を述べておこう。感情の特徴的なことは、それが表示されるということだ。感情表現は自己の状態を周囲の人に知らせてその行動に影響を及ぼすという機能がある。では、なぜ感情表現が他者の行動に作用するのだろうか。それは感情がそれに引き続く行動をその主体に起こさせるからである。それを予測して他者はそれに備える行動をする。怒りがその典型例であろう。
ただし、感情表現は、表現によって(だけで)他者の行動をコントロールしようとするものではない。それは二次的な作用で、一次的には感情はその主体の行動のトリガーになっているものである。そうでなければ、感情表現は力を持たない。感情の表現が次に起こる行動と密接に結びついていなければ、他者は無視するからである。
感情が行動の予測を促すということは、そこに時間次元が導入されていることを意味する。感情表現の主体が、状況の変化がなければ行動が生じると予告することになるので、他人がその行動を避けたいならば状況を変えようとするであろうし、他人がその行動を望むのであれば状況を維持しようとするであろう。
ゾンビシステムにとっては、感情が行動のトリガーであり、同時に感情の肉体的表現が実現すれば、それでいいことになる。ゾンビシステムが感情を感じる必要はない。感情が感じられなければならないのは、他のオプションと比較評価されるためと考えられる。感情が導く行動の結果を、感情として実感することで、オプションの指標とするのだ。それは意識の役割である。感情とそれに結びついた行動だけの一本鎗ではうまくいかないことがあり、意識はオプション提示で調整する。そのために、意識は感情を感じる必要がある。
このことは欲望や欲求でも同じことであろう。欲望や欲求はそのこと自体が望まれるのではない。望ましい状態を得るための行動のトリガーでしかないのである。欲望や欲求が感じられるのは、それが引き起こす行動の結果の指標として、オプション提示されるためだ。だから、それを感じる必要があるのは、ゾンビシステムではなく、意識なのだ。
ところで、感情のコントロールにはさんざん悩まされている私たちにしてみれば、感情の短期的合理性よりも、意識による長期的合理性の方が好ましい。意識の合理性が感情を代替することがなぜできないのだろうか。
考えられる一つの理由は、意識による合理性(以下、「合理性」と省略する)がまだ進化していない状況で感情が発達したということである。もう一つは、ではなぜ感情が今なお保持され続けているのかという疑問の答えにもなるのだが、合理性では感情を代替ができないからではないかということである。その理由として、合理性の次のような弱点をあげることができよう。
第一に、選択肢を揃えるという時間が必要であるので、とっさの判断には間に合わない。
第二に、将来を見通す役割にもかかわらず、不確実性の増加が長期的な視点を制限する。
第三に、選択肢の評価にこだわるゆえに、状況の変化に振り回されてしまう。あまりに敏感な指標が役立たないように、合理性は動揺が激しすぎるのである。
それゆえ、たとえば、合理性では信頼を成立させることが難しい。信頼がなければ長期的な人間関係の保持は不可能と言えよう。しかし、長期的に人間関係を保持することが生存と生殖に有利かどうかは、事前には判断ができない。人間関係を常に見直して改変する方が有利かもしれない。過去の経過は、信頼という心情を残してきた。結果論として、長期的な人間関係の保持は生存と生殖に有利だったと判断できる。
同じことが感情についても言えるだろう。よく知られた例だが、分かりやすいので怒りについて触れておこう。体力に優れた相手があなたの手に入れた獲物を横取りしようとする場合を考えよう。合理的に判断すれば、相手に逆らって痛い目にあったり、場合によっては死傷するくらいなら、素直に獲物を手渡す方がよいであろう。しかし、いったんそうしたら、相手は機会があるごとにあなたから横取りするであろう。しかし、あなたが怒りを感じて、当面の有利不利など考慮せずに、相手に反抗したらどうなるだろう。あなたは殴り倒されて、けがをするかもしれないし、ヘタをすると死んでしまうかもしれない。死んだらそれで話は終わりだが、あなたが生き延びた場合、あなたから獲物を取り上げた相手が、再びそういう機会を見出した時、どうするだろうか。あなたを打ち倒すのはたやすいとしても、あなたの反抗は好ましいことではない。確率は非常に低いとしてもあなたが勝つことはありうるし、そうでなくともあなたの反抗を排除するにはコストがかるのである。相手はちゅうちょするであろう。横取りする獲物が大したことがないのであれば、相手はあきらめるだろう。こういうことは事前の予想では確かではない。人間に怒りの感情が備わっていることが、怒りによる行動が生存と生殖に不利ではなかったことを証明していると考えられる。
ただし、そういう証明は同じような環境で長期的に試された結果である。環境が変化すればそのことが妥当しなくなるかもしれない。そしてその変化が急激であれば、生得的となった行動を遺伝的に変化させることは間に合わないであろう。
感情と合理性の関係はそういう過渡期にあるのかもしれない。合理性の予測能力は確かに高まっている。それは理論や道具などの手段の改良にもよるだろうし、社会制度の発達などによる環境の安定性にもよるのだろう。そして、人間関係も感情が有効であった時期とは大きく異なっている。最大の変化は、拡大・複雑化・多様化していることだろう。
7
意識については特別の問題がある。他者の存在である。サルトルは、他者を自己と同じような自由な存在として、自己の自由を制限するものとしている。自己と他者の関係は、お互いを支配しようとする闘争とみなされている。そのような関係の中での意識が「対他存在」である。
ところで、自己にとっての他者の重要性から考えれば、ゾンビシステムも当然他者を認識しているはずである。ゾンビシステムの他者への対応を推察してみれば、親しい者と敵対する者とを分別し、異なった態度を取るということになるのではないか。家族や近親者などの対面集団の中で生きてきた人間の長い歴史からみれば当然のことであろう。そう考えると、サルトルの提示するような対他存在のあり方は、人間関係の半面にすぎない。それは自己の孤立を前提としている。
ただし、対他存在的な人間関係は対面集団の中にも発生するであろう。対面集団のなかでも競合はあるし、戦略的な結合と対立が有効でもある。人間の脳は他の動物から予想されるサイズより大きすぎるという説があり、その理由は人間関係の複雑さに求められている。サルトルが対他存在を人間関係の基本と見たことにも妥当性はあるわけだ。
むろん、サルトルは親愛のような心情を否定してはいない。親愛を即自存在に属させて、対他存在の特質を敵対性に純化したのである。私たちのゾンビシステムが親愛と敵対の両方を含みうると考えれば、意識の助けを借りる必要はない。ただ、対面集団などの親愛的な関係の中に敵対的要素を招き入れるためには意識が必要なのであれば、サルトルが対他存在を意識に結びつけたのも理解できる。
しかし、対他存在への批判は別の観点からなしうるのである。サルトルの気がつかなかったことが二つある。第一に、親愛が対面集団を超えることもあるということ。協働や婚姻や宗教や集団的類似などが敵意を抑え込んで、より大きな共同意識を形成することは普通に見られることだ。むろん、共同意識は対他存在によって蝕まれるであろう。しかし、人間が共同して、単独ではなしえなかったことをなしうるのは否定できない事実である。
第二は、互酬ないし交換といった、いわばドライな人間関係は、対他存在からは導き出せないということ。もし意識がゾンビシステムにはない機能を持っているとしたら、それは、親愛と敵対という、いわばウェットな関係の拘束からの超出を可能にすることであろう。相手の属性がどのようなものであれ、ギブアンドテイク、ウィンウィンの関係を成り立たせるには、ゾンビシステムだけでは難しいかもしれない。交換には合理的な思考が必要となる。自分が与えるものと相手から受け取るものを比較して、最も有利になる組み合わせを選択しなければならない。相手への信頼も重要であるが、騙されないための警戒心も必要である。親愛か敵対への一方的な傾斜は適応性を制限する。
しかし、合理性は安定を望まず、たえざる検討を要求する。そのコストは大きすぎるかもしれない。そのため、親愛と敵対を超えた人間関係の形成は、新たな親愛と敵対を生みだすことになるかもしれない。
では、合理性は人間関係における自由を保証してくれるのであろうか。合理的な選択とは、同じような状況では同じような選択がなされるということである。それゆえ、予想が可能であるのだ。予想が可能な行動は自由な行動であろうか。この辺りは議論のあるところであろうが、勝手気まま(偶然的)な行動を自由とみなすならば、合理性は自由を保証しないであろう。
この文脈において、自己疎外の問題がある。ここでは、自己疎外とは自らが作り出したモノやシステムによって自らが主体の座から追放されてしまうこととしよう。対自存在や自己欺瞞などの概念では扱えないこの現象を、サルトルは『弁証法的理性批判』(1960年)において分析しようとした。
合理性を、選択の有効な手段とみなすか、自由を原理的に否定する法則とみなすか、あるいは自由に対する(克服可能な)障害とみなすか、むろん、これは難しい問題である。ただし、既に述べているように、合理性が完璧な答えを出してくれるわけではない。合理性には様々な限界があり、私たちは合理性に頼っても選択に迷うのである。そのような場合、選択を放棄することもまた合理的であるのかもしれない。慣習や規範や規則に従ったり、サイコロ投げで決めたり、他人に選択を任せたりすることも、一種の選択ではある。自己疎外とは自己の無力を自覚することであるが、そのようなときこそ、逆説的ではあるが、自由を意識できるのかもしれない。
8
対自存在というあり方は、知識人としてのサルトルの立場から主張されているのは自明であろう。知識人あるいはインテリゲンチャ、いずれも古臭くなった言葉だ。インテリの優位性は知識にあり、インテリはそれを文書から得る。文書を読むことこそ、インテリの社会的地位を保証するものだった。教育が普及し、読み書きができる人々が増えてきても、インテリは難解な文書を書き、同類の中で読みあい、秘儀的なグループを保ち続けたのである。ただし、インテリが支配層の中心にあったとは言えまい。社会の発展はインテリの思い描く路線に沿ったものではなかったし、また、科学や技術を利用して実生活において成果を出すことはインテリの本来の役割ではなかった。
対自存在がめざすありうべき自己というのは、インテリの社会批判に裏打ちされたものだ。支配層の傍流にあって、主流を軽蔑し、かといって、下層に同情はしても、同感はしない。ありうべき自己というのは、感覚や感情や欲求や欲望といった即自存在の制約から脱け出し、意識の純化によって達成されることが期待されるものだ。しかし、意識という空虚な存在に具体的な理想像というようなものが見いだされるだろうか。社会的には、その空虚さを埋めるものが知識ということになるのだろう。
『存在と無』における対自存在は、他者のことなどどうでもいいのであり、他者はモノ(即自存在)と同じく単なる制約でしかなく、ひたすら自己実現を目指すだけだった。具体的目的は明確ではなく、いわば何でもよいのであるから、そのような対自存在が自由であるというのは納得できることかもしれない。
サルトルに社会という視点をもたらしたのは、マルクス主義であったろう。人間が自ら作り出したモノ、すなわち生産物とか制度に対して、対自存在はどのように対応するか。そういう問いをマルクス主義は投げかけていると、サルトルは受け取った。答えは簡単だった。社会もまた否定されるべき即自存在でしかない。『唯物論と革命』におけるサルトルのマルクス主義批判は、いま読めば急進左翼的な響きがする。現状という「言い訳」、その物質的な抵抗を、意識(対自存在)によって乗り越えていくべきだという訴え。つまり、社会の変革は意識の自覚によって、また、それのみによってなされるものだという確信がサルトルにはあった。そして、その自覚をもたらすのは、自分を含めた、インテリであるはずだった。
しかしながら、インテリの目指す未来と、他の人々が望む未来が一致すると、どうして言えるだろうか。対自存在の普遍性が保証するのだろうか。対自存在の抽象性は、どのような目的をも許容するのではないか。あるいは、対自存在が永遠に到達できない目標に向かって努力すること自体が目指されるべきなのか。その象徴がインテリなのだろうか。
そもそも、社会変化が、ある個人ないしある集団が意図したことによって起こるのか、また意図した通りに起こるのか、疑問である。マルクス主義批判の一つは、革命は思い通りになしうるという主張の急進性に焦点を当てている。人間が理想的な目標を立て、それを実現しようと努力しても、コントロールできない多数の要因が障害となって、結局はうまくいかない。むしろ、その場その場で生じた問題を適宜解決しようする日常的な小刻みな変化の積み重ねが、意図することもなく適切な方向へ導くのではないか。すなわち、計画と自生の対立。
人間は自分の思い通りのままに変化を起こすことはできないのは、むろん、サルトルも承知している。だから、問題はどの程度の変化が望まれるかということなのだ。
このことは、変革の主体とみなされる個人ないし集団の特性と、権力の集中度に関連してくる。インテリが主体であるべきなら、個人的な立場を離れて、つまり、広い視野のもとに、あるべき将来の姿に向かって変革を進めていくという、理想主義的な特性を帯びるであろう。そして、実際に変革を実行していくのは、権力とその執行機関、つまり、政治家と官僚であるが、インテリは政治家には向かないし、官僚となることにも抵抗がある。それゆえ、インテリは彼らに影響力を与える関係を取ろうとすることになる。その場合、権力が集中している方が好都合であろう。ただし、この関係はインテリが望むほどにはうまくいかない。むしろ、インテリは批判勢力としての立場に居心地のよさを感じることになる。
一方、実際の社会の変化は、政治権力の意図によるものではなく、人々の営みの試行錯誤によっていつの間にか達成されるものであり、その変化が適切であるのは実績によって裏打ちされていることからくるというのが、保守主義的自由主義者の見方である。変革の主体は分散化されていて、視野は限られ、全体的政策には無自覚である。というより、人間の能力は限られているので、それぐらいのことしかできない。このような深層の変化は、マルクスが生産力という形で見ていたものと共通すると言えよう。ただ、マルクスは階級闘争という政治的激変で変化が顕現するとしたが、保守主義的自由主義者は変化は漸進的であると主張する。
無自覚な変化ということはサルトルには受け入れられない。対自存在は変化しようとすることが本質であるのだから。対自存在に与えられた自由とは、その変化を保証するためのものであるのだから。だが、対自存在の変化が社会的になるためのルートが明確ではない。サルトルは当初は倫理ということを考えていたようだ。ただし、インテリが権力者に影響を与えようとする形は古めかしすぎるし、ハイデッガーで懲りていただろう。そこで分権化の現象が注目されることになる。
単なる分権化ではなく、大衆化と呼んだ方が分かりやすいかもしれない。生活水準の向上と教育の普及により、有権者・需要者としての多数の重要性が無視できなくなっていた。インテリが呼びかけることができる社会層も厚くなっていた。そこにサルトルの哲学の社会的形態が実体化した。世論の導き手としてのインテリ。
そう思える時期もあった。しかし、時代はどんどん進んでいった。高度成長、共産主義の失敗、バブルとその崩壊、ITの発展などの過程の中で、インテリの示す未来像が現実性を失い、インテリへの信頼も失われていった。豊かな社会を謳歌する大衆は、インテリの思惑とは異なる方向へ突き進む。さらに、インテリの専売特許であった情報発信をも奪っていく。
社会への情報発信が、SNSに象徴されるように、大衆化した。しかし、それがある程度の影響力を持つためには、やはりある種のフィルターを通した選抜を受けなければならない。すべての発信がすべて受け取られることなどないからである。では、従来の情報発信とはどこが違っているのだろうか。発信者が少数のインテリとは限らないことだろうか、フィルターとなるのが少数のインテリではないことだろうか、あるいは、発せられる情報量の多さだろうか。
それらの特徴をもたらしたともいえる、より本質的な変化があったと思える。それは、発信が文書ではなく、日常会話に近い言葉でなされるようになったことである。文書はそれを扱う人を制限する。日常言語はほぼ全員が扱うことができる。マスコミニュケーションが発信の側にも及んできて、情報の伝え方が大きく変わってしまったのだ。
ただし、社会の運行に必要な文書の重要性が減少したわけではない。相変わらずそれはエリートたちにまかせられている。また、インテリの情報発信構造はなお維持されている。しかし、インテリがモデルとされることはなくなった。小難しい情報は敬遠されてしまう。
インテリの思い描く未来と大衆の望む未来はどこが違っていたのだろうか。サルトル流に言えば、大衆は即自存在のままでいることを選んだ。これは貶めるために言っているのではない。そもそも、サルトル流の意識(対自存在)は、意識すること自体に淫しているのである。つまり、実用性というものを度外視している。インテリの意識は、意識すること自体が目的化することにより、状況から遊離した、抽象的な思考にのめり込むことになったのだ。対自存在はその表現だったと言えよう。
9
人間が状況に適切に対応できない理由が次第に分かってきている。大雑把に言うならば、状況が複雑になりすぎて、狩猟採集時代に身につけた行動様式では対処しきれないのだ。適切な行動を促すためには、強制は好ましくないとしても、状況を分かりやすいものに変えるとか、ある種の選択肢を除去してしまうなどの方策が必要になる。このことの是非はとりあえず置くとして、このようなことを考える根底には、人が合理的に行動することには能力の差があるという認識がある。
現代社会では、さまざまな選択に直面するとき、何が自己にとって最適なのかを判断するのには、かなりの能力が必要である。人々が自然にとる行動ではそのようなときに対応しきれないことが多い。特に、状況の理解が直接的な知覚ではなく、文字などによる媒介を経なければならないときにそうである。ややこしい制度や分かりにくい操作に直面して、それらを理解するための努力が必要なとき、人によって差が出てしまう。努力ですむならそれでよい。能力の限界が人間の生得性に根差しているとき、それを克服するのはたやすいことではない。
これは微妙な問題であるので、具体的な例を取り上げてみよう。新井紀子『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』(2018年、東洋経済新報社)から引用してみる。
(読解力の高い子どもたちは――引用者補足)高校2年まで部活に明け暮れて、赤点ぎりぎりでも、教科書や問題集を「読めばわかる」のですから、1年間受験勉強に勤しめば、旧帝大クラスに入学できてしまうのです。その学校の教育方針のせいで東大に入るのではなく、東大に入れる読解力が12歳の段階で身についているから東大に入れる可能性が他の生徒より圧倒的に高いのです。(221頁)
では、読解力の低い子どもたちというのは、どうしているのか。
(この問題を解けないのは――引用者補足)おそらく「愛称」という言葉を知らないからです。そして、知らない単語が出てくると、それを飛ばして読むという読みの習性があるためです。(202頁)
つまり、④(という間違った答え――引用者補足)を選ぶ受検者は、「以外の」や「のうち」といった語句を読み飛ばすか、その使い方がわからないかのどちらか、あるいはその両方なのでしょう。(209頁)
まさかと思うのだけれど、どうもそれが事実らしい。読解力というのは高度な機能のようだ。読解力というのは日常においてはほとんど必要とされないものであろう。通常の生活においてはさほど高度ではない機能で十分こなしていけるのである。文章の解読などというのは、筆記試験や事務仕事などのような特別な場合に起こることなのだ。だから、そのような場面では、機能の格差が現れてしまう。
しかし、だとすれば、次のような文章は、読者を途方に暮れさせるものではなかろうか。
AIと共存する社会で、多くの人がAIにはできない仕事に従事できるような能力を身につけるための教育の喫緊の最重要課題は、中学を卒業するまでに、中学の教科書を読めるようにすることです。世の中には情報は溢れていますから、読解能力と意欲さえあれば、いつでもどんなことでも大抵自分で勉強できます。(241頁)
なぜなら、読解力がないからこそ、次の文章のような勉強をせざるを得ないと思われるのだ。これは「ニワトリと卵」の話ではなく、たぶん生得的な能力に関連する問題なのだ。
私が最近、最も憂慮しているのは、ドリルをデジタル化して、項目反応理論を用いることで「それぞれの子の進度にあったドリルをAIが提供します!」と宣伝する塾が登場していることです。こんな能力を子どもたちに重点的に身につけさせることほど無意味なことはありません。問題を読まずにドリルをこなす能力が、最もAIに代替えされやすいからです。(230頁)
読解力の向上が容易でないからこそ、他の方法で試験の成績をあげようとするのではないだろうか。つまり、そちらの方が効率的なのだ。
著者の危惧するような未来(AIにできるようなことしかできないために、多くの人がAIに仕事を奪われてしまう)になるかどうかは分からないけれども、読解力の差が何らかの成果(成績)に反映していることは、著者の言う通りだと思う。
この格差を自己責任の名目のもとに放置するのか、あるいは、何らかの救済措置が求められるのか、これは実践的な課題である。教育の充実という形の救済措置は効果がないと私には思える。なぜなら、教育の充実は底辺の底上げにはなっても、格差の縮小はもたらさないであろうから。格差の存在を認めたうえで、行動の選択に影響を及ぼす救済措置こそが効果的であるのではないか。その際、どこまで当事者の意思決定に介入するのかという問題の他に、当事者ではない人間にコストをかけることが正当化されるのかという問題があることは既に述べた。つまり、様々な行動のオプションがあるとき、自己に不利な行動を選んでしまう傾向がかなりの人に認められるならば、そのようなことを防ぐ方策が取られるべきなのか。そして、その方策が、それを必要としない人々のオプションをある程度制限することになるとしたら、それはゆるされるべきなのか。後者の問題については、長期的に見て、オプションを制限された(コストを課せられた)人にとっても結局は利益になる可能性もあることは指摘しておかねばなるまい。難しい問題ではあるが、一つ言えることは、それを自由の問題に還元してしまうことは安易すぎるのではないか。
サルトルの対自存在と違って、私たちは望ましい自分について不透明である。選択に迷い、そして間違える。多くの人々にとって、選択の自由は重荷である。低コストで適切な行動に導いてくれる手段こそ救いなのだ。つまり、人々が望むのは、自由(そのもの)ではなくて、最適な行動なのだ。
自由が何でもできるということを意味するのなら、人は自由ではない。人ができるのは与えられた状況のもとで最適と「思われる」行動であり、それ以外ではない。もちろん、その判断が、事前においても、不適切であると、他の人がみなしうることもある。ある人が自己にとっての「正しい」選択を知らないのであれば、他の誰もその人のための判断はできないと考えることもできるし、他の誰かが判断してもかまわないと考えることもできる。当人は事後にその最適さを了解するかもしれないし、しないかもしれない。最適さに関する何らかの共通の信念が存在するなら、当人の同意はどうでもいいことなのかもしれない。人が根源的に自由ではありえないとしたら、そんな自由を尊重するいわれはないのだから。