井本喬作品集

意味なき世界を意味ありげに生きる

 これは、意味をめぐる遍歴の記録のようなものである。

 始まりは一冊の本との出会いだった。題名に惹かれて読んだその本は、『なぜ世界は存在しないのか』(マルクス・ガブリエル、2013年、清水一浩訳、講談社、2018年)である。後で知ったのだが、著者は何回か来日しているようで、この分野では注目されている人らしい。

 予備知識が全くなく、この本でどんなことが言われているのか、読んでみるまで分からなかった。読み進めていくうちに、強い違和感が起こってきた。ガブリエルは、私たちは意味の中で生きていると言う。しかし、それは私が当然のこととして受け入れていた考え方とは違っていた。私は次のように信じている。

 世界に意味などない。世界はただ単にあるだけにすぎない。

 ガブリエルはこのような考えに真っ向から立ち向かう。ガブリエルが主に取り上げているのは物理学主義的世界観であるが、進化論にも触れている。これらに代表される諸言説は、私たちの生には意味がないとみなすことによって、ニヒリズムをもたらすとガブリエルは考えている。

 ところが彼らが伝えてくれるのは、結局のところ神の粒子とヒッグス粒子しか存在しないこと、それに、わたしたち人間が原則的に繁殖と餌にしか興味のない宇宙空間の豚にすぎないということなのです。

 「宇宙空間の豚」というのは、『マペット・ショー』という子供向けテレビ番組の中に登場するキャラクターらしい。最初、私は「宇宙空間の豚」という言葉によってガブリエルが侮蔑しているのが何か分からなかったが(豚を生物学的に見下すことはできないのだから)、後で巧みな比喩であることが納得された。「宇宙空間」とは、物理学主義的世界観の想定する世界であり、そこには物質しかなく、人間も物質であって、人間の行動も脳という物質によって理解すべきであるということの表現なのだ。「豚」とは、生物進化の一つの帰結であり、人間も結局はそうでしかなく、知性や言語や文化などは豚と人間の本質を異なったものにしている指標とはなりえないということの表現なのだ。つまり、「宇宙空間の豚」とは、物理学主義的世界観と進化論が見ている人間の姿であると、ガブリエルは指弾しているのだ。

 では、ガブリエルが想定していると思われるニヒリズムの内容を推察してみよう。まず物理学主義的世界観について。宇宙はビッグバンによって始まった。宇宙の中の、有限ではあるが無限なほどの多数の星雲の一つである銀河、銀河に含まれる有限ではあるが無限なほどの星の一つである太陽、その周りを回っている惑星の一つである地球、そこに張り付くように存在している私たちの何というはかなさ。星には寿命があるので、いずれ太陽は消滅し、当然地球もなくなってしまう。もし、人類が星から星へと移住可能になったとしても、宇宙にも終わりがあるので、人類は永遠には存在しえない。私たち個人は死を免れないが、私たちがその一員である人類も滅亡が必然である。だとすれば、いずれは存在しなくなる私たちの生にどんな意味があるのか。そのことは、宇宙が物質的なものであり、その部分である私たちも物質であることからくる必然の結果なのだ。物質的な存在である私たちが、私たち以外の物質的存在とは違った特別な存在であると思い込むのは、おこがましいのである。

 次に進化論について。生物の進化は、遺伝子が自己を継承していくことによって起こった。生物は遺伝子を運ぶ乗り物であり、生物個体が生存し、生殖するのは、遺伝子の継承を目的としているに過ぎない。だから、生物個体の行動も、いかに遺伝子の継承を達成するかという観点から解釈されるのであり、自分が主体だと生物個体が思うのは錯覚である。愛とか、希望とか、努力とか、思いやりなどの、人生を貴重にすると私たちが思っているものも、遺伝子の運び手としての単なる機能でしかないのだ。そのような私たちの生にどんな意味があるのか。

 こういう風にまとめてみると、私たちにはそれほど衝撃的とは思えない。同じようなことはいろいろな形で言われ続けていて、慣れてしまっていることもあるだろう。それよりも、そもそも生きることの意味を論理的に追及することに、それこそ意味を感じていないのかもしれない。

 マスコミやネットでは、生きる意味があることについては何の疑念もなく、ただそれが見つかるかどうかを問題にしているだけの雰囲気である。一方、生きる意味などないという意見も結構多く、それもそのことに悲観的であるのではなくて、そんなことは実際に生きていく上でどうでもいいことであり、そんなことをくよくよ考えることなどそれこそ意味がなく、生きる意味などというものがないことがかえって生きることを貴重なものにしている、とさえ言い出しかねない気楽さなのだ。

 だとしたら、ガブリエルが物理学主義的世界観や進化論に対抗して、生きる意味を擁護しようとするのは無駄ではないのか。なぜなら、物理学主義的世界観や進化論には私たちから生きる意味を奪う力などないかもしれないからだ。

 それで終えてしまってもよかったのかもしれない。けれども、この本に触発されて、関係するような本をいくつか読んでみると、ことはそんなに簡単ではなさそうだ。私たちの無関心によって、世界の意味についての議論が解消されてしまうわけではない。もっとよく考えてみる必要があるのだろう。

 ガブリエルの主張は、モノに還元できない現象があるという考えの一つのバリエーションであろう。ガブリエルは一元論者だが、一般的に、このような考えは二元論をとるようだ。二元論などというものはとっくに片が付いているものと、私は思っていた。しかし、そうでもなさそうである。心身問題ないしその一部である心脳問題というのは解決が難しいものらしい。心脳問題とは、脳という物理的なものの現象と、主観的であり物理的な実体のない心的な経験とを、どう関係づけるかという問題である。この辺りから見ていくことによう。参考にするのは、『脳がわかれば心が分かるか 脳科学リテラシー養成講座』(山本貴光・吉川浩満、太田出版、2016年)である。この本は、題名からも分かるとおり、脳科学によって心が解明されるという見解を安易なものとして批判している。

 心身を一体であるとみなすのが一元論である。一元論には唯心論と唯物論がある。唯心論とは、あるのは心的経験だけであり、物理的現象というのは心的経験でしかないと主張する。唯物論は逆に、あるのは物理的現象だけであり、心的経験というのは物理的現象に何らかの形で含ませることができると主張する。現在では唯心論の論者は珍しい。科学者のほとんどは、明確に自覚しているかどうかは別にして、唯物論に拠っている。

 唯物論は常識的な見解であるように思える。しかし、心的経験を物理的現象として説明するのは、私たちが思っているほど簡単なことではないようだ。それゆえ、厳密さにこだわる人は二元論を持ち出してくる。脳の物理的現象と心の主観的経験は全く別のものであると主張するのだ。むろん、二元論ですべてが解決できるというのではないが、唯物論的一元論で心脳問題が解決できない以上、二元論を認めざるを得ないのではないか、というわけだ。

 山本・吉川によれば、現代の一元論の主なものとして、「脳心因果説」(脳を心の原因とし、心を脳の結果とする)、「脳還元主義」(人間の心というものは脳内の分子運動にすぎない)、「心脳同一説」(脳と心は同じものの別の見方、別の記述の仕方にすぎない)などがあるが、いずれも十分な説明になっていない。

 二元論の克服ということで山本・吉川が推奨するのが、大森荘蔵の「重ね描き」という理論である。山本・吉川によれば、この理論によって、心脳問題自体が存在しないことになる。つまり、心脳問題が解決されるのではないが、解消されてしまうのである。

 そこで、大森の『知の構築とその呪縛』(大森荘蔵著作集第七巻収録、岩波書店、1998年)を読んでみた。大森によれば、科学的な見方は、日常の自然的な態度としての見方(略画)を細密画化したものであり、本来両者に矛盾はない。しかし、科学は、感覚や感情などの扱いにくい現象を主観的現象とみなして、科学の扱う客観的領域から追放してしまった(つまり、二元論的状況を作った)。そして、科学は、その世間的な成功によって、自らの見方を私たちに押しつけ、私たちは感覚・感情による自然的な見方を放棄させられてしまっている。しかし、二つの見方を重ね合わせるという簡単な方法によって、その問題は回避することができる。それに伴い、科学の二元論が解消してしまう。

 大森は、科学がデカルトの二元論を継承して、客観的なものと主観的なもの区別の上に論理展開しているとみなしている。大森は言う。「痛み、色、音、その他の感覚的性質はガリレイ・デカルト以来の近代科学において『物』から排除されてきた。だから現代科学の『物』を語る言語ではそれらを『描写』できないのである」。あるいは、「一方、知覚因果説ではガリレイ・デカルト以来、この『物』と『知覚像』とは別種のものとして分離され、『物』は客観世界に、『知覚像』は主観的意識にと別居しているものとして考えられてきたのである」。

 大森自身は一元論者である。二元論は、科学が、いや、近代科学の発生時の特殊事情(デカルトなどの存在)が作り出したものである、と大森は言う。だから、心とモノの二元論は大森にとっては見かけだけのものである。本来一体であるものを、科学が二分したのだ。感覚・感情が心的なものとされるのは、科学のでっち上げである。

 大森の主張に対しては、二つの疑問が生じる。一つは、デカルトの二元論についてである。心的なものとしてデカルトがあげているのは知性なのだ(そのことはデカルトについての大森の解説でも触れられている)。二元論で言い直せば、大森がデカルトや科学に見ようとしているのは感覚・感情対モノの二元論であるが、デカルトは知性対モノの二元論なのだ。デカルトにとって一元化できないのは、感覚・感情ではなく、知性なのである。

 大森はデカルトの「人体機械」について言及しているが、もし人間に限りなく近いロボットが作れたとして、完全に人間そっくりにするには、何が欠けていることになるだろうか。デカルトは知性とみなした。コンピュータの出現により、機能としての知性は機械によって代替できることを知っているから、私たちはデカルトが誤っていたとみなす。では、感覚・感情はどうだろうか。これこそ人間的なものだろうか。しかし、感覚や感情も、デカルトが予想した通り、機能としては機械化可能である、というのが科学者の言い分だろう。心的なものは、機能としては、つまり、外から見る限りは、ロボットに備わることが、理論的には可能である。

 そこで、疑問の二つ目になるが、科学は二元論を容認してはいない。科学は二元論を解決しようとしてきたのである。科学は主観的なものも客観的に捕えようとしているのだ。科学が唯物論的一元論に立っているからこそ、科学ではとらえきれない心的経験が問題になるのだ(意識ないしクオリアの問題については後述)。

 大森の科学批判は、そのことに無頓着である。科学が一元論をとることを認めれば、一元論者である大森には批判の必要がなくなる(一元化の仕方に異論はあるだろうが)。大森の批判は、あくまで科学が二元論を作り出したことに向けられている。科学による感覚・感情の扱いについては、大森は「知覚因果説」として批判する。

 二元論と知覚因果説を組み合わせることによって、大森の科学批判と、その乗り越えとしての重ね描きが出てくる。大森によれば、私たちは、科学に誤解させられて、無色・無音・無感の粒子の塊である客観的な「物」(大森の例でいえば鉄原子集団)を、色や音や感触のある「知覚像」(大森の例では黒い鉄片)として主観的に捕えている、と思い込んでいる。つまり客観と主観の二元論に陥っている。しかし、鉄原子集団と鉄片は同じものであるとして重ね描きをすることで、この二元論は解消する。

 しかし、大森も認めているように、誰も(科学者でさえ)こんな風に知覚を扱ってはいない。誰も二元論に陥ったりはしていない。科学者は素朴実在論者なのだ。だからデカルトの懐疑論にも無縁である。

 ここで問題になっているのは、科学(つまりは知性)の能力についてなのだろう。大森に代わって、山本・吉川はそのことを詳しく述べている(大森が同意見とは限らない)。山本・吉川は科学が二元論を克服できないことの理由を、科学的方法の「一般化」と日常的経験の「個別性」の、あるいは科学の「同一化」・「固定」と日常の「流れ」・「持続」の、対立・矛盾に求めている。しかしながら、山本・吉川が言うように、日常生活が「流れ」・「持続」(そもそもこの二つは相反しないのか?)と親和的であるということを、当然視できるのだろうか。簡単な例をあげてみよう。山本・吉川は「音楽は持続するメロディのなかだけにあって、これを音符という同一性で切り取ってみてもメロディは消失してしまいます」と言っている。しかし、デジタル録音した音楽を再生したとき、それを「持続」としての音楽ではないと私たちは判断できるだろうか。アナログとデジタルの違いが分からない私たちにおける「持続」とは何だろうか。

 山本・吉川は、言語が「変化する現象」を切り取って「同一性」としてしまう、つまり「持続」を取りこぼしてしまうものと見なしているが、これは科学においても日常生活においても変わりはないのではないか。言語を媒介せずに「物と自然」に直接対峙するのが理想なのであろうが、それだけではどうしようもない。主観的経験の表現には言語が必要なのだ。

 山本・吉川の議論は、本来はもっと厳密なものであるのだろう。しかし、この本で示された内容では説得力がない。言葉の使い方だけも次のように反論できるだろう。そもそも、「同一性」を保持するためには、「同一性」が「持続」されなければならないのではないか。「同一」「一般」「固定」「個別」「流れ」「持続」などの言葉は融通がききすぎる。それらで科学と日常生活を対照させようとするのは粗雑すぎはしないだろうか。

 山本・吉川は、科学の権威を借りた信念が人々に植え付けられ、そのような信念によって人々の行動が影響を受けるのではないかという疑念を呈する。そのような信念に毒されることなく、本来的な行動をすべきだというのである。

 このような主張には検討すべき点が二つある。一つは、(疑似)科学的信念を排除した(あるいはそれに影響される以前の)本来の行動とはどういうものであるのか。思いつくのは、個人の実感に基づくということである。科学は、個人が「感じる」内実や、個人的な経験を無視していると考えられているのだから、それらを活用しなければならないのだろう。はたして、このような実感信仰は科学信仰に比べてましなのだろうか。

 もう一つは、信念は科学からもたらされるだけではないということだ。宗教や、権威者や、身近な他者の意見や、個人的経験の検討などからも信念は形成される。それらの信念に比べて、たとえ疑似的であるとしても、科学的な信念は弊害の大きいものなのだろうか。

 つまり、科学の越権行為から守らねばならないと思われるのは何なのだろうか。自主的な思考だろうか、素朴な実感だろうか、豊かな情感だろうか。そもそも、そういうものが実際にあるのだろうか。それこそが、山本・吉川も懸念する、「信仰」や「渇望」の対象ではないのだろうか。

 『脳がわかれば心がわかるか』においては、心身(心脳)問題は、「わたしたちの日々の日常的な経験と、脳科学が提出する知見とのあいだに生じる対立の問題」と規定されている。そこから、あまり厳密とは言えない展開により、「日常的な経験」が心的なもの、さらには、感覚・感情的なものに限定され、「脳科学が提出する知見」が身体的なもの、さらには、感覚・感情的なものを排除したものに限定されてしまうのだ。

 だが、科学(脳科学だけではなく)は、唯物論的一元論によって、心的なものも(身体的なものと同様に)説明しうると主張する。それゆえ、もし科学が心的なものを説明できていないと反論するのならば、科学に抗して二元論を主張しなければならない――科学の二元論に反対して一元論を目指すというのではなく。

 そういうことが可能なのだろうか。

 この私の疑問は、デイヴィッド・J・チャーマーズ著『意識する心 脳と精神の根本理論を求めて』(1996年、林一訳、白洋舎、2001年)を読んで解消された。大森や山本・吉川は、感覚・感情的なものの特異性をあいまいに取り扱っていたのである。それを明確にするためには、科学の手が届かぬまでに純化しなければならない。その結果見いだされるのが「意識」なのだ。

 チャーマーズによれば、心身問題の真の対立は、「物理的な体験」と「心理学的な体験」の間にあるのではなく、「心理学的な体験」と「現象的な体験」の間にある。くだいて言えば、物理的な体験とはモノとして分析可能な対象に関する体験である。心理学的な体験とは、心的なものが絡んでくるけれども、因果的に説明可能な人間行動の領域である。言い換えれば、モノと同じように、科学の分析が可能な領域である。一方、現象的な体験とは、意識経験であり、質感のようなもの(クオリア)であって、それがあることの機能が不明であるという意味で、科学的分析にとっては余分なものである。

 つまり、「心的状態」には、「心理学的な特性」と「現象的特性」が混ざっており、前者は脳神経科学や認知科学などによって分析可能であるが、後者はそうはいかないということなのである。後者については私たちが主観的に認識しているが、その存在は私たちの証言でしか確かめることができない。

 たとえば、感情については、状況への反応として機能的な分析が可能である。つまり、心理学的な体験として因果論的に取り扱うことができ、物理的な体験に還元することが(論理的には)可能である。還元できないのは感情の現象的な体験なのだ。

 機能的な分析においては、「心理学的な特性」だけで十分であり、「現象的特性」の有無はその分析結果に影響を与えない。たとえば悲しみの「心理学的特性」はある状況における適応的な反応として分析可能であり、その「現象的特性」としての質的なもの(クオリア)を無視したところで特に不都合は生じない。

 このような地点に立てば、『脳がわかれば心もわかるか』の内容が見通せるだろう。山本・吉川は、現象的特性を、情感といったもの(「現象的特性」と「心理学的な特性」の両面を持つ)と混同してしまっているのである。そのため、「現象的特性」が物理学的分析(脳科学を含めて)になじまないということを、情感といったものが知性的な分析を拒否することと見なしてしまって、知性対感覚・感情という昔ながらの文脈をなぞることになってしまっているのだ。

 知性的なものも感覚・感情的なものも、機能的な分析の対象としてはなんら違いはないとみなしうる。モノ(身体)と心の二元論における境界は、知性と感覚・感情の間にあるのではなく、知性・感覚・感情を含めた心的経験の「心理学的特性」と「現象的特性」の間にあるのだ。

 チャーマーズは自身の立場を特性二元論と言っている。現象的な体験、つまり意識は、物理現象に「論理的」には付随しないけれども、「自然的」には付随する。彼の使っている例でいえば、彼から意識を取り除いた分身であるゾンビというものが考えられ、そのゾンビは、第三者的には、心理学的体験を含めて、彼自身と区別できない。物理的に還元できるものとしては、彼と彼の分身ゾンビは全く同一である。つまり、意識は物理現象に論理的には付随していない。しかし、もしそのようなゾンビを実際に作り出すことができたとすれば、そのゾンビには意識が備わっている。つまり、意識は物理現象に自然的に付随しているのである。

 このことが何を意味するかというと、意識が存在するのは確かであるが、意識は物理現象には関わっていないということなのだ。物理現象(心理学的体験も含む)はそれだけで完結していて、意識の介入を必要としない。意識は物理現象の傍にただあるだけなのである。これは随伴現象説というものだが、チャーマーズはそこにはとどまらない。

 意識が物理現象と断絶しているとしても、それは物理現象の範囲内、つまり物理法則の支配下のことでしかない。物理法則を超えるもの、つまり、物理的なものと非物理的なものが相互作用する精神物理法則というものが見出されるのであれば、意識はただあるだけではなく、私たちの存在に何かの役割を果たしているといえるのではないか。具体的には、信念の確からしさを与えてくれているのが意識ではないか、とチャーマーズは予想する。

 さらに、意識とは情報のあるところに存在すると考えれば、たとえば、サーモスタットにも意識(のようなもの)があるのかもしれない。チャーマーズはこのような汎心論さえ唱えている。もし、チャーマーズが正しいのなら、生きる意味というものに意識が関連しているのかもしれない。しかし、あまりに分からないことが多すぎる。意識についてはこのくらいにして、ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』に戻ろう。

 チャーマーズの見解が納得しうるかどうか、意見が分かれるかもしれない。しかし、二元論を主張するにせよ、その分断の境界が科学的知見によって動かされてきたことは認めねばならないであろう。

 もともとデカルトの二元論的発想は、身体と知性の対立をめぐって語られていた。感覚や感情はむしろ身体寄りの解釈がしやすかったはずだ。一方、知性は身体の物理的特性と鋭く対立するように思え、そのメカニズムは謎とされた。ところが、脳科学やコンピュータなどの発展によって知性の機能的説明がかなりの程度可能になり、その神秘性が失われていった。その結果、二元性の片方に残されたのは現象的意識だけになった。そういう事情ではないだろうか。

 つまり、知性も機能として因果的に理解され、いずれはモノに還元した解釈が可能になるだろう、というのが何となく私たちが抱いている見解になっている。ところが、ガブリエルは、知性は説明されるものではなく、説明するものだ、と言うのである。このガブリエルの主張の理解のためには、二元論の検討は無駄な寄り道ではなかった。二元論の展開の観点からすれば、ガブリエルは、知性の復権――身体(モノ)からの知性の引き剥がしを目指しているように思われる。強引な言い方をすれば、デカルトを復活させようとするようなものではないか。ただし、ガブリエルは知性の機能性に焦点をあてるのではなく、意味の客観性という形で、知性的存在としての私たちを基礎づけようとする。

 では、『世界はなぜ存在しないのか』の詳細をみてみよう。

 ガブリエルが「世界は存在しない」と言うのは、多数の小世界は存在するけれども、「それらのすべてを包摂するひとつの世界」は存在しない、という意味においてである。どういうことなのか。

 まず、「対象領域」と「意味の場」という小世界から見ていこう。世界は、無数の対象が平面的に広がっているというのではなく、特定の種類の諸対象が集まって一つの対象領域を作り、それらの諸領域がいわば積み上げられているようなものである。対象領域にはそれぞれに規則や法則があるが、それらの規則や法則は異なっており、どのような対象が所属するかはその規則や法則によって決まる。対象領域に共通する、あるいは、それらを全体的に統一するような規則や法則はない。

 意味の場とは対象領域に所属する対象が現象している場である。意味の場以外には対象も事実も存在せず、存在するものはすべて何らかの意味の場のなかに現象する。意味の場は客観的なものであり、私たちが気づいていよういまいが成立している。

 対象領域をもととして意味の場が成立するが、意味の場も一つの対象であるので、それがまた対象領域を作り、それがまた意味の場を成立させている。それゆえ、意味の場は無限に多様な仕方で入れ子構造をなしていることになる。ただし、それをごちゃまぜの混沌と見てはならない。意味の場の理解にとって同一性・個別性が本質的に重要であり、そもそも複数の意味の場が存在しうるためには、それらの意味の場が互いに区別されていなければならないのである。

 私たちは「果てしない派生のなかで果てしなく増殖していく無数の意味の場だけが存在する」中を、「意味の場から意味の場への絶え間のない移行、それもほかに替えのきかない一回的な移行」として生きていく。

 それが「世界は存在しない」ことにどうつながるのか。意味の場が無限であって、私たちが把握しきれないことが理由であるのではない。その理由は原理的なものだ。世界とは「すべての意味の場がその中に現象してくる意味の場」である。ところで、その世界はどのような意味の場に現象するのであろうか。世界(S)が現象する意味の場(S1)は、世界(S)の中で現象している。SはS1の中にあり、同時にS1はSの中にある。これは矛盾している。ゆえに世界は存在しない。くだけた形で言えば、世界を確認するためには世界の外に出なければならないが、世界の中にいる私たちは原理的にそれができない。原理的に否定されているのだから、世界として提出されているもの、たとえば「宇宙」といったものは、世界ではない。ただし、このことは、意味の場が客観的な存在であり、また意味の場もまた対象になる、という前提があるからである。意味の場が、たとえば人間がものごとを認識する方法にすぎないとしたら、こうは言えないことになる。

 以上が、私が理解した限りでのガブリエルの主張なのであるが、私にはガブリエルの示す世界像が理解できなかった。むろん、ガブリエルは「世界像」など否定しているのだから、当然なのかもしれないが。私がイメージできたのは、「様々な仕方で関係しあっている小世界たち」というものである。その私のイメージからは、その関係によってすべての小世界が結びついているなら、それが世界である、という見方にどうしてもなってしまう。このような世界のあり方を否定しようというならば、少なくともすべての小世界が関係していることはない(どこかに断絶がある)と主張するだけでよいのではないだろうか。

 ガブリエルは「わたし自身の立場は、一種の多元論です」と言い、二元論については「なぜ実体は二つであって、二二ではないのでしょうか」と批判している。ところで、私のケースでは、断絶を示すには二元論が適切なのである。たとえば、Aという小世界とBという小世界があり、この二つの間に断絶を見つけたとしよう。しかし、もし小世界が他にも多数あって、それらのいくつかがAもしくはBに関係しているのなら、その小世界の関係をたどってAとBの関係を見出すことが可能かもしれない。ただ一つの小世界でも完全に独立していることを示すには、それ以外のすべての小世界との間の断絶を確認するしかない。それは不可能に近いであろう。実際的には、当の小世界以外の小世界すべてをグループ化して、その間の断絶を示すことになろう。つまり、二元論の主張になる。

 実際、ガブリエルの主たる主張も観念の独立性に関してであるように思える。「人間だけが関わることのできる意味の場は、いずれも、けっして人間には触れることのできないいろいろな事実が属する意味の場とまったく同じように、『実在的』である」とガブリエルは主張している。しかし、ガブリエルのそのような主張は、ガブリエルが巧妙に組み立てた理論を使わなくても、可能なように思われる。実際、ガブリエルが心的なものを擁護するやり方は、心的なものと物理的なモノという、昔ながらの二元論に見える。

 ガブリエルが多元論的理論を展開するのは、「新しい実在論」を唱えているから、とも言える。新しい実在論は、一方ではポストモダンなどの構築主義と闘い、他方では自然主義的科学観と闘う。両面作戦は困難な闘いになるので、装備も複雑になる。そのような理論的枠組みを取り除いてしまえば、意外と伝統的な価値観が見えてくるのだ。

 意味の場が客観的であるならば、誰でもそれを理解できるはずである。しかし、ガブリエルによれば、その理解には適性のようなものが必要とされるのだ。たとえば、「人間や意味理解を見出す」ことにおいて必要なのは、「個性」であり、個性の表徴である「創造性・想像力・オリジナリティ」という西欧的な伝統的価値である。

 ガブリエルのこの見解は、ついでに触れたというような次の文に、かえってあからさまに見て取れる。

 わたしたちがピカソの「青の時代」の作品を観たときに、それがわたしたちの気に入るかどうか、わたしたちの身体に働きかけるがどうか、私たちがいわば快く感じるかどうかなどは、「青の時代」の意味にとってはせいぜい副次的なことでしかありません。(中略)ピカソを理解するには、美術史の知識はもちろん、創造性のある想像力、それに新たな解釈にたいして開かれた態度を兼ね備えていなければなりません。

 つまり、芸術作品の意味を理解するには、好悪や感覚や快・不快などの物理的・身体的・感情的要素に頼るような自然主義的な態度ではなく、知的な対応が必要であるということなのだ。

 ただ、ガブリエルは次のようにも言っている。

 しかし、わたしたち自身の現実の生活から離れることで、すでにわたしたちは、あらかじめ多くの理論的決定を下しています。しかもたいていは、わたしたちがそのような決定を自ら意識して下すことはほとんどなく、そのような決定はすでにおのずと下されていると言わざるをえません。メディアや教育システム、あらゆる種類の社会制度を通じて、さまざまな世界像が流布しているからです。

 「美術史の知識」とは「メディアや教育システム」の一つではないだろうか。ガブリエルは、美術鑑賞(「現実の生活」)が美術史(理論)を欠いていては正しい意味を把握できないと言っている一方、空理空論(自然主義的見解=私たちの態度が自然主義的であるとみなす見解)に踊らされないで「現実の生活」に根を置くように勧めている。しかし、美術史が自然主義的見解よりも信頼できるかどうかは自明ではないだろう。

 芸術の鑑賞についてガブリエルが強調するのは、私たちがどう鑑賞しているかではなく、私たちがどう鑑賞すべきか、なのである。芸術作品の意味の場は多様でありうる、とガブリエルは言っている。対象は、私たちへの「与えられ方」や私たちによる「照らされ方」によって、現象の仕方が違ってくるので、当然、意味の場も違ってくる(このことは客観性と矛盾しない、とされる)。つまり、一つの芸術作品にもいろいろな意味の場があることになる。それゆえ、どの意味の場が適切であるかが問われることになるのだ。

 宗教の扱いについても同じことがいえる。ガブリエルは宗教を否定したりはしない。だが、ガブリエルの推奨する宗教は、現に存在する宗教(「第一の形態の宗教」)ではなく、あるべき姿としての宗教(「第二の形態の宗教」)なのである。第一の形態の宗教はフェティシズムであり、これも意味の場の理解しそこないなのである。宗教の信じ方にテストを課されるのは仕方がないかもしれないが、それが知性テストであったなら、信者は洗練されるには違いない。ただし、科学的世界像も第一の形態の宗教とされているので、そのテストは古典的教養テストと言った方がいいかもしれないが。

 しかし、意味の場の多様性は、芸術作品や宗教だけでなく、すべての対象について当てはまることではないだろうか。そうだとすれば、同じ対象ないし対象領域であっても、人によって意味の場が異なることになる。さらに、意味の場の理解しそこないも意味の場として存在するなら、そこには混乱しかないのではないか。何らかの秩序が必要なことはガブリエルにも分かっている。だが、彼が提示するのは、意味の場を理解する人の資質を階層づけて、それを意味の場に反映させることなのである。

 しかし、そもそもガブリエルが主張しているように、本来私たちは自然主義的見解の示すようなあり方をしているのではないとしたら、どんな理論を抱こうと関係なく、私たちの態度が自然主義的であるはずはない。「青の時代」の作品を鑑賞するときに、理論的予備知識があろうとなかろうと、そこに何らかの意味は見いだされているのだ(つまり、「気に入る」とか「快く感じる」だけの自然主義的な態度ではありえない)。その際に得られた意味が妥当であるかどうかなど、「せいぜい副次的なことでしか」ない。

 私たちが感覚・感情にのみ頼るとみなす見解を批判するのと、私たちが感覚・感情にのみ頼るのを批判するのは別のことである。あるいは、知性(意味に関連する)というものを考慮に入れていない見解を批判するのと、知性的(批判的)ではない態度を批判するのは別のことである。ガブリエルは、私たちは自然主義的な見解のみなすような自然主義的態度だけをとっているのではなく、知性的(意味的)でもあると主張する一方、自然主義的な見解を受け入れている私たちは知性的(批判的)ではないとみなしているようである。

 ガブリエルが重視する知性的なものとは、知性的なものを尊重する知性なのだ。知性を従属的なものとみなす知性(理論)には反対するのである。

 ガブリエルが守ろうとしているのは知的な営為であり、そこには物理学主義的世界像ではとらえきれないものがあると考えている。それゆえ、そうは考えない人たち、つまり科学的唯物論を唱える人たちに反対するとともに、科学的唯物論に惑わされている人々の「蒙を開く」ことが意図されている。理論的な闘いであると同時に、啓蒙活動あるいは改宗運動であることが、文脈の混乱をもたらしているのだろう。

 一方でガブリエルは、「存在論的還元」(大雑把に言えば対象についての誤謬の訂正)には科学的な認識が必要であるとか、個々の意味の場が具体的にどんなものであるかを示すのは経験科学の役目であると言っている。科学一般から日常生活を守るという姿勢はガブリエルにはない。むしろ、「理性の実在論」を推奨するのである。

 ガブリエルの立場をより一般的なものにしてみるなら、心的なものの独自性を重視する、ということになるであろう。ガブリエルは物理学主義的な世界観を批判の対象にすることが多いが、むろん、心的現象を脳の作用から説明しようとする試みにも批判的である。そのことは単に知識(理論)の次元にとどまらない。心的現象が脳の作用によって説明され、脳の機能が個体の遺伝的特質によって説明されるならば、心的現象は遺伝的・進化論的に説明されることになろう。遺伝的・進化論的説明が、個体の生存と繁殖の有利さという観点からなされるのであれば、心的現象もそれに沿った説明がなされることになる。そういう説明の仕方で、心的なもののすべてが理解されうるのだろうか。心的現象のそのような理解が、私たちの生き方に何らかの影響を与えているのであれば、それに疑義を呈することは必要なことである、とガブリエルは言いたいのであろう。

 しかし、様々な意味の場は、誰に理解されようとも、たとえ誤解されたものであろうとも、平等な権利で存在するのではないだろうか。それらの適切性を判断するには、それらを比較しなければならないが、人々を超越した存在でない限りそんなことは不可能である。

 唯一可能なのは、人々が伝えあうことによってであろう。ある人にとっての意味の場はその人に聞いてみないと他人には分からない。お互いに各人の意味の場を示し合い、比較検討することで、意味の場の共通の理解と秩序が生まれてくるのではないか。

 意味の多義性(ガブリエルの場合は意味の場の多様性)が会話によらなければ解消されないとしたら、意味に客観性を認めることと、各人が主観的に意味づけすることに、扱い上、さほど違いがないように思える(後者を認めると、世界が現れてきてしまうが)。

 観念論は観念しかないと言い、唯物論はモノしかないと言い、ガブリエルは意味の場しかないと言う。彼は自分の立場を「一種の多元論」としているが、一種の一元論であるとも言えよう。多元性は、意味の場が無限にあり、しかもそれぞれが区別できる(同じものはない)ことに求められている。

 さらに、意味の場が客観的なものであるといっても、ある意味の場が全ての人にとって同じ理解をもたらすものではない。ガブリエルによれば、一つには私たちと意味の場との個別の関係性(「与えられ方」)と、もう一つには私たちの意味形成における個別性(「照らされ方」)によって、理解に違いがもたらされる。

 だとすれば、このような無限の多様性がある意味の場の展開の中で、個々人は独自の意味の場を抱えて孤立していることになってしまうのではないか。各人の意味の場の理解の適切性を判断するにしても、意味の場についての他人の理解を知らなければならない。だが、他人とっての意味の場の理解を私たちが知るには、それを教えてもらうほかには方法はない。自分にとっての意味の場を他人に理解してもらうためには、それを表現して知ってもらわねばならない。つまりコミュニケーションが必要になる。そして、コミュニケーションのための手段が必要になる。

 意味の理解・表現・伝達に必ずしも言語が必要というのではないが、言語の重要性は否定すべくもない。もちろん、身振りや表情などの非言語的なコミュニケーションはある。記号も、言語と区別するなら、重要な非言語的なコミュニケーションである。しかし、コミュニケーションに占める言語の地位は圧倒的である。

 そこで、『コトバの〈意味づけ〉論――日常言語の生の営み――』(深谷昌弘、田中茂著、紀伊国屋書店、1996年)という本を参考にしてみる。深谷・田中は自分たちの理論を以下のように特徴づけている。

 意味づけ論は、「言葉の意味は何か」に代えて、「どういう意味がどのように意味づけられるのか」を意味問題の焦点に据え直し、個人にとっての意味を作り出す意味づけのプロセスと《意味づけの相互作用としてのコミュニケーション》に注目する。ここにこの理論の最大の特徴がある。この理論づくりにおいてわれわれは三つのことに留意した。すなわち、主体の意味づけのプロセスを明示化すること、そのプロセスに不確実性があり意味が再編成されたり創造されたりする可能性が内在していること、そして、それにもかかわらずコミュニケーションを成立させる共有の秩序性もまた内在していること、である。

 深谷・田中は、まず記憶を重視する。刺激によって励起された記憶が、「引き込み合い」(記憶どうしが結びついたり排除したりすること)という経過をへて、「記憶の関連配置」が形成されたとき、「意味づけ」がなされたとみなす。ただし、意味の記憶依存性は固定的なものではない。意味は記憶に依存するが、同時に、それを超出するということに、人間における意味づけの最大の特徴がある。いくつかの意味の「辻褄合わせ」(意味を齟齬のないまとまりとすること)によって「包括的関連配置」が形成される。これが「情況」であり、情況とは意味づけられた状況であると言える。また、「意味づけの作業場」ともいえる。ただし、意味づけには不確定性があり、主体は「引き込み合い」や「辻褄合わせ」によってその不確定性を解消しようとする。この不確定性は、情況自体にも含まれているので、情況の情報を増やしても原理的に解消できない。

 深谷・田中の主張は、ガブリエルを思わせるところがある。意味の形成に関しては特にそうである。ガブリエルの見解と対応させてみれば、「状況」は「対象領域」であり、「情況」は「意味の場」である。「意味」は、深谷・田中では「記憶の関連配置」であり、ガブリエルでは「対象の現象の仕方」であるが、固定的に捕えるのではない点は似ている。

 深谷・田中は不確定性の要因として、「人によって」の「多様性」と、「場合によって」の「多義性」をあげているが、前者はガブリエルの「照らされ方」と、後者はガブリエルの「与えられ方」と対応している。ただし、深谷・田中は、記憶の蓄積の違いによる「履歴変容性」、記憶の不可知性による「不可知性」という他の二つもあげているが、これは記憶が意味形成の要素であることから導き出されるもので、ガブリエルにはない。

 深谷・田中とガブリエルで大きく違っているのは、ガブリエルが「意味の場」を客観的な存在とするのに対し、深谷・田中は「意味づけ」を内的プロセスとする点である。ガブリエルにとっての「意味」は既に客観化されているので、主体はそれを理解すればいいだけになる。一方、深谷・田中は、主体によって形成された意味が外部化されることを説明しなければならない。そこで言語によるコミュニケーションが重視されるのである。

 コミュニケーションには「共有の秩序性」が求められる。これについては意味的なものと文法的なものがあるだろう。意味については、「指示行為における許容の幅が保証される」ために、概念というものが形成される。そして、「差異化作用」「一般化作用」「典型化作用」という概念操作により、概念空間が構造化される。

 しかし、このような秩序性によっても、意味の不確定性は残るのである。対話においては、場面的情況に応じて、対話者の「協働的相互行為」によって、各々の主体内において意味の「辻褄合わせ」がなされる。しかし、コトバ(コード)の意味解釈は各人の内部の過程なので、それが対話者相互に正確に反映されることはない。それでも、コミュニケーションにさほどの支障は生じないのだが、誤解や間違いや解釈不能が生じる余地がある。あるいはそういうものを意図的に生じさせることも可能になる。意味が誤解の生じないほど正確に固定されないという限界は、逆に、変化や創造性が生まれるための柔軟性として、深谷・田中は評価している。

 コトバの意味づけにおける主体の役割の重視は、ガブリエルが言及していない、意味と行動を結びつける視点を与えてくれるだろうか。深谷・田中は、意味づけを「主体が状況を抱握し状況を思念するプロセス」としている。「情況の取り込みは、状況内の出来事を情況に貫入させる営み」であり、「行動は、情況内の出来事を状況へ流出される営み」であるとされるのだ。このような見方は、状況から行動への道筋における意味の役割の解明が期待できそうである。

 だが、深谷・田中は、意味づけの介在により、「主体と状況に関する関係構造式の体系によって説明可能であるような局面」だけではなくなる、と主張する。つまり、刺激のインプットと行動のアウトプットの間の関係を予測できるモデルは、意味に関しては困難である。入力データと出力データを「幾ら統計分析にかけても、コトバの意味を説明できるような変換式は導出できるはずがない」のである。それは、記憶に由来する意味の不確定性が原因である。記憶は個々人の履歴によって異なり、さらに「引き込み合い」や「辻褄合わせ」という不透視の過程により、「記憶の関連配置」は予測不可能性を含んでしまう。深谷・田中は研究領域を当面は言語論に限っているので、インプットもアウトプットもコトバ(コード)であり、その意味の多様性や多彩性により、予測が難しいのは当然かもしれない。

 では、このような「意味づけ」は私たちの生にどのように位置づけられるのか。

  人間は意味づけする存在である。意味づけするということは、状況を情況として把えることであり、意識される事象は、意味づけする者にとっての情況として現れる。この観点から見るならば、個々人の情況から離れた意味は、生の意味になりえない。われわれが「社会現実」と呼ぶものは、そこに在る何かではなく、かならず誰かによって意味づけられた《意味の複合体》である。

  だとすると、われわれが生きている社会では、どのような情況にも(それを意味づけた当人にとっては)等しくリアリティがあり、それを虚像だとか不当な情況として決めつけることは、だれにもできない。もしそういう評価を下そうとすると、それは自由な意味づけ行為を侵害することになりかねない。

 前半は、「世界」と「社会」の違いはあるものの、ガブリエルと共鳴するような見解であるが、後半は、意味形成に階層性を見るか(ガブリエル)、平等性を見るか(深谷・田中)の違いが現れている。いずれにせよ、意味が全てという点は共通する。そのような見方には確かに共感させられるものはあるが、同時に、ある危うさもひそんでいるように思えるのだ。私たちが意味に捕らわれている存在であり、世界を意味としてしか把握できないとしても、だからといって意味を世界の唯一の(というのが言いすぎならば、根本的な)構成要素とみなすことができるのだろうか。私たちは意味づけることができない対象をも認識できる。さらに言えば、私たちの認識自体が世界の全てではないだろう。

 私たちは意味の理解やコトバの解釈の難しさにとどまって、それ以上進めないのであろうか。問題は、私たちは世界をどのように理解し、そこに意味を見出せるかにあった。私たちが意味的存在であることが意味の存在を保証しているのだと納得できたとしても、それが私たちの生においてどのように機能しているかが知りたいのである。つまり、意味が私たちにインプットされるのか、意味が私たちの内部で形成されるか、どちらにしても、それが私たちの行動(むろん会話も含まれる)にどう影響を与えるのか、ということを。

 『なぜ世界は存在しないのか』においてガブリエルが批判しているのは、主として、「自然主義」と形容されるような物理学主義的世界像である。この世界像は、モノ(物理的物質)の動きだけではなく、私たちの行動についても、物理的に(粒子の作用として)説明しようとしている、と彼は言う。さらに、はっきりとは言及されていないが、進化論的世界像と脳神経科学的世界像も同様に批判の対象になっている。粒子というモノの動きから直接人間行動を説明するのはさすがに困難だが、モノとしての脳や遺伝子を介在させることでそれができると考える点で、物理学主義的世界像と同罪である、とガブリエルはみなしているのだろう。

 ガブリエルは意味の場という概念を使って、モノだけしか存在しないという世界像を批判する。むしろあるのは意味の場だけである、と。モノも意味の場としてしか存在しないのであるから、モノとモノでないもの(心的経験)は意味の場において同じ存在である。モノの優位性をなくしてしまうことで、モノの影響力を否定したわけだ。ただし、意味の場は主観的なものではない。彼は観念論や構築主義に反対している。意味の場は客観的なものなのである。

 客観的なものであるといっても、意味の場はモノのように刺激というあり方において原因となるわけではない。私たちは意味の場を理解するのである。よろしい。では、私たちが理解した意味の場は、私たちにどう影響するのか。私たちはその意味の場とは関係なしに行動するのか。それとも、意味の場は情報として役立つのか。あるいは意味の場が直接私たちを動かすのか。

 しかし、意味の場が私たちにどう影響するかをガブリエルは示していない。もし意味の場が原因として私たちが行動するのであれば、そこに因果性が認められることになる。単なるモノだけでは私たちの行動を引き起こせないということは認めていいかもしれない。しかし意味の場が原因になるのであれば、モノが意味の場に変換される機構が解明されることによって、間接的にモノが原因とみなすことができるかもしれない。

 私たちの行動はモノによっていわば直線的に引き起こされるのではないことを説明しようとして、意味の場を持ち出してきても、意味の場がモノの代わりになるだけのことにすぎない。意味の場そのものではなくその理解が問題なのだと付け加えても、モノそのものではなくモノの理解が問題なのだと言うことと、どこが違ってくるだろうか。

 ガブリエルはこう反論するであろう。モノにせよ心的経験(あるいは観念)にせよ、いったん意味の場に投げ込まれる。意味の場での関係性はモノそのものの関係性とは異なっている。では、ガブリエルの目的は因果性から人間を解放することなのであろうか。

 意味の理解には多様性がある。この無限の多様性には再現性がない(一回限りである)のであれば、私たちは因果的な判断を下せないことになってしまう。意味の場と行動の因果的関係は遮断されるのだ。

 意味の場と私たちの行動に因果的な関係がないとすれば、意味の場の理解の違いは行動の違いをもたらさないことになる。では、行動の違いをもたらすのは何なのだろうか。

 意味の場が私たちに教えてくれるのかもしれない。つまり、意味の場は直接思考に到達するのかもしれない。思考が因果性の拘束から免れているならば、思考がもたらす行動もまた因果性の拘束から免れていることになる。ガブリエルの意図はそこにあるのかもしれない。似たような状況では似たような行動が期待されるとしても、そこに意味の場と思考が介在することで、違った行動がなされるのかもしれない。しかし、思考による行動はランダムなものではあるまい。思考と行動の関係に再現性が見られるのであれば、因果性も見いだされるだろう。

 あるいは、意味の場とは認知の問題にとどまるのであろうか。しかし、そこで探求の作業をやめてしまうわけにはいかない。意味の場が私たちの行動にどのように作用するかまでが説明されなければならないだろう。

 そこで、ガブリエルから離れて問い直そう。意味とは何だろうか。このことが明確にされなければ、意味の有無についてとやかく言っても始まらないだろう。意味論の藪の中に素人が分け入っても醜態をさらすだけかもしれないが、やれるだけはやってみよう。

 思念において言葉を用いない理解というものもある。単純な例として、一般的に水が低い方へ流れること(逆流という例外はあっても)の理解は、言葉なしでも可能であろう。物事のメカニズムの理解は非言語的であることが可能だ。むしろ、言語的な説明が余計な回り道でしかないこともある。言語表現が困難な認識というのはありふれているので、意味を言語現象に限ってしまうことはできまい。

 では、意味づけは私たちにとってどんな機能があるのだろうか。人が意味を求めたがるのには、進化的な理由があるはずだ。意味づけは私たちの行動の動機となる。意味は価値の評価と関係があるが、それだけではなく、現象のメカニズム理解の手掛かりでもある。私たちが現象を認識するのは、意思決定に資するためであろう。意思決定のための認知や認識は進化的に有利であるので、その有効性を高めるために意味づけがなされるようになった。だからこそ、私たちは意味を求めようとする。

 生物にとって何か重要なことを察知することを「意味ある」と把握することとするならば、言語だけの現象ではない。そして、生物個体の機能は進化的に解釈しうるとすれば、意味づけを進化的に理解することができるであろう。私たちが意味づけできるということは、進化論的世界観を否定するものではなく、むしろそれを補強するものではないだろうか。

 環境に意味を見出すのは、人間に限られることではなく、生物一般の特性であろう。人類以外の生物も意味を持ちうるとして、彼らの保有する意味が私たち人類にとってどういう意味を持つだろうか。それが異星人であっても、蟻であってもいい。彼らとコミュニケーションが取れなければ(つまり私たちの意味を彼らの意味に変換し、彼らの意味を私たちの意味に変換することができなければ)、人類以外の生物の持つ意味は私たちにとっては無意味である。私たちが私たち以外の生物に、その生物にとっての意味を見出したとしても、それはあくまで私たちの意味なのである。同様に、彼らにとっても私たちが持つ意味は無意味である。意味は私たちを超え出ることはないのだ。

 人類にとっての意味が人類だけのものだとしたら、人類を除いた世界には人類にとっての意味が存在しないといえるのではないか。

 要するに、意味と世界は同じものではないだろう。たとえ世界も意味も無限であるとしても、意味は全体としての世界に含まれるが、世界ほど大きくないということはありえる。

 ガブリエルの「意味の場」論についていろいろ検討してみたが、私の立場は変わることはなかった。進化論は強力なので、そうなることは見えていたとも言える。では、何のための遍歴であったのか。ガブリエルに触発されて、進化論における意味の位置づけを考えることは、進化論が私たちにとってどのような意味があるのかの理解になると思ったからだ。

 私たちが意味を求めるのは遺伝子の作用である、と言うだけで済むのであれば簡単だ。むしろ、私たちが(遺伝子にしてみれば)不必要に意味を求めることが説明されなければならない。ただし、以下に述べることは私の個人的な意見であり、進化論の「公式見解」ではない。

 進化論の基本は、乱暴に言ってしまえば、私たち含めた生物の存在は、生存と生殖によって規定されていて、全てはそれによって説明され得るというものだ。これは私たちを意気阻喪させる見解には違いない。

 進化論への忌避の一つの大きな理由として、それが人間を利己的な存在とみなしていることがあげられよう。もちろん、利己的なのは遺伝子であって、人間は遺伝子の意図と矛盾することなく利他的になれるという主張もある。しかし、それにしても、そもそも私たちの行動の根本には利己的なものが埋め込まれているようだ。一般的にはそれは「快」とみなされている。この言葉にはあいまいなところがあり、誤解を生じる可能性があるので、「報酬づけ」と呼ぶことにしよう。つまり、私たちの行動は、それが適応的であるならば、報酬づけられているのである。報酬づけというのは行動が適応的であることの印なのだ。私たちは、意識的にではないかもしれないが、その報酬を手掛かりにして行動を選ぶのである。

 だとすれば、奇妙なことが起こる。利他的な行動も報酬づけられていると考えなければならない。くだけた言い方をするならば、利他的な行動も快なのだ。快であることが利己的の印であるならば、利他的であることは同時に利己的であるわけだ。これはカントが嫌った見解である。カントにとって道徳とは義務であり、嫌々でもせねばならないことである。しかし、シラーが皮肉ったように、たとえば私たちが友達を助けることにおいて、嫌々ながらするのと喜んでするのと、どちらが道徳的とみなされるであろうか。むろん、カントの主旨は、快のような傾向性に基づく道徳は、正しい判断を保証しないということにある。ただし、義務の強調も適切さを欠く場合がある。義務は結果によって左右されてはならない。たとえ結果が好ましくないと思えても、義務には従わなければならない。義務は行動そのものに付随するのであって、行動の結果の考慮は含まれない。つまり、どっちにしろ、結果の考慮よりも、行動そのものの評価が重要とされるのではないか。

 利他性を道徳という複雑な現象のなかで理解しようとすると訳が分からなくなってしまうので、切り離して取り扱うべきであろう。利他行動は特殊な条件がトリガーとなって引き起こされるものと考えられる。私たち常に利他的であるのではなく、その必要もないのだ。利他行動が報酬づけられているのは、特殊な条件下では進化的に有効であったからであり、行動主体がその事後的利益を認識しているかどうかはどうでもいいことなのである。

 行動が報酬づけられているというのは、行動が「快」であるというだけでなく、強迫的でもあるということなのであろう。それは義務に似ているとも言える。行動の進化的理由を私たちは知らないし、知る必要もない。私たちは行動の真の目的(遺伝子の目的)が分からないままにその行動をしなければならないゆえに、行動そのものを目的にするようになっているのである。

 たとえば、摂食行動は空腹が満たされるなり味覚を感じるなりの感覚が報酬とみなされよう。あるいは、性行動は交接の感覚が報酬であろう。いずれも、行動そのものが即結果と結びついている。しかし、摂食行動や性行動は、本来の目的を私たちに明示していない。摂食行動は生存のために体を維持するという結果をもたらす。性行動は繁殖(次世代への遺伝子の伝達)という結果をもたらす。しかし、私たちはそのような結果を求めて摂食行動や性行動をするわけではない。行動そのものが即結果としての報酬をもたらすからこそ、私たちは摂食行動や性行動をするのである。

 しかし、摂食行動や性行動は、行動の結果が報酬となっているのであって、行動そのものが報酬とは言えないのではないか。行動の結果がすぐにもたらされるときは、報酬が行動そのものによるのか、結果によるのかはどちらでもよさそうである。

 結果をもたらすものが目の前にない場合、場所的にも時間的にも直近にはない場合はどうなるだろうか。行動は手間ひまのかかることであり、コストである。その行動の結果がコスト以上の成果をもたらすからこそ、行動がなされる。もし、結果が行動の開始から遅延する場合は、行動の結果の予期が先行し、行動はその予期によって誘導されるはずだ。行動が即結果とはならず、事後的な結果によって報われることになる。

 だとすれば、食物が身近で得られない場合、また、異性と手軽にカップルになれない場合(競争に打ち勝ち、異性の気を引くための努力が必要な場合)、摂食行動や性行動もそのような構造を取るのだろうか。そんな悠長なことを生物はしないだろう。摂食行動も性行動も、衝動(食欲、性欲)という形で、行動そのものを報酬づけている。行動の結果が得られる前でも、得られる見込みがどうあろうとも、行動を起こし維持することができるように。結果の不確実性についてあれこれ検討してみても成果がよくなるかどうかは分からない。やってみなければ分からないし、やってみなければ始まらない。結果による事後評価は自然選択が行うことになるだろう。

 摂食行動や性行動のような重要な行動だけが例外であるのではなく、それらは典型例であって、他の諸行動も同じような構造を備えていると考えるべきだろう。行動の報酬は即座でなければならない。それゆえ、行動そのものが報酬となっているのだ。その結果、私たちは行動の進化的目的には無頓着に行動に淫することになる。食べ過ぎによって健康を害したり、避妊をして性行動に勤しむ。それは遺伝子の意図をそれることになるが、時間的にはるか彼方から私たちを操作しようとする遺伝子にとってはやむを得ない逸脱である。

 むろん、知性の発達により、私たちは行動の適切さを判断できるようになっている。結果を考慮して行動をなすかどうかを決定する、というのが行動の過程についての私たちの理解である。また、知性は即座の報酬への誘惑を抑える働きがあるとされている。私たちは行動そのものの報酬に動かされるのではなく、行動の結果を評価するように進化したのではないか。それについては複雑な議論(行動の選択、選択された行動へのロックオン、将来の報酬の予期の作用、想像の役割など)になるのでここでは省略しよう。

 ただし、そもそも知性も行動の一種であるなら、知性的な活動自体も報酬づけられていると考えねばならないだろう。知性の作用も、自然選択の結果により私たちが備えているものであり、その有用性は現にそれがあることによって証明されている。だから、その有用性がその都度検討されるというのではないのだ。私たちは考えることが役に立つと判断するからではなく、報酬づけられているからこそ考えるのだ。

 将来の予測や過去の反省にしても、それが行動の選択に事後的に有効だからではなく、報酬づけられているからこそ、してしまうのである。たとえば、後悔について考えてみよう。後悔の空しさは周知のことである。すんだことを嘆いてみても始まらない。いつまでもそのことにこだわるのは生産的ではない。後悔してみても、過去を変えることはできないのだから。過去にこだわらず(そして未来を気に病まず)「いま、ここ」に生きることが幸福への道であることは、賢者たちが繰り返し諭していることだ。では、なぜ私たちは後悔するのだろう。確かに、後悔は過去の失敗を将来繰り返すことがないようにするための教訓として有効である。しかし、私たちがする後悔は適度さの調整がなされていない。だから、ときには度が過ぎるのだ。私たちが後悔をするのは、将来に備えてではない。後悔をするように私たちがなっているからだ。後悔は報酬づけられていて、後悔することで私たちがいかに苦しもうとも、後悔をやめることはできないのだ。いや、後悔は自分自身を罰することであり、それが報酬づけられているのである。自然選択は後悔する個体を残した。後悔は生存と生殖に有効である。たとえ、それが個々の人間にとって、あるときは過重な負担になるとしても、そんなことは遺伝子にとってはどうでもいいことなのだ。乗客は乗り物の幸福など考えていない。

 さて、長々と述べてきたが、意味を求める行動についても同様のことが言えよう。意味づけが報酬づけられているからこそ、私たちは意味を求めるのだ。意味を求めることが個々人にとってどういう結果をもたらすかは、意味追及そのものとは関係ない。私たちは意味を追求するようになっているから意味を見出そうとするのだ。意味は私たちに課せられた宿命といえる。

 さて、ここからが問題である。私たちは世界の中に意味あるものを見つける。世界のすべてではなくとも、多くの部分に意味を見出している。意味がないとされるものもあるだろうし、私たちが認識しえていないゆえに意味を見つけられていないものもあるだろう。あるいは、そういうものの方が圧倒的多数なのかもしれないが、少なくとも世界のいくらかに意味があるということは、全てに意味がないということを否定できるはずである。

 だとすれば、「世界に意味がない」などとなぜ言えるのか。

 意味について、日常言語の次元で考えてみよう。

 意味というコトバは「コトバの意味」だけを担っているだけではない。ただ、私たちは言語によってコミュニケーションを行い、言語によって考えるから、コトバの意味とコトバの示す対象の意味を明確に区別するのは難しい。

 コトバの意味については、言語共同体において共有され、ある程度安定した内容を保っていることが前提となる。ただし、個人間における変異や、時間に伴う変化はあり、新たな解釈の可能性は開けている。また、コトバの意味は文脈によって異なってくることもあり、ある範囲で許容される自由度のようなものもある。そうでなければコトバは使い勝手が悪い。したがって、コトバの意味にはあいまいさがつきまとう。そのことが厳密な論理展開の場合には問題になり、コトバの意味の明確な定義が求められることになる。むろん、その定義もコトバによってなされざるを得ないのだが。

 そういうことは留保したうえで、意味というコトバがどのように使われているかを具体的に見ていこう。「生きる意味」というコトバには、以下のことなどが意味されていると思われる。

 1 生きることには何らかの目的がある
 2 生きることは何かを達成するための手段である
 3 生きることは何かの表現である。
 4 生きること自体が満足感を与える

 「生きる意味」というコトバは、「生きるというコトバの意味」というコトバとは違う意味がある。「意味」というコトバには、単にあるコトバが解釈可能であるという意味だけではない、より限定的な(より情報量の多い)意味が含まれている。「意味がある」「意味がない」という言い方で分かるように、「意味」にはプラスの価値観が含まれている(それが日本語だけの特性かどうかは、私には分からないが)。

 たとえば、「災害には意味がある」(より際立たせるなら「災害にも意味がある」)と言う場合、そこで使われている「意味」という言葉には何らかの価値を含意している。つまり、悪いことしかもたらさないとみなされている災害にも、何らかのよい影響なり効果があるということを表現していると受け取られるのだ。「災害には悪い意味がある」というような言明は「災害には意味がある」からは通常は引き出せないのだ。

 しかし、意味に価値をつけるなら、よい意味と悪い意味があることになろう。だとすれば、「無意味」「意味がない」というのは、よい意味も悪い意味も見いだせないのであるから、価値に関しては中立的であるはずである。「無意味」には価値がない(ゼロ価値である)ならば、そして「悪い意味」というものがあるならば、「無意味」を否定的に扱う必要はないはずだ。

 ただし、もう一つの解釈もある。意味の内容が悪いものであっても、意味があること自体がよいとされるのである。だとすれば、意味の内容の良し悪しによって、「よい意味」「悪い意味」とは言えなくなる。意味があること自体がよいのであれば、その内容がよかろうと悪かろうと、すべての意味あることは等しくよいものとされねばならないからである。その場合には、「悪い」とは「無意味」であることになる。つまり、「意味」の価値はプラスであり、「無意味」の価値はマイナスである(あるいは、無意味はゼロ価値であり、マイナス価値というのはない)。

 では、なぜ「意味あること」が価値あることであるのか。意味が見出せるということは、その対象と私たちに何らかの関係があるにあることの認識となるからだろう。意味は行動(思考も含む)の契機となる。だから、悪い意味でも情報としての価値はあることになる。状況の対処のためには情報が必要だからだ。つまり、意味があるということは、必要な情報を与えてくれるがゆえに、よいことなのである。逆に、意味がないことは、情報がないためにどうしていいか分からないから、悪いことになる。

 だとしたら、「生きる」についての情報はたくさんあるのだから、「生きる意味がない」と言うことはできないのではないか。

 そこで、意味と情報の関係を考えてみよう。意味というコトバは、「ものごと」の仕組みの理解とか、「もの」が仕組みの中で果たす役割ということを含意している。情報としてはそれで十分だろう。しかし、それだけでは因果関係の把握と同じことになってしまう。

 因果関係の把握とは、事象の関係を整理し、そこに特定の結びつきを見出すことであろう。因果関係には時間の次元が含まれる。未来を予測して対応することは適応的である。そのためには未来の事象の予兆を把握しなければならない。過去の事象間に時間的な前後関係のある相関が見出されれば、それを未来に適用できるであろう。それゆえ、事象間に因果関係を見出す能力は適応的である。私たちは現象に因果関係を見出すようになっている。そうである方がそうでないよりも進化的に有利であることは明白だ。

 では、意味と因果関係の把握はどう違うのか。このことについては、佐藤俊樹著『社会科学と因果分析 ウェーバーの方法論から知の現在へ』(岩波書店、2019年)が参考になった。この本で佐藤は、1906年の論文以降のウェーバーが、「適合的因果構成」という現在の統計的因果推論にまでつながる方法を主張していたことを示し、従来の日本語圏で支配的であったウェーバー像に異を唱えている。日本語圏のウェーバーの理解はリッカートの影響を重視するのが通例であり、V・クリースの影響を受けてリッカートの考えから脱していったことに言及されることはほとんどなかった、と佐藤は指摘する。

 そのこと自体は興味深いが、リッカートの文化科学についての言及も参考になった。リッカートの「文化科学/法則科学」という対比の構図の裏返しが、大森荘蔵の科学批判になっているのだ。大森は科学(リッカートの法則科学)が扱えない分野としての感覚・感情、あるいは山本・吉川の用語では「日常」というものの存在を主張した。リッカートは法則科学が扱えない分野を研究する科学として文化科学を構想した。リッカートの文化科学はガブリエルの意味論にも通じるのかもしれない。

 ウェーバーはそのような二分法を否定したのだ。科学には二つの方法があるのではなく一つの方法しかない、それは自然科学でなくとも妥当する、と。

 さて、ここで取り上げたいのは、ウェーバーが採用した適合的因果構成も含めて、社会現象における因果関係の把握における「価値解釈」についてである。佐藤によれば、「観察者の視野に入ってくる変数群は、その関連性(経路)の形態もふくめて、価値をともなう判断によって限定されてしまう。その意味では、分析される変数群の範囲と経路は、完全に客観的なものにはなりえず、観察者の解釈という性格を必ず持つ」。これは事実認識の主観性を強調しているのではない。「価値解釈」という主観性を排除できないとしても、因果関係は追及できるということなのだ。つまり、完全なデータを得ることは不可能であるから(あるいは、たとえ完全なデータが得られたとしても)、データを選び、データどうしの関連の見通しをつける経験的判断が必要になる、ということである。

 佐藤によれば、「適合的因果構成の基本的な論理は日常的な因果特定の方法でもある」。だとすれば、この本の主旨からは外れるかもしれないが、この「経験的判断」(佐藤の用語ではない)が「意味」と考えられるのではないか。意味は因果関係の要素となり、因果関係の理解を支える。そして、そのような意味を含んだ因果関係の把握が、また新たな意味(経験的判断)となる。意味と因果関係の把握の関係はこのように捕えることができよう。

 これはガブリエルの「果てしない派生のなかで果てしなく増殖していく無数の意味の場」に似ている。私たちは把握した因果関係(一つの意味)の意味をさらに問う。この問いはやむことはない。意味というのは、なぜものごとやものがそうであって、そうでないあり方ではないのか、という問いへの答えなのだ。いわば、存在の恣意性を消去しようとする。

 そこで、意味は単なる因果関係を超えた、本源的な問いに関わってくる。意味の追求を続けていくと、私たちは世界というものに突き当たる。世界とはそうであることをただ受け入れざるを得ないものだ。世界を構成する「もの」や「ものごと」についての究極的な根拠を世界自らは与えてくれない。仮想的には別のあり方も可能であるのに、なぜそうであらねばならないかについては、世界は答えてくれない。

 物理学は世界の物質的な存在の構成や動きについて説明してくれるが、それがなぜ別様ではないのかについては語ってくれない。進化論は私たちを含む生物世界がこうであることの説明はしてくれる。しかし、なぜこうであって、別のあり方ではないのかという究極的な説明はしようとはしない。

 だから、世界には意味がない。世界に意味がなければ、世界に至るまでの過程を逆に遡及して、ドミノ倒しのように無意味が蔓延していく。

 だとすれば、どうすればいいのか。ガブリエルは世界などないと開き直ることで、意味追及の限界を取り払おうとした。だが、そうすることは因果関係の把握の支えを失うことになってしまわないか。他に残された道は、世界の意味をあきらめることだ。究極的な説明を断念すること、「世界に意味がない」のを受け入れることだ。

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 これを書くにあたって読んだいくつかの本のうち、最も印象的だったのは、トマス・ネーゲル著『コウモリであるとはどのようなことか』(1979年、永井均訳、勁草書房、1989年)である。この本は十四の論文を集めた論文集で、訳書の題名は収容論文の一つの表題からとられている。その論文は二元論を話題にする著述でよく引用されていて、私がこの本を知ったきっかけもそれだった。四十年近く前の著作であるが、内容は決して古びていない。

 「コウモリであるとはどのようなことか」において、ネーゲルは、物理学的な客観的な視点では、主観的な意識経験を決して捕えきれない、ということを主張している。コウモリが音波を使って飛び回り、休息するときは逆さまにぶら下がる、というようなことを私たちは知りうる。しかし、そのようなコウモリの主観的体験はコウモリにならなければ分からない。コウモリになったつもりというのはできるだろうが、それはやはり私にとってのコウモリ体験であり、コウモリにとってのコウモリ体験ではない。

 そんな当たり前のようなことで、ネーゲルは何を主張しようというのか。それは、コウモリに対しての私たちの関係は、私たち自身にも当てはまる、ということだ。つまり、コウモリについて、客観的・科学的方法で詳細な理解が可能であり、いまだ不明な点も将来は解明されるであろうが、その方法ではコウモリの主観経験には決して手が届かないであろう。同じように、私たち自身についての客観的・科学的理解によっては、私たちの主観的経験を把握できない、ということなのだ。言い換えれば、モノとしては意識を理解できない。

 二元論的立場のように受け取れるが、そう単純ではなさそうだ。ネーゲルのこの本は論文集であり、さまざまなテーマを取り上げているので、論文間の関係が調整されて体系づけられてはいない。主観と客観の関係についても、私たちは主観性という檻の中に閉じ込められているわけではなく、個人の枠を超えた観点をとることも可能であり、だからこそ、科学的な認識も可能となるのだ、とも言っている。

 私なりにまとめてみると次のようになる。主観的観点と客観的観点は二つの極であり、前者には主観的体験が、後者には物理学が位置している。そして、その二つの極の間には、私たちが生きているさまざまな局面があり、それぞれの局面で主観性と客観性の対立ということが起こっている。それらの諸局面は相対的な独立性を有しており、一元的な統一は困難である。そういう広がりの中で、やはり相互に独立を保ちつつ、各種の学問が成立しており、それぞれの局面と、ある種の専門的な結びつき方をしている。そういう複雑な構造が私たちの生きている世界にはある。

 ネーゲルの論理の具体的な例として、「人生の無意味さ」という論文を取り上げてみよう(訳注によれば、ここでの「無意味さ」は「不条理」と訳されるのが通常らしい)。

 既述のように、ガブリエルは、物理学主義的世界観のもたらすニヒリズムに対し、意味の無限の存在を示すことによって、それを乗り越えようとした。しかし、その意味の中には、無意味という意味も含まれているはずである。意味を見出そうとして無意味に行き当たったならどうなるのかを、あたかもネーゲルがここで述べているかのようだ。

 ネーゲルのこの論文を要約してみると以下のようになる。人生の無意味さは、「自分が時間的空間的に小さな存在であるという意識」や「われわれはいずれ死ぬのだから、正当化のあらゆる連鎖は空中で止まってしまう」という議論によって表現される。それらに対しては様々な反論が可能であり、「人生の無意味を主張する標準的な理論は、論証としては失敗しているように思える」。

 しかし、「そのような議論は、正確に述べるのは難しいが、根本的には正しい何かを表現しようと試みているのである」。「われわれの卑小さや寿命の短さ、そして全人類はいずれ跡形もなく消滅するという事実への言及は、一歩退いて見ることのメタファーであり、そのことによってわれわれは自分を外部から眺め」うるのである。そして、私たちが「外側から自分自身を眺めると、自分の目ざしているものやそれを追求することが、いかに偶然的で特殊的であるかがはっきりしてくる」。「しかし、われわれがこの視点をとり、自分の行っていることが恣意的なことにすぎないと認めても、それによって人生から解放されるわけではない。そこに人生の無意味さがあるのだ。そのような外的な観点をわれわれがとりうるという事実に、ではない。究極的な関心事がそれほど冷静に捉えられている当の人物であり続けながら、その観点をとりうるという事実に、である」。

 つまり、人生の無意味さが「可能であるのはただわれわれがある種の洞察力を――すなわち、思考において自己自身を超越する能力を――所有しているからにすぎない」。たとえばネズミにそのような能力があったとすれば、「彼らの生は無意味で馬鹿げたものになるはずである。というのも、自己認識はかれらがネズミであることをやめさせてくれるわけでもなく、また、かれらをネズミとしての努力を越えた高みに立たせてくれるわけでもないからである。自己意識が与えられたことによって、ネズミは、答えることのできない疑念に満ちた、しかしまた捨てることのできない目的にも満ちた、貧弱でしかも狂わんばかりの生に戻って行かなければならないのである」。

 ここから脱け出ようとするならば、「より高き存在者への奉仕」に救いを求めるか、「現世的な生の中にどっぷりと漬かり込む」か、「現世的で個別的な生を放棄する」努力をするか、「自分の個別的で動物的な本性を野放しにし、衝動のおもむくままにさせておく」か、「自殺」するか、あるいは、カミュが推奨するように「反逆と嘲笑」へと向かうか、である。

 しかし、それらのいずれもが真の解決策とはならない。なぜなら、自らの無意味さ見つめざるを得ないのが私たちのあり方に他ならないのだから。だとしたら、私たちはネーゲルの助言に従って生きていくべきなのだろう。

 もし永遠の相の下で何ものも重要であると信じるべき理由がないのであれば、それはまた事実重要でもないのであり、われわれは自分の無意味な人生に、英雄的勇敢さや絶望によってでなく、アイロニーをもって取りくめばよいのである。

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