井本喬作品集

災厄Ⅰ コロナという問い

 新型コロナウイルスという感染症が不意に世界を襲った。日本でも、2020年1月15日に初めてコロナ感染者が検知されてから、感染の波が何度も繰り返し、しかも波の山がだんだん高くなった。このようなジェットコースターに乗せられて三年以上過ごすことになろうとは、誰が予想できただろうか。

 同じようなパターンが何回も繰り返されているのであれば、何とか対処の方法が工夫できたのではないか。たとえば、感染者数が低下した時期に徹底的な対策を取れば、これほどの事態にはなっていなかったのではないか。

 しかし、それも後知恵なのかもしれない。感染者数の動向を具体的に予測できた人はおそらくいまい。その時点で、そこがピークであること、あるいは底であることは誰にも分からない。私たちの行動が感染の動向に影響を与えたのは間違いないが、起こったことが思っていた通りではなかったことも多い。予想外の不運もあったろうが、運がよかっただけのことを自分たちの対策の成果だと思い込んでしまうこともあったはずだ。

 例えば、一回目の緊急事態宣言が七都道府県に出されたのは2020年4月7日、全国に拡大されたのは4月16日であるが、新規感染者数のピーク(第一波)はその翌日の4月17日であった。また、二回目の緊急事態宣言が四都県に出されたのは2021年1月7日であるが、新規感染者のピーク(第三波)はその翌日の1月8日であった。二回の緊急事態宣言は、感染がピークを越そうとするときに出されているのである。緊急事態宣言の効果が現れるのは二週間程度後と想定されているから、緊急事態宣言がなくとも感染者数は減っていたのかもしれない。第二波では緊急事態宣言が発せられていないのに、2020年8月2日をピークに減少に転じている。このことから、感染者の増加を知って感染を広げるような行動を抑制し、感染者の減少を知ってその抑制を緩めるというように、私たちの自主的行動が感染に影響を与えていて、緊急事態宣言はその追認にすぎなかったとも言えそうだ。

 しかし、もしそうであるなら、私たちの認知を操作することで、感染の波を抑えることが可能ではないのか。ことはそう簡単ではなさそうだ。緊急事態宣言がその役割を果たすという意見もあるが、効果が確認されているわけでもないうえに、発出のタイミングの判断が難しい。また、他の要因があり、それが感染の動向に強く作用しているのかもしれない(たとえば変異ウイルス)。

 ちなみに、三回目の緊急事態宣言は2021年4月23日、第4波のピークは5月9日、四回目の緊急事態宣言は2021年7月12日、第5波のピークは8月26日であった。

 2023年5月の時点で約7万5千人の死者というのは大きな災厄と言えるが、他国と比すればこのような規模でおさまったのは不思議とも思える。

 私たちは災厄が拡大するのを防ぐためにできる限りのことをする。しかし、その効果が期待通りであることはまれである。現状分析と将来予測、それに基づく対策が適切になされれば、もたらされる被害を最小限度に抑えられるはずだが、事態は人間の思惑通りには進まない。私たちは様々な局面で誤る。そして私たちのコントロール外の要素に振り回される。うまくいかなかっただけでなく、意外によい結果が得られることもある。それは運、不運と言う以外にない。

 生きることの不条理など、コロナウイルスが教えてくれなくても分かっている。彼らは私たちに教訓を垂れに来たわけではない。彼らと私たちはたまたま出会った。ただそれだけのことだ。

 コロナ禍で不思議に思ったのは、宗教の役割が見えてこないことだった。もともと日本人は無宗教だと言われてきたから当然なのかもしれない。私は日本人が特別に無宗教的だとは思わないが、コロナ禍の終息を神に祈ったりはしないのは理解できる。宗教者でさえ本気でそんなことはしないだろう。明らかに効果を期待できそうにないそんな無謀な行為は宗教自体を危うくしてしまう。宗教がコロナ禍に正面切って立ち向かわないのは、現代社会での宗教が置かれている状況を象徴しているのだろう。

 カミュの『ペスト』(一九四七年)には宗教と感染症の関係の問題が取り上げられている。カミュは神の存在に頼ることには否定的であるので、災厄におけるキリスト教信仰の危うさを批判的に述べている。災厄の扱いが難しいのは一神教に特有の事情であろう。善悪二神であったり、多神であったりすれば、災厄をつかさどる神がいるので、災厄の原因に悩むことはない。私たちはその神か、あるいはその神に対抗する他の神に災厄を収めてくれるように依頼することができる。しかし、一神教の場合、災厄は神の意思として受け取らざるを得ない。世界で起こることの全ては神の支配の元にあるからだ。神の意思に逆らって災厄の終息を願うわけにはいかない。私たちにできることは神の意思をはかることだけだろう(神が何らかの理由で意思を明確にしてくれないのであれば)。

 『ペスト』の中では、パヌルー神父の説教という形で神議論が述べられている。神議論というのは、ごく簡単に言えば、神が全能であるならなぜ世の中に不幸が存在するのか、という疑問への答えである。神が全能であるならば、不幸の存在を許さないようにできるはずだ。だとすれば、神は全能ではない(不幸をなくせない)か、不幸を認めている(不幸を気にしない、あるいは、不幸を意図している)かの、どちらかでなければならない。この論理的帰結に反駁するのが神議論なのである。

 パヌルー神父の説教は二回あって、一回目ではペストは人間たちの罪に対する神の罰であるという趣旨のことが述べられる。しかし、この論理は弱いところがあって、全能の神ならば人間に罪を犯さないようにさせることができるはずだ、という反論を招くのである。この反論に対しては、神は人間に自由意思を持たせたので、人間は罪を犯すことができるようになっているのだ、という答えが用意されている。しかし、さらなる反論として、人間に自由意思を持たせつつ、罪を犯さないようにすることだってできるのではないか、と言えよう。そもそもなぜ人間に自由意思を持たせて、罪を犯す可能性を与えたりするのか。そしてなぜそのことで人間に責任を問うのか。そこには神の悪意のようなものを感ぜざるを得ないではないか。

 さて、パヌルー神父と医師リウー(この物語の主人公格)は、子供が苦しんで死んでいくのに立ち会うことがあった。そのときパヌルー神父は「子供に罪はあるのか」とリウーに問い詰められる。それが影響してか、パヌルー神父の二回目の説教では、ペストをもたらした神の意図は人間には理解できないが、それでも神を信じなければならない、というように変わってくる。これは、この小説の語り手が指摘しているように、異端ぎりぎりの説である。さらに、神は人間にはその目的は理解できないが人間のためにペストをもたらしているか、あるいは、神は人間のことなど気にせずに神の目的(おそらく人間には理解できない)のためにペストをもたらすのか、そのどちらかは人間には分からないという問題もある。後者の神は人間にとっては無慈悲な神である。そういう神であっても存在することを信じるのは、信仰と言えるのだろうか。

 『ペスト』のメッセージ(の一つ)は、神はいない、あるいは、いたとしても私たちには関係ない、ということであろう。主要な登場人物の一人であるタルーがリウーに語った次の言葉は、静かではあるが強い決意が表明されている。

 「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね、とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、恐らく神にとって、人々が自分を信じてくれない方がいいかも知れないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦った方がいいんです、神が黙している天上の世界に眼を向けたりしないで」(宮崎嶺雄訳)

 ただし、既に述べたように、このような厳しい論理は一神教であるからこそ必要とされてくるのだ。だが、はたしてキリスト教は一神教なのだろうか。カソリックにおいては、神とキリストの関係は三位一体説によってうやむやにされて、キリストは神と同一視されているが、これは神の複数化の始まりではないだろうか。マリア信仰や聖人信仰は階層化された神々の世界を形成しているのではないであろうか。一方、プロテスタントは多神化を免れようとして分裂を繰り返さざるを得なかったとも言えよう。

 そもそも、一神教が多神教よりも優れた教えであるなどということがなぜ言えるのか。多神教というのは神の多機能化でもあり、社会の機能分化に対応したものとも言える。神々の区別の必要から人間の姿に近い形で具現化された神は、祈りの対象として身近なものになる。神やそれに近い存在が絵画や偶像として視覚化され、それらが交渉相手として立ち現れることこそが、信仰の発展形態ではないだろうか。

 現代で一神教とみなされる世界宗教はイスラム教だけと言っていいのではないか。イスラム教が偶像崇拝を禁じていることはその強い証拠である。なぜイスラム教が一神教の形態を保てているかは答えられなければならない課題ではあるが。

 さて、日本においては、一神教神話の外で、神道や仏教なども十分信仰の対象になっている。神々は人間の祈りに応えてくれる態勢にある。生物としての人間にはどうしようもない限界があり、それを乗り越えることができるのは神々だけだからだ。しかし、人々は神々の現世的な力を以前ほど信用できない。人間が理解した限りでの世界の仕組みには、神の入り込む余地が見いだせないからだ。

 ところで、もし神に頼ることができないのであれば、宗教は不可能であるのだろうか。神なしの宗教というのはありうるのか。

 仏教には神はいないはずだ。仏陀は神ではない。しかし、如来や菩薩や明王や天はほぼ神々として機能している。つまり、現在の仏教は多神教と言ってよい。仏教が多神教化したのは信者たちの需要に応じたからであろう。仏陀の教えだけでは信者の獲得は難しかった。インドにおいてはヒンズー教との競争の過程でヒンズー化せざるを得なかった。逆に、インド以外では仏教のヒンズー的要素が強みとなった。大乗仏教と称されるものはヒンズー化された仏教に他ならないのではないか。つまり多神教的であり、私の考えでは、宗教の発展形態に沿っている。

 しかしながら、仏陀の本来の教えは神を必要とはしていないはずだ。仏教に関する私の知識は貧弱であるが、それでもあえて言うなら、仏陀の教えに一番近いのは般若心教ではないだろうか。般若心教は大乗仏教の経典であり、「空」を説くのであるが、逆説的なところに魅力があって、何となく納得してしまう。日本の仏教諸宗派では基本の経典とされ、僧でない人にも人気がある。しかし、般若心経を教義の中心とするならば、多神教としての仏教など成り立たない。般若心経はうわべだけの知識として、もっともらしく説かれるだけだ。

 般若心教の世界は神なき世界である。神の理のない世界、意味なき世界である。そういう世界を前にした心の持ちようが般若心経では語られているのだ。しかし、そのような悟りは救いになるのだろうか。般若心経をまともに取った場合、私たちは平穏ではいられないのではないか。

 意外かもしれないが、般若心経の世界観は科学の行きつくところでもある。次の文章を見てほしい。

 最近の本で、彼は断固として、神なしの宇宙、目的なしの進化、そして人間のことなど気にもかけず、あるいはいかなる導きの材料をも与えてくれない自然といったものを提示する。自然は善と悪との闘いと見るべきではない。自然はいっさいの目的を欠いている。それはDNAの生存を最大化しているだけである。長く持ちこたえればそれだけでいいというわけだ。しかし、同時に、慰めの材料として利用できるあらゆるものの資格を取り上げる。神話、伝説、宗教といったものは、すべて心のウイルスなのだ。非常に強い精神の持ち主を除けば、そのような世界に生きることができる人間はそういない。ドーキンスは、読者が神話の代わりにダーウィン主義を信じることを期待するが、彼のダーウィン主義は、世界は意味を欠いているという暗号化されたメッセージをたずさえている。もし真面目に受け止めるなら、ドーキンスは、一種の意味の真空を積極的につくりだそうとしているように思えるだろう。もしそうなら、彼の読者はその真空をどのようにして満たすのだろう。(垂水雄二訳、以下同じ)

 これはウリカ・セーゲルストローレの『社会生物学論争史』(二〇〇〇年)からの引用である。リチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』(一九七六年)の世界は、生物にとって存在するのはただ一つの原理、遺伝子の自己増殖だけであり、すべての意味はそこから生じているに過ぎない、というものである。般若心経は原理というものもないという徹底的な立場だが、進化論という唯一の原理の認識以外は、ドーキンスも同じことを言っているのだ。

 アメリカでは進化論はキリスト教原理主義と激しい対立を続けている。それほど極端な形ではなくとも、人々が神を捨て去るのは容易ではない。般若心経も進化論も、核心的な部分は敬遠されているのだ。

 かつて、社会生物学論争というものがあった。日本ではあまり注目されなかったようだが、『社会生物学論争史』はその経過を詳細に述べている。ここでは論争自体には触れないけれども、登場人物たちの宗教観は興味深い。

 社会生物学論争を引き起こしたきっかけとなった人物、エドワード・O・ウィルソンは、進化論をキリスト教に代わる宗教とすることで、その対立を乗り越えようとした。『社会生物学論争史』から引用してみよう。

 ドーキンスとウィルソンは、科学としての進化生物学を劇的に異なるやり方で提示する。ドーキンスと違ってウィルソンは、科学(進化生物学)は私たちのすべての欲求、すなわち、知識、美的知識、深い情動的・形而上的満足への欲求、といったものを満足させることができるだろう(そしてそうあるべきである)と信じている。(中略)したがって、ウィルソンは一九七八年にすでに、進化的叙事詩は一つの神話でしかない可能性はあるが、ほかの神話よりはずっとましなもので、「おそらくは、およそ私たちがもちうるもののなかで、最良の神話ではないか」と、指摘していたのである。(中略)ウィルソンによれば、私たちの脳は神話形成機械ということになる。もし脳にそれを与えることができないと、他の何かがその欲求を満たすことができ、いずれにせよ脳は占有されるだろう──より適応的価値の低い神話によって!しかし、ウィルソンは、進化が神話として機能するためには、創造神話の全責任を引き受けなければならなくなるだろうということにも気づいていた。そしてこれこそが、進化的叙事詩を単なる世界についての客観的説明に還元することにしない理由なのである。

 ウィルソンの進化論的宗教が具体的にどんな内容を持つかは分からないが、彼の進化論的世界観はドーキンスのものほど耐え難くはないようだ。それでも既存の宗教にとっては破壊的であろう。

 一方、ウィルソンやドーキンスと論争を繰り返したスティーヴン・ジェイ・グールドは、科学的な分野と宗教的な分野を分離し、それぞれの社会的機能を認めることを勧めた。彼の提案は妥協的であり、現状肯定的であって、受け入れやすいものかもしれない。なぜ彼はこんな温和な立場にいるのか。

 社会生物学論争については、グールドの側の分が悪いようだ。グールドたちはドーキンスたちの「遺伝子決定論」や「適応万能主義」を批判しているが、それはそれらが結果としての現状の必然性を示すことによって、差別の正当化に手を貸していると危惧するからである。世界をよい方に変える努力をドーキンスたちが損なうとグールドたちは思っているのだ。しかし、最近、たまたまグールドのエッセイ集十冊を読み通してみて、彼の提示する進化論的世界観は、ドーキンスのものよりさらに暗鬱であることを知った。

 グールドが言いたいのは、現にある生物の形態や機能が「最適」であるとは言えないということであろう。確かに生物はそれがそこで生きている環境に適応している。しかし、それだけではその生物がその環境に最適な生物であるとは言えない。他の形態と機能を持った生物でも同じように、あるいはそれ以上に適応し得るかもしれない。たまたまそのような生物がいないだけかもしれない。その二つの種類の生物が同時に存在することがなければ、どちらがよりよく適応しているか分からない。

 もちろん、現に多くの種類の生物が同時に存在しているのだから、それぞれが違った形態と機能に分化してそれぞれ適応しているとも言える。であるなら、それぞれの生物はその形態と機能において最適であると言える。

 だが、そういう均衡状態とは別の形の均衡も考えられる。いまいる生物たちの組み合わせとは異なる組み合わせ。異なった形態と機能の生物たちによる異なった組み合わせ。もちろん、環境が違えばそういうことは当然である。例えば、人間のもたらした外来生物が在来生物を押しのけて繁栄するといったような場合は、違った環境で進化した生物が新しい環境でよりよく適応したということであり、在来生物にとっては環境が変化してしまったのだから、生物間の新しい組み合わせが生じて当然なのである。

 そうではなくて、同じ環境であっても生物の違った組み合わせが(理論的、仮想的に)可能であったのではないか。要するに、現に存在する生物の形態と機能は必然的であったのか、あるいは偶然であったのか、ということなのだ。

 ただし、生物と環境の関係は複雑である(環境を定義すること自体が難しい)。生物が環境を選べないわけではない。生物が好ましい環境を求めて移動することもある。また、生物が環境を変化させることもある。私は生物学者ではないので具体例はあまり思いつかないのだが、巣作りはよく見られる例だ。ビーバーのダム、蜘蛛の巣、アリジゴクの穴などは生産手段の開発による環境の変革といえる。

 となると、生物が発生した初期的な環境から、環境‐生物複合体というべきものが変化していった経過が必然的であったのか、他の形もあり得たのかという問いになる。

 これは正解の出しようがない問題である。現にあるのとは違った歴史が可能であったかという問いなのだから。

 なぜこのようなことを問題視するかというと、一つの過程が最適化という観点から必然化されるのであれば、現にあるもの以外は非効率なゆえに実現しなかっただろうと言えるからである。しかし、適応ということが優劣によって選別する強い力ではないとしたら、いろいろな適応が可能であったし、実現したものは偶然的であったと言うことができる。もし、グールドが言うように偶然の力が大きく働いていたのならば、人間という生物種の現在のあり方も最適とは言えないことになる。もっと違った進化の仕方だってあってよかったのだから。このような偶然の結果としての自己の存在を、人間は受け入れることができるであろうか。進化の最終段階にあると自負している人間に、その自負には何の根拠もないと指摘したならば、人間は自己の存在理由をどこに求められるだろうか。

 さらに偶然は現に存在しているものの確実性を保証しない。地球の歴史の中で多くの種が絶滅してきた。種の適応は偶然的な環境の変化に左右され、適応が追いつかぬ間に滅びることはめずらしいことではないであろう。人間という種だけがそれを免れることができるだろうか。

 グールドの説く進化論的世界はドーキンスのものより一層耐え難いのではないだろうか。グールドが宗教を容認するのはそれゆえなのかもしれない。

 ドーキンスの世界には適応上の勝者がいた。そのことに意味はないかもしれないが、人間が勝者に含まれる、それどころか勝者の中の勝者であるという認識は、慰めにはなるかもしれない(ドーキンスがそう言っているのではないが)。しかし、人間の生物的繁栄は単なる偶然、幸運であったにすぎないとグールドは指摘する。その幸運がいつまで続くかは分からない。

 そこで、コロナ感染症の世界的拡大は、私たちの存在論的確信をゆるがしただろうかと問うてみよう。私たちの幻想はそれほどきゃしゃではなさそうだ。ワクチンによるウイルスの制覇によって、人間の優位に関する信念はより堅固になるかもしれない。

 だが、コロナは人間という新たな環境を得て、そこに安住しようとしただけなのだ。コロナ禍自体に存在論的意味はなく、コロナ禍の克服にもその意味はない。進化論はそう言うだろう。

 『社会生物学論争史』にはジョージ・プライスについての記述がある。

  プライスは独学の天才で、集団遺伝学をこなす自らの才能を奇蹟だと思っていた。彼は自分の科学的関心と道徳的関心を結びつけることを義務とするようなタイプの科学者の典型だった。この傾向は後年になるほど強くなり、宗教的な信念と融合するようになった。プライスは、絶対に妥協することなく、科学的な信念も宗教的な信念もどちらも極端なほど真面目に受け止める人物だったように思われる。彼にとって、科学的な理論も聖書の記述もどちらも比喩的なものではなかった。どちらも文字通りの真理であり、現実世界にその結果が現れるものだった。科学に関していえば、進化論が社会的な意味を持ち、それがキリスト教信仰に及ぶとき、キリスト教的な愛もそれに従わねばならなかった。これがプライスを、一方では卓抜な新しい理論の考案、他方においてはロンドンの貧困者やホームレスの救済へと駆りたてることになった。

 当時の進化論は集団選択を当然のこととしていた。集団選択というのは集団間において自然選択が働くという考え方である。個人間での生存競争では利他的行動の存在を説明できない。しかし、集団の成員どうしの助け合いによって集団の力が強められれば、他の集団との生存競争上有利になり、結果的に成員の利益になる。それゆえ、自然選択における生存競争下においても利他的な行動が成立しうるという主張である。

 しかし、集団選択はただ乗りによって破綻してしまうのである。集団の中の利己的な成員の生存上の有利さが、利他的な成員を駆逐してしまうからだ。それゆえ利他的と見える行動は別の説明がなされなければならない。ウィリアム・ハミルトンが示したのは、個体レベルでの利他的行動は遺伝子の観点から見ることによって説明可能であり、その利他性は実は利己的に解釈できるということであった(後にドーキンスは『利己的な遺伝子』と題した本を出版する)。

 プライスはハミルトンの考えを反駁しようとして、かえってそれを強化する理論を作り出してしまった。プライスは自分の作り出した理論が自身の宗教的信念と本質的に矛盾するとは考えていなかったようだ。しかし、彼は学問的な業績の追求よりもホームレスの救済に時間を割くようになり、資産を失っていく。しかも、ホームレスたちは彼を裏切り、彼を悩ませた。次第に彼は自分の努力が効果をあげないことで落ち込んでいった。「彼は神を相手にしても危険な遊技をしていた。低血糖症用のチロキシン錠剤に依存していながら、彼は時々それを飲むのを止め、神が奇蹟を通じてこの化学物質をどうにかして与えてくださるかどうかを待った。もしそれが起きれば、社会活動をつづけるべきだという証しになるだろう。二度にわたって、プライスは思いがけない形で薬を実際に与えられた。しかし三度目は神も干渉しなかった。プライスは、一九七四年のクリスマスのすぐあとに自殺したのである。彼のノートによれば、彼は憂鬱な気分に落ち込んでいて、友人たちの重荷にはなりたくないと記されていた」。

 進化論と宗教の関係についてのプライスの考えについては、ハミルトンの推察が『社会生物学論争史』の中にある。

  ジョージは自分が進化論においてなしとげた発見は本当の奇蹟であると信じていた。得られるとは期待すべくもない場所で神が彼に洞察を与えてくれたのだ。……それは過去六〇年間にわたって世界中の最高の集団遺伝学者たちによって見逃されてきた数式なのだから、進化についての真実を、なぜかちょうど今それを受け入れる用意が整ったと思われる世界に伝えるために、なぜか自分が選ばれたのだということは、彼にとって明らかだった。どのようにして彼がそうすることになったのか。彼はどこまで、どのように語ることを期待されているのだろう。彼は、……新約聖書で扱われている神の真理──すなわち、……使徒たちによってごくゆっくりと理解されていった──とまったく同じやり方で事態に対処するのが正しいと決断した。……そのような最初の解釈者を通じて、そのようなガラスを通して、非常にぼんやりと、進化的な真実が、宗教的な真理とともに、外に向かって知れわたっていくと考えられた。この過程において、私は彼の秘伝を教わる最初の人間として選ばれたのだと思う。

 これだけの文章からでははっきり読み取れないのだが、あえて解釈するとすれば、プライスは彼の得た知識をキリスト教の理念の中にうまく組み入れる必要があると思った。神の示した真実は、そのままではあまりにも残酷であり、かえって信仰を失わせかねないものであった。一般の人々には、その真実の意味が理解できるまでは、知らせるべきではなかった。プライスに課せられたのは、その真実の意味を理解することだった。

 プライスは進化論と宗教をうまく融合させることはできなかったようだ。そのことが彼の死にいくらかは関係があるのかもしれない。

 進化論が真実であるとしたら、宗教は現にあるそのままの形では受け入れることはできない。しかし、既存宗教の変革というのは期待できそうにないから、進化論との仲介というのは難問である。

 極端な形ではあるが、プライスは私たちの迷いを迷い、悩みを悩んだのである。

 コロナ禍が何らかの超自然的な力によって引き起こされたと考えることは、世界の不可解さを減じてくれるだろう。阪神淡路大震災のときも、バブルに浮かれた日本人への懲罰だといった言説が流布された。しかし、地震にしろコロナウイルスにしろ、その力は盲目的であり、選択的ではない。犠牲になった人たちが罰を受けて当然とは言えない。罰を受けて当然な人たちがいたとしても被害に遭ったのは少数で、多くは被害を免れただろう。個人それぞれの罪を問うのは超自然的力にも困難であるようだ。そこで全体責任として十把一絡げに災厄が襲うことになる。個々の犠牲は必然的ではなく、偶然が作用した結果である、となってしまう。そんな力を信頼することが出来ようか。

 そのような超自然的な力などなく、あるのは人間のことなど気にせず、盲目的でそれ自身の規則性にのみ従う自然的力だけであると考えることは、世界に対する信頼感を失わせてしまうだろうか。その力が私たちにとって全く不可解であれば、私たちはただそれを受け入れることしかできない。過去を憶えておくことも、未来を思うことも何の役にもたたない。ただひたすら「いま」という短い時間を必死で生きていくだけである。ある意味で、そのような諦念は悟りである。

 だが、その力はまったくのでたらめな動きをするのではなく、私たちには未知の何らかの法則に従っているのであり、その法則の全てではなくともいくらかでも知ることができれば、その力に備え、その力に抗い、その力を利用し、世界の中の自分たちの位置を定めることが可能かもしれない。たとえそれに打ち勝つことができなくとも、ただ黙って受け入れはしない、と。

 物体でしかない私たちが因果の縛りから抜け出せると思うのは不思議なことである。そこには意識という不思議なものが作用している。意識を生み出したのも世界の法則のゆえだとしたら、ある究極的な目的の一段階と考えることもできるかもしれない。

 しかし、もし私たちがそういう力の全てを理解したとしたら、私たちのすべきことは何もない。すべてはその法則に従って進行し、私たちも単にその一要素であるにすぎないのだから。全知と全能は矛盾する。全知であるのなら、すべては見通せるのだから、たとえ全能の力であってもそれを変えることはできない。

 私たちはそのような法則の一部は知っているが、すべてを知ってはいない。だから、未来を変えようとして行動を起こす。私たちの知り得ないことが、私たちの自由なのだ。全くの盲目的なあがきではなく、すべてを知っている諦念でもなく。世界は薄暗がりなのである。宗教だろうと進化論だろうと、もちろん科学も、法則の一部の把握でしかない。私たちはそれらを頼りにしつつ、不意打ちを覚悟で進むしかないのだ。

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