井本喬作品集

災厄Ⅱ 原発という名の運命

 福島第一原発事故の発生から十年たった。

 この事故が起きる前までは、原発事故といえば原子炉稼働中の放射能洩れというイメージであり、原子炉が停止すれば安心だと私は思っていた。それ以上の詳しいことは、政府も電力会社も説明しようとしなかった。いやいや、知ろうとすれば知ることはできたはずで、情報が隠されていたわけではないと言われてしまうかもしれない。それはそうだが、原発は安全だという政府や電力会社の言い分を疑ってまで個人的に調査する責任が私たちにあるのだろうか。そうであるなら、政府の言うことなど何も信じられないことになる。

 原子炉が核分裂反応を止めても核燃料棒の熱が下がるまで長い時間がかかるので、冷却を継続しなければならないということを、うかつにもこの事故が起きてから私は初めて知った。核分裂反応が生み出した放射性物質は安定的な状態になる際に放射線が出る。そのエネルギーが周辺の物質に吸収されて熱に変わったのが崩壊熱である。崩壊熱を抑えるために原子炉を止めても冷却は続けなければならない。さらに使用済み核燃料は原子炉から取り出されてからも冷却を続けなければならない。使用済み核燃料が原子炉建屋の上階にある遮蔽されていないプールに入っていることも、この事故が起きてから私は初めて知った。そもそも、原発が自ら使用する電力を外部に頼っていることさえ知らなかった。

 こういう情報を事前に知っていたら、原発に対する評価も変わっていただろう。そのような情報をきちんと公開するだけの誠意がうかがわれるのであれば、考え得る危険への対応はきちんとなされるはずだと期待できたかもしれない。

 福島第一原発の事故対応については、映画『Fukushima50』(二〇二〇年)が描くような、現場の人間たちの懸命な行動が事故の拡大を防いだというイメージがあるのではないか。特に、首相官邸や東電本社の容喙を無視して一号機への海水の注水を続けた吉田所長の「英断」に象徴されるように、無能な上部の抵抗を排しながら問題の解決に努力する現場というのは、私たちの喜びそうな構図である。しかし、そのような私たちの幻想に対する一番の皮肉は、せっかくの吉田所長の英断によって続けられた消防注水が一号機にほとんど届いていなかったということだろう。

 この情報はNHKメルトダウン取材班による『福島第一原発事故の「真実」』(二〇二一年)から得たものである。この本を読むと、事故の拡大を防ごうとする人間の努力がなかなか成果をあげられない中で、幸運という偶然的な要素が助けてくれたというのが実態であったと思い知らされる。

 幸運と同時に不運もあった。運というのは、思いもよらぬ出来事ではあっても、違った結果をもたらすことも出来たはずの選択がどこかの時点でなされたという意味を含む。地震も津波も不運だろう。しかし、防波堤を築くなり、非常用発電機を高台に設置し直すなりの予防策を取っていれば、メルトダウンは防げたのである。

 以下、この本によって詳細を見てみよう。今回の事故の引き金となったのは一号機の非常用冷却装置(通称イソコン)であった。イソコンが正常に作動していれば、事故を防げたかもしれない。

 一号機には五つの冷却系があったが、地震と津波による全電源喪失により四つは機能を失い、唯一動くことが可能だったのはイソコンだけだった。イソコンは原子炉で発生した高温の水蒸気で駆動し、いったん起動すれば電気がなくても動き続ける。ただし、イソコンが起動できるのは十時間ほどであるので、それまでに新たな注水の手段を確保しなければならない。

 二〇一一年三月十一日、地震の発生で外部電力が失われた直後の午後二時五十二分、イソコンは自動的に起動した。急激に冷やされると原子炉の部材が悪影響を受けるので、それを防ぐため、イソコンは手動操作によって停止と起動を繰り返していた。ところが、地震発生から五十一分後の午後三時三十七分、突然、計器盤の表示が消えた。津波のために非常用発電機が停止してしまったのだ。原子炉の状態を把握するすべを操作員たちは失ってしまった。イソコンが起動しているかどうかも分からなくなった(計器の表示が消える直前にイソコンが起動状態にあったのか停止状態であったのか、はっきりしなかった)。この情報は吉田所長には届かず、吉田所長はイソコンが動いているものだとその後も思い込んでいた。 

 午後六時十八分に、イソコンの弁の状態を示すランプがなぜか点灯し、イソコンが停止状態であることが分かった。中央制御室の当直長はイソコンを起動させたが、空焚きを懸念して七分後にイソコンを停めてしまうのである。この情報も吉田所長には届いていなかった。

 当直長は消火用ポンプによる注水を試みたが、原子炉内の圧力が高すぎて断念、午後九時半、イソコンを再び起動させた。

 後の検証によると、一号機内の水位は午後五時三十分から六時の間に燃料棒の先端にまで低下し、六時四十分には炉心溶解が始まっていたようだ。午後九時半からのイソコン起動はあまりにも遅すぎた。

 では、もし六時十八分からイソコンを起動し続けていたならどうだろう。この場合でも午後七時には炉心溶解が始まっていたと推定されている。

 つまり、津波到達のときからイソコンが停まっていたことが、一号機のメルトダウン(炉心溶解)とメルトスルー(核燃料が圧力容器から格納容器に漏れ出してしまうこと)を引き起こし、その結果一号機が水素爆発を起こして電源回復作業を遅らせ、それが二号機と三号機のメルトダウンとメルトスルー、三号機と四号機の水素爆発につながっていったのである。

 イソコンの状態については、中央制御室のメンバーと免震重要棟の吉田所長らのメンバーとの間に情報の共有はなされなかった。両者間でイソコンの状態を確認し合えば、イソコンが停止していることが把握され、早い段階で手を打つことができたであろう。そうすれば、福島第一原発事故は起こっていなかった可能性が高い。

 だが、仮定のことを言ってみても仕方がない。起こったことはどうしようもない。それが運なのだ。

 福島第一原発事故が実際よりもさらにひどい結果を引き起こしたかもしれない二つの危機があった。一つは、二号機への注水もベントもできないことで、格納容器が爆発して放射性物質が飛散したかもしれない可能性。もう一つは、四号機の使用積み核燃料プールの水が蒸発してむき出しの燃料棒がメルトダウンを起こしたかもしれない可能性。どちらの場合も、原発から職員を避難させねばならなくなったであろう。そうなったら、第一原発の一~六号機の原子炉および使用済み核燃料プールのコントロールが失われるだけでなく、近くにある第二原発の一~四号機(こちらも津波被害に対処していた)も放棄され、どのような事態になったか想像もつかない。

 第一原発を放棄した場合の最悪の事態を想定したレポートが菅首相(当時)の要請によって内密に作られていた。それによると、半径一七〇キロ圏内が強制移住地域、半径二五〇キロ圏内が汚染地域になると予想されている。二五〇キロ圏内とは、北は盛岡市、南は横浜市までいたる地域であり、首都圏も含まれてしまう。東日本壊滅どころか日本の破局となっていたであろう。

 ではなぜそのような最悪の事態が起こらなかったのか。そこには不運と幸運が折り重なった複雑な過程があったのである。まず、格納容器爆発の可能性について見てみよう。

 冷却装置の不具合により圧力容器内の核燃料の温度が上がると、大量の水蒸気が発生して圧力が高くなる。非常措置としての消防ポンプによる低圧注水をするためには、容器内の圧力を下げねばならない。圧力容器から水蒸気を逃すためには格納容器下部の圧力調整室(通称サブチャン)に通じるSR弁を開く。この操作によって圧力容器の圧力を下げることができる。

 しかし、注水による冷却が十分でなければ、今度は格納容器の圧力が上がって破損する恐れがある。このときは、格納容器の圧力を下げるためにベントという操作が行われる。格納容器からは二本の配管が排気塔へ出ていてそれぞれにAO弁(空気作動弁)があり、さらに二本の配管が合流した先にMO弁(電動弁)がある。ベントを行うには少なくともAO弁の一つとMO弁を開けなければならない。

 では、稼働していた一~三号機の原子炉がどうなったかを順番に見ていこう。

 一号機では既に述べたようにイソコンが停まっていたため、最初にメルトダウンが起きたが、そのことが把握されていなかったのでSR弁の操作は行われなかった。午後十一時に原子炉建屋内の放射線量の増大が報告され、午後十一時五十分に格納容器の圧力上昇が判明したことにより、ようやくメルトダウンと圧力容器からの水蒸気漏れが推測されるようになった。格納容器の破損を防ぐにはベントが必要だった。

 一号機のベントについては、現場と東電本社のやり取りや、菅首相の現場来訪などのごたごたが問題視されているが、要はAO弁とMO弁を開けるのに手間取ったのである。電源が失われていたため原子炉建屋内の両弁を所員が手動で開けねばならなかったが、建屋は既に高い放射線量となっていた。作業は非常に危険だった。そこで「決死隊」という言葉が使われたのである。

 ベントに備えた大熊町の住民の避難が完了した十二日午前九時三分、吉田所長から中央制御室にベント作業の開始が告げられた。二人で組になった「決死隊」が建屋に入ってMO弁を開けることに成功したが、別の組が目指したAO弁は放射線量が高すぎて近づけなかった。結果、ベントは実施できなかった。

 結局、AO弁は配管に可搬式コンプレッサーをつないで圧縮空気を送り込むことで開くことができ、午後二時すぎにベントが実施された。

 一方、原子炉への注水は消防車を使って実施されていた。幸運なことに、原子炉に通じる消防配管のルートは、建屋の放射線量が高くなる前に中央制御室のメンバーによって既に作られていた。タービン建屋の送水口に消防車のホースを接続して注水が始まったのは十二日の午前四時すぎだった。この消防注水をめぐってはいろいろあったけれど、結局は原子炉にはほとんど届いていなかったことが後に判明したのは既に述べた。

 そして、午後三時三十六分、誰もが予想していなかった一号機の水素爆発が起きた。

 一号機の水素爆発はもう一息で達成できる段階にまできていた電源復旧作業を台無しにしてしまった。このことが二号機・三号機のメルトダウンにつながっていく。

 次は三号機を見てみよう。三号機は地震後RCICという非常用冷却装置を使っていたが、高圧注水系の冷却装置であるHPCIに切り替えた。三号機はバッテリーが津波の被害を免れていたので、バッテリー駆動のHPCIが使えたのである。ところが、バッテリーの残量が減ってきたためか、HPCIの動きが不安定になってきた。そこで、消火用ポンプによる注水に切り替えることにし、十三日午前二時四十二分、HPCIを停止させた。消火ポンプによる低圧注水のためには圧力容器の圧力を下げなければならない。そこで、圧力容器から格納容器に水蒸気を逃すSR弁を開こうとしたが、八つの弁のどれも開かなかった。バッテリー不足のせいだった。SR弁が開かないのでHPCIを再起動しようとしたが、やはりバッテリー不足で動かすことはできなかった。三号機は冷却も減圧もできない状態に陥った。

 所員たちの必死の努力でバッテリーが調達され、電圧が合うように工夫されて、ようやく制御盤につながれた。不思議なことにその直前にSR弁が自動的に開くということがあった。これは幸運だったかもしれないが、どっちにしろバッテリーが確保されたのでSR弁の操作は可能になっていた。圧力容器の圧力が下がり、午前九時二十五分、消防車による注水が始まった。同時にベントによって格納容器の圧力も低下した。

 しかし、三号機の消防注水は、一号機ほどではないにしろ、配管の途中でのバイパスフローによって、期待されたほどの効果をあげなかった。さらに、後の解析によれば、HPCIはかなり早く注水機能を失っており、十二日午後八時以降はほぼ注水できていなかった。三号機でもメルトダウンは進行していた。

 そして、十四日午前十一時一分、三号機も水素爆発を起こした。

 では、二号機はどうだったのか。二号機は津波による全電源喪失の直前に起動させたRCICによって注水が続けられていた。RCICは原子炉から発生する蒸気を利用して、原子炉建屋地下にあるタービン駆動ポンプ動かして、タービン建屋の非常用タンクの水を原子炉にそそぐシステムである。RCICの始動には電気が必要だが、いったん起動すれば電気は必要ではない。

 しかし、津波直後から動き続けていた二号機のRCICも、四日目の十四日に入るとついに機能を失いかけていた。消防車による注水の準備は三号機の水素爆発で中断したが、その後再開され、午後三時時すぎには注水が可能になった。

 消防車による低圧注水のためには、SR弁を開けて圧力容器の圧力を下げねばならない。しかし、RCICの水源となっていたサブチャンは異常な高温高圧状態にあったため、SR弁を開けて圧力容器の水蒸気が一気にサブチャンに入ると、破損させる恐れがあった。そこで、まずベントによって格納容器の圧力を下げることを検討していた。

 注水が先かベントが先かについてはまたしてもごたごたがあったが、結局ベントを先にすることになった。ところがAO弁がなぜか開かない。そこでやむなくベントなしの注水を行おうとしたが、SR弁も動かなかった。可搬式コンプレッサーでベント弁を開ける方法、バッテリーをつないでSR弁を開ける方法、これらはいずれも一号機と三号機で成功したものだ。ところが二号機では反応しなかった。

 減圧も注水もできないまま時間がたっていく。このままでは二号機の格納容器が爆発し、チェルノブイリのような事態になりかねない。現場の多くの人がそういう予想におびえていた。午後六時すぎ、必死の作業が功を奏したのか、なぜか分からないがSR弁が開き、減圧が開始された。消防車の燃料切れというトラブルもあったが、午後八時前には注水が開始された。ベントができないままに、原子炉の圧力は原因不明の不安定な動きを続けた。

 このとき、原発からの退避という話が出てきて、内容があいまいなままに、菅首相の過激な反応を引き起こした。

 十五日午前六時十分ごろ、衝撃音と縦揺れが起こった。サブチャンの圧力計はゼロを示していた。格納容器が爆発したと誰もが思った。ところが、格納容器の圧力は下がっていなかった。後の検証によると、サブチャンの圧力計が壊れていたようである。このとき、四号機の建屋が壊れているのが判明した。四号機が水素爆発を起こしたのだ。

 午前十一時二十五分、格納容器の圧力が大幅に降下しているのが確認された。既に二号機の格納容器からは大量の放射性物質が外部に放出されていた。逆に言えば、格納容器の一部が壊れたために爆発が防げたのである。その意味では幸運だったと言えるが、人間の側は翻弄されっぱなしだった。

 ベントができないという一番危機的な状況にあった二号機だが、後の検証によるとメルトダウンの程度は一号機や三号機よりも少ないことが分かった。なぜか。じつは、核燃料の崩壊熱だけではウランが溶ける二二〇〇℃以上の高温には達しない。崩壊熱によって九〇〇℃を越えると、炉内の水と核燃料に含まれるジルコニウムが反応を起こして二〇〇〇℃を越える高熱状態になる。つまり、水の存在がメルトダウンを引き起こすのだ。二号機の場合、SR弁開放後の消防注水の遅れにより炉内が水不足になっていて、既に起こっていた「水‐ジルコニウム反応」を抑制したのではないかと推測されている。消防車の燃料切れという人為的な理由による注水の遅れがかえった幸いしたというのだ。これも幸運だったのだろうか。皮肉なことである。

 三月二十三日から外部電源を使った給水ポンプでの注水が一~三号機で行われるようになり、原子炉の温度がようやく低下に向かうようになった。それまで行われてきた消防車による注水は期待されていたほどの効果はなく、メルトダウンは続いていたのである。

 四号機は地震の際には定期点検のため原子炉を停止していて、一五三五体の核燃料は使用済み燃料プールの中にあった。当初、十五日の四号機水素爆発はこの核燃料から発生した水素によるものではないかと疑われた。そうであれば、燃料プールの冷却に支障があることになる。もし、燃料プールの水が干上がってむき出しの核燃料がメルトダウンを起こすことになれば、大量の放射性物質が放出されることになる。この対策も最優先だった。また、アメリカ政府も燃料プールの危険について敏感な反応を示していた。

 しかし、四号機の燃料プールの水位は意外な理由で保たれていた。燃料プールに隣接する原子炉ウェルと機器貯蔵プールには、定期検査のため燃料プールと同量の水が貯められていた。燃料プールの水が減少すると隣のプールから水が流れ込む構造になっており、これが燃料プールの水位低下を防いでいたのである。これも幸運だった。

 では、なぜ水素爆発が起こったのか。三号機のベント配管は四号機の非常用ガス処理系と呼ばれる排気管に接続していて、三号機のベント作業の際に逆流してきた水素が四号機の原子炉建屋にたまっていたのが原因だった。

 ところが、この爆発によって四号機の建屋が破損したことが、燃料プールの給水に幸いしたのである。燃料プールの水は減少し続けるのだから、いずれ注水はしなければならない。三号機のベントによる放射性物質のせいで四号機の建屋には立ち入れなかったから、燃料プールが露わになったことは外部からの注水に好都合だったのである。

 これは三号機の燃料プールにも言えた。十七日、国民やアメリカ政府に対するセレモニーのような形で自衛隊のヘリコプターによる三号機の燃料プールへの四回の放水が行われたが、ほとんど効果はなかった。同日夜、警視庁機動隊の高圧放水車、翌十八日からは自衛隊の消防車、アメリカ軍の消防車、東京消防庁ハイパーレスキュー隊などによる三号機燃料プールへの放水がなされたが、これらも見るべき効果はなかった。

 大型コンクリートポンプ車による注水が、二十二日から四号機に、二十七日から三号機に実施されて、ようやく危機回避のメドが立った。その後、一~四号機の燃料プールは配管を使った注水冷却によって落ち着いていった。

 以上のように、思わぬ事態に翻弄されながら現場職員たちはまさに必死の努力をし、それが報われた場合もあったが、多くは結果的には効果がなかった。稼働中の一~三号機のメルトダウンは防げず、放射性物質の放出も止められなかった。最大の危機であった二号機の格納容器爆発と四号機の燃料プール水の蒸発が避けられたのは、幸運によるものだった。

 核燃料の冷却成功による事故封じ込めという最良の事態から、原発放棄による広範囲の放射能汚染という最悪の事態まで、いくつもの可能性があった。実際に起こったことはその中のどのあたりに位置づけられるのだろうか。それを選んだのは人間ではなかった。他の可能性が現実のものになったかもしれないが、それは私たちの手が届くところにはなかった。

 福島第一原発事故の経過の検討から何らかの教訓を引き出すことができるであろうか。なし得たかもしれないこと、防げたかもしれないことを探り出すことはできそうだ。しかし、それが実現できなかったのはなぜなのだろうか。

 人間のコントロール下にない要素、人間の働きかけの埒外の現象については、たとえそれを知ることができてもどうしようもない。その結果が私たちに影響を及ぼすことがあってもあきらめるしかない。そこで起こることはまさに運不運として受け入れざるを得ない。

 人間の選択が事象の結果に何らかの影響を与えることが分かっていれば、その範囲での状況のコントロールが可能であろう。そこでも運不運ということが言えるのだろうか。運不運というのは、他にあり得たかもしれない状況を想定している。しかし、なぜそういうものが考えられるのだろう。起こったことは必然であり、他に起こりようがなかったとも言えるのではないか。

 私たちは自分の行動(あるいは非行動)の結果を事前に正確には予測できない。関係する要素のうちどれを重視すべきか判断が難しいからだ。それでも精一杯の予想をして行動の選択をしなければならない。そして、予想外の結果が起こったとき(いわゆる「想定の範囲」ではないとき)、運不運とみなすことになる。いずれにせよ、私たちのコントロールの及ばないところで私たちの運命が決められることがあるのは認めなければならない。

 ところで、運不運というのは人間の側の見方でしかなく、物事は起こるべくして起こっただけである。必然や偶然というのも、人間の予測能力に関係しているだけであろう。

 私たちは望ましいことの実現を期待する。また、望ましくないことを回避しようとする。私たちは期待し、心配し、満足し、後悔し、驚く。なぜなら、私たちにとって未来は(まだ決まっていないという意味で)必然ではないからだ。未来は不確定であり、やりようによってはどうにかなると信じているからこそ、私たちは世界に感情的・情緒的・情動的に反応するのである。

 運不運というのは、本来神の技である。私たちは物事には原因があると信じている。でないと世界に働きかけることはしないであろう。しかし、世界への働きかけは期待した効果を生むとは限らない。結果と原因の関係があいまいになるとき、世界への私たちの信頼はぐらつく。そこで、神を介在させることで因果的世界は支えられる。運・不運というのは、私たちの世界への働きかけの埒外にある理として、私たちの感情的・情緒的・情動的反応を支えているのだ。

 世界は何としても意味を持たねばならない。運不運というのは、意味の空白を埋めようとする私たちの幻想なのかもしれない。

 私たちが世界に興味をもつのは、そこで生きるからである。私たち個々人は世界にあって特定の位置を占め、そこからの視点で世界を見る。世界は特定の視点から評価される。その視点から外れてしまえば、世界は何の意味もない。なぜなら、その世界は私たちの生きている世界ではなくなるからだ。

 自己という特定の視点から逃れられないのであれば、世界は感情的・情緒的・情動的に私たちを捕えている。世界は喜びや楽しみと同時に、苦しみや悲しみの源泉でもある。私たちは、それらを得ることも、それらから逃れることも、自由にはできない。

 特定の視点を免れて見た世界というのは意味のない世界である。それが客観的なものといえるのかどうかは分からない。客観性というものがあるかどうかも分からない。ただ、客観性というものがあるなら、それは特定の視点からは遊離したものであろう。

 科学もまたそういう立場を目指している。ただし、科学は物事に対する人間のコントロールの力を増すために、普遍性を求めるのだ。それゆえ、科学は人間がコントロール可能な範囲を明らかにしていく。人間が(今のところ)コントロールできない世界は、科学にしてもそれがそうなっているとただ見るだけである。

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