呪の人形
1
私が仮屋俊一と知り合ったのは、K岬のホテルだった。私は夏の休暇をそこで過ごしていた。仮屋は長期滞在をしているらしいのだが、彼が何者であり何をしているのか誰も知らなかった。ひとり同士という気楽さから私たちは一緒に泳いだり、飲んだりした。彼に興味をおぼえた私から近づいたのだ。
仮屋には特に変わったところはなかった。話すことは常識的だったし、人当たりも悪くはない。私の特別の興味は消えたが、友人としての付き合いが始まった。彼が金と暇に困らぬ人間であるが、私にはサラリーマンとしての限界があることは、友情の妨げにはならなかった。
私たちが知り合いになってから三日目に二人の青年がこのホテルに来た。私たちが泳ぎに行くためにホテルの入口を出たとき、彼らはワンボックスカーで乗り付けてきた。浜はホテルの前の通りの向こうに広がっていたが、私たちはその喧噪を避け、仮屋の見つけた穴場に通っていた。小さな漁港を抜け、丘を登り、崖の細い道を下りた岩場の底。小さな砂浜があり、緑色の水が岩を洗っている。片隅には元は漁船だったらしい廃船が水と日にさらされて横たわっていた。
その日は先客がいた。私たちは崖の途中でどうするか迷ったが、戻るのは面倒だったので、浜へ下りて行った。先客は四人の男女(二つのカップル)で、浜の占有権を私たちと共有することについては妥協的だった。私たちと彼らはお互いに干渉することなく、海水と日光の恩恵を楽しんだ。何ごともなければ、そこに一緒にいたということだけで終わったことだろう。
崖の道を人が下りてくるのに最初に気づいたのは私だった。私は浜に座ったまま、既に狭すぎるこの浜への新たな侵入者を見つめた。下りてきたのは、私たちがホテルの入口ですれ違った二人だった。奇妙な空気が流れ出した。既にいた四人とこの二人は知り合いらしかった。しかし、彼らの間にはよそよそしさがあり、お互いに口をきこうとしない。私はこの二つのグループにはさまれて居心地が悪く、仮屋に引き上げようとうながした。意外にも、仮屋は拒んだ。
言い争いが始まった。後から来た二人のうちのひとりの青年と、先にいた二つのカップルの中の一人の娘が激しくののしり合った。青年は娘のかぶっていたつばの広い麦わら帽子をはねとばした。娘は落ちた麦わら帽子を拾いあげ、崖の道を登って行った。彼女の連れもそれに従った。残された二人の青年はしばらく浜をうろうろしていたが、やがて引き上げて行った。
私たちだけになった。もはや彼らとは同世代ではない私は、彼らのドラマにはなんの興味もなく、彼らがいなくなってくれたことを単純に喜んだ。
「うるさい連中だ」
仮屋は私の冷淡さをからかうような笑いで答えた。
「でも、興味深かった」
「何でけんかしていたのかな」
「聞いていなかったのか。詳しくは分からないけど、こういうことらしい。彼らはみな仲間で、去年もこの海に遊びに来ていた。ところが、今年は四人が二人を出し抜いた。原因は恋愛のもつれ。取り残された二人は四人を追いかけてきた」
「そんなことを全部喋っていたのか」
「全部ではない。半分は推理と想像さ」
2
私たちがホテルに戻ると、二人の青年はロビーにいた。私はシャワーを浴びに部屋へ行ったが、仮屋はロビーに残った。シャワーを済ませて仮屋の部屋を訪ねたが、彼はまだ戻っていなかった。仮屋はロビーで二人の青年と打ち解けて話をしていた。仮屋は私を彼らに引き合わせた。話をしてみると愉快な連中だった。彼らはスキューバダイビングの面白さについて熱っぽく語った。先ほどの海辺での言い争いの当事者(小林といった)が食事前の散歩に誘った。素晴らしい夕日がみられますよ、と彼が強く勧めるので、私たちは出かけることにした。
集落の背後から山道を登る。急な登りで、たちまち海と浜が目の下に広がる。三十分ほどで尾根に取り付くと小さな社があった。何が祭ってあるかは分からないが古いものらしい。そこからの眺めは確かに素晴らしかった。遠くかすむ水平線。左手には岬が突き出し、浜が弧を描き、湾には幾筋もの波がゆっくり浜に向かって動いている。
「昔はここから魚が来るのを見張っていたそうですよ。たぶん、この木にでも登って」
小林は社の前の松の幹を叩きながら言った。その松は太く立派な木で、目立っていた。
夕日にはまだ間があるので、私たちは帰ることにした。帰り道の事で少しもめた。小林が別の道から帰ろうと言うのを、もう一人の青年(山川といった)が反対した。しかし小林は強引に尾根伝いの道を降りだし、私たちは仕方なく従った。道は左手の岬へ向かっている。
岬の突端の手前で舗装道路に出た。道路の海側に、どこかの企業の保養所らしい別荘風の建物があった。小林は敷地の中に入っていった。その自然な様子につられて仮屋と私もついていった。山川は少し躊躇した後で、気の進まぬ様子を表現するように離れてゆっくりと歩いてくる。
小林は玄関へは行かず、庭の方へ回り、テラスの階段を登った。私たちは下にとどまった。テラスは居間に続いているらしく、中から人声がして、小林の言い争いの相手の娘が出てきた。娘は小林の無断侵入をなじり、早く出て行くように言った。小林は動かなかった。娘はさらに言いつのり、警察を呼ぶという常套句をはいたが、小林は相変わらず黙ったままで、娘のことを馬鹿にしたように日に焼けた肩の皮をむきはじめた。部屋から浜辺にいた青年の一人が出てきて小林の体に手を触れようとした。小林が初めて口を開いた。
「ナイトのお出ましだね」
娘は青年を押しとどめ部屋へ戻らせた。小林の顔が険悪な表情に変わり、娘の耳もとで低く鋭く何ごとかをささやくと、身をひるがえして階段を駆け下り、私たちの傍を足早に通り過ぎる。私たちはこの日何度目かの同じ行動を取った――すなわち彼の後に従った。建物の角を曲がるとき、私は振り返ってテラスを見た。娘はまだテラスにいて、考え込むようにうつむいていた。見ようによっては、小林が肩の皮をまき散らした床をにらんでいるようでもあった。私が顔を戻すと仮屋の視線とあった。仮屋の表情も厳しかった。彼は言った。
「何ごともなければいいが」
3
保養所からホテルまでは海岸沿いの道路を歩いて三十分ほどかかった。ホテルへ帰って夕食をすまし部屋で休んでいると、仮屋が呼びにきた。小林に出かけないかと誘われたという。私はおっくうだったが、仮屋がふだんの彼に似合わず熱心に勧めるので仕方なく付き合うことにした。
彼等の車は夜の道を疾走し、町の中の一軒の店に私たちを運んだ。狭い駐車場はいっぱいだった。入ると中はディスコ風で、中央の空間で若い男女が踊っている。私たちは喧噪を楽しみ、酔った。店を出たのは午前一時を過ぎていた。
翌朝、寝不足の私たちが食事を始めたときには、既にニュースがホテルへ届いていた。何となくざわめいているのでフロントで聞いてみると、保養所に滞在していた女性が殺されたという。私たちは驚き、さらに詳しい情報を得るためにロビーでテレビを見ることにした。小林と山川は既にロビーにいた。小林は仮屋を見ると近づいてきた。
「相談したいことがあるんです。一緒に来てくれませんか」
小林は詳しいことは話さず、仮屋、私、山川の三人を後に従えて外へ出た。彼の向かったのは昨日登った高台だった。尾根にたどり着くと、小林は社の後の松の木のところへ行った。木の幹に何かがある。小林はそれを私たちに示した。
「昨夜、こんなことをしてしまって」
松の木にはわら人形が釘で打ち付けてあった。小林は人形を釘からはずして私たちに見せた。
「もしかしたら、このせいで何かが起こったのではないかと心配で‥‥」
私たちは何と返事していいものか分からず、わら人形をいじってみた。小林はポケットからライターを出し、人形に火をつけた。呪のわら人形は灰になった。
4
殺されたのは小林がからんでいた娘だった。保養所から少し離れた林の中で首をひも状のもので絞められていた。死亡推定時刻は午前二時前後。彼女の服装は寝間着ではなくシャツにスラックス。持って出たらしい懐中電灯が傍に落ちていた。そんな遅い時刻に彼女はなぜそんなところにいたのだろう。
彼女の同行者達は彼女の行動を全く知らなかった。彼女は夕方から態度がおかしくなり、食事もせずに部屋に閉じこもりきりであったという。部屋は荒らされた様子はなく、外部から侵入した形跡もなかった。
小林が疑われたのは当然であろう。冷たくなった被害者への恨みという動機がある。おまけに犯行時刻近くのアリバイがない。同室の山川の証言によると、小林は私たちと一緒にホテルに戻った後すぐ一人で外出し、一時間程して帰ってきた。
重要参考人として警察に連行された小林の供述は奇妙なものであった。彼は被害者への悪感情は認めた。犯行時刻近くに彼女への殺意を持って出かけたことも認めた。しかし、彼が向かったのは保養所ではなく、尾根の社だった。「丑の時参」をしたというのだ。つまり、わら人形を松の木に打ちつけただけだと彼は主張した。もし、と彼は言った、呪によって彼女が死んだのなら、確かに私が犯人です。
尾根の社から保養所へ行き、ホテルへ戻るのはどんなに急いでも一時間では無理だった。山道は歩くしかない。走れば時間を縮められるだろうが、それでも一時間を優に超えてしまう。ホテルと保養所の間は車を使うということも考えられる。しかし、車の鍵は山川が持っており、他に使われたような車は見当たらない。
人形の設置を殺人の時刻とは別に行うことも不可能だった。夕方の散歩で私たちは松の木に人形がなかったことは確認している。それ以後午前一時半頃まで、私たちは小林とずっと一緒だった。小林が二時半頃に帰ってきてから外出していないことを山川は証言している。小林は山川を起こし、飲みながら愚痴って寝かせてくれなかったということだ。山川が小林をかばって嘘の証言をしている様子はない。
呪の人形は小林のアリバイを証明している。燃えてしまったとはいえ、私たちは確かにそれが松の木に打ちつけられてあるのを見た。アリバイを証明する証拠を燃やしてしまったのは、気が動転して、恐ろしくなったからだと小林は説明していた。
小林のアリバイが成立してしまうと、犯人は被害者の周辺には見当たらない。保養所にいたのは被害者の新しい恋人と一組のカップルであり、犯行に結びつけられる利害も葛藤もなかった。結局、寝苦しかったか何かで外へ出た被害者を、たまたま通りかかった犯人が襲ったというのが警察の出した結論らしかった。小林はなお重要参考人として警察にとどめ置かれているが、もうすぐ解放されるようだ。
以上は、仮屋と私が証人としての資格を有効に使って、警察や報道関係者から聞き出した事件のあらましである。
5
仮屋は保養所へ行ってみようと言い出した。殺人現場を見るという趣味は私にはなかったが、こんな雰囲気の中では海につかってのんびりするのは難しいと思い、同意した。
保養所までの道筋、私たちは事件のことを話し合った。
「呪の人形なんて、大時代的なものを持ち出してきたものだね」
あきれたような私の口調に対し、仮屋は真面目な顔で答えた。
「被害者は非常に迷信深かったそうだ。いささか神経症的なところがあったらしい。だとすれば、人形の呪が無関係だとは思えない」
「おいおい、まさか彼女の死因が呪のせいだと言うんじゃないだろうな」
「直接的な死因は絞殺だとしても、呪の人形が何らかの要因となっていることは考えられる」
「呪が犯人を駆り立てたとでもいうのかい」
「魔術の現代的解釈はそれを心理的なものとみなすのだ」
「それじゃ、被害者が自分に呪がかかっていることを知って、その実現のために犯人の前に身をさらしたというのか」
「そういうことがないとも限らない。ただし、その場合、被害者は自分に呪がかけられたことを知らされる必要がある」
私は低い堤防の向こうの海を見た。平和なその風景は、こんな事件のことを話し合っている私たちの異常さとは不調和だった。私は思い出した。
「例の保養所の一件のとき。小林が被害者に何かささやいていた」
「僕は気になるんだよ。小林の行動は事件をあたかも予想していたようだ。僕らを尾根の社に連れてって松の木に何もないのを見せる。その後は、空白の一時間を除いてずっと誰かと一緒だ。そして翌朝、また僕らを社まで引っ張っていって、松の木に打ちつけてある人形を見せる。まるでアリバイ工作だ」
「共犯がいるのかもしれない」
「共犯がいるなら、そんな手数をかけないだろう。もう一つ気になるのは、なぜあの人形を燃やしてしまったかだ。小林のアリバイを証明する唯一の証拠なのに」
「殺人と結び付けられるのが恐ろしかったと小林は言っているらしいが」
「それではなぜ僕らの目の前で燃やしたのだろう。こっそり始末することもできたろうに。もっとも、そんなことをすれば彼のアリバイを証明するものはなくなってしまうのだけど」
保養所には警察も報道関係者もいなくなっていた。やじ馬らしいのが周辺に数人いた。私たちは関係者であるというあいまいな権利で保養所の敷地に入った。仮屋はテラスに上がり、中にいた被害者の連れに問いかけた。
「僕らが昨日あなた方にお会いした時、亡くなられた方は麦わら帽子をかぶっていましたね。あれはあの方の部屋にまだありますか」
彼等は調べ、そこにはなく、他でも見つからないと答えた。
私達は保養所を出た。
「麦わら帽子がどうかしたのかい」
「あれはたぶんゴミとして棄てられてしまった。残っていれば確かめられたのだが」
「おい、ホテルに帰るのではないのか」
「事件を解決させるのだ」
「どこへ行く」
「尾根の社」
6
私達は山道を、昨日とは逆に登った。仮屋はゆっくりと喋った。その声に得意げな響きを感じたとしても、私は反感を持ちはしなかっただろう。私には何がなんだかさっぱり分からなかったのである。
「僕には事件の真相は大体つかめたと思うのだけれど、君はどう。仕方ないかも知れないな、君にはハンディがあるから。実はね、僕も一時オカルトに凝って、魔術についてちょっと調べたことがある。その時知ったのは、日本は魔術に関しては貧弱な国だということだ。世界的な宗教の洗礼を受けた文化は皆そうなのかもしれない。もっとも、密教は魔術的な要素が濃いが。アフリカは魔術を非常に発達させ、日常生活に密着させている。それでいて実際は魔術の効果は大したことはない。なぜなら、ある魔術によって呪をかけても、その魔術に対抗する魔術がその呪を防いでくれるから。黒魔術と白魔術の不思議な均衡だ。一方で他方を無害化することによって何の現実的な影響力もないのに、途方もなく複雑化された体系がある。それを支えているのは心理的なものではなく、文化的なものだ。横道にそれてしまったね。ご多分に洩れず、僕にも講釈癖があってね。日本で最もポピュラーな呪である『丑の時参』にしても、対抗魔術がないというのは、それが日常生活でさほど重視されていなかったことを証明するものだ。では常識的に考えて、『丑の時参』に対抗するにはどうしたらいいと思う。そう、同じことをやり返してやればいい。山川から聞いたのだが、小林と被害者は仲よかった頃、やっぱりオカルトに凝って、呪の人形を作ったりもしたらしい。当然、対抗策にも気がついていたはずだ。だから、小林が呪の人形をあの社の松の木に打ちつけてやるとささやいたとき、被害者は先回りすることを考えた」
「では、あの人形は被害者が打ちつけたものなのか」
「そう。小林は保養所の近くで社から帰ってくる被害者を捕まえて殺した。被害者は小林が『丑の時』つまり午前二時に社に来ると思い、それよりも先に、ただし午前二時になるべく近い時間、たぶん三十分前位に『丑の時参』を済ます、と小林は読んだのだろう。読みが外れたなら犯行を中止すればいい。自転車でも使えば時間的な余裕はある。むろん、殺す前に被害者がちゃんと『丑の時参』をしたのかを聞き出しただろう」
「麦わら帽子は人形を作るのに使ったのだな」
「ついでにいえば、釘はあの浜辺にあった廃船から取ってきた」
「だから小林は人形を燃やしたのか」
「いや、燃やしたのはそれだけが理由じゃない。重要なのは、呪の人形には呪う相手の身体の一部を、例えば髪の毛とか爪とかを入れておく必要があるということだ」
「被害者は何を使ったのだろう」
「小林が被害者にそれを提供しているところを僕らは見ていたんだよ。あのテラスで」
「そうか、皮か」
「日に焼けてぼろぼろになった皮。小林が剥がすのを被害者は嫌な顔で見ていた。彼女はきっと後で掃除をしたことだろう。皮をはき集めたとき、被害者はそれを利用できることに思いついた。小林のワナだとも知らずに。そして麦わら帽子で人形を作る」
「だから小林は人形を燃やす必要があったのか。自分の皮が入っているからこそ」
私たちは社に着いた。仮屋は探偵ごっこを始めた。地面を這いずり出したのだ。
「石を探してくれ、釘を打ちつけるのに手ごろな石を。優秀な日本の警察が小林のあんな子供騙しのトリックに惑わされるはずはないが、この僕を犯罪に利用したことは許せないから、懲らしめてやろう。彼女が遠くに投げてなければいいんだが。ほら、あった。釘の頭の錆が茶色く着いている。この石にある彼女の指紋が小林を破滅させる。結局、呪は成就したわけだ」