藤村紀行 1
1991年8月、御岳に登って二の池小屋に泊まり、翌日下山して木曽福島に寄った。御岳は二日とも雨だったが、下りてくると降っていない。濁河温泉に停めていた車で野麦峠へ行き、薮原へ出て19号線を南下、木曽福島へ行った。中央線で信州へ行くときいつも通り過ぎるこの町を、一度見物したかった。どこの田舎町にでもあるような街並の旧街道を通ると、「関所跡・高瀬家」という案内板を見かけたので左に折れて坂道を登る。幾度か曲がっているうちに再び案内板を見つけ、中央線の踏切の手前、お寺の前に車を停めた。線路沿いに細い道をたどると高瀬家の塀に当たり、左に折れると福島の街が眼下に広がる。右に曲がって崖の上を行くと門がある。
門を入ると玄関に上品そうな老婦人がいて、入場料百円を受け取り、パンフレットを差し出して右手奥の土蔵を示す。土蔵には高瀬家ゆかりの品や藤村の手紙、著書が展示してある。藤村の作品は、詩は別にして、『破戒』しか読んでいなかったので、『家』に高瀬家のことが描かれてあるということを初めて知った。
蔵を出て庭に回る。すぐ後が中央線の線路になっていて、線路の向こうは山に続く斜面に畑らしきものがある。のちに『家』を読むと、最初の方にまだ中央線が走っていないときの描写があり、終わり近くには線路が通ったばかりの描写がある。
間もなくお種は弟を連れて、店先の庭の方へ降りた。正太が余暇に造ったといふ養鶏所だの、桑畠だのを見て、一廻りして裏口のところへ出ると、傾斜は幾層かの畠に成って居る。そこから小山の上の方の耕された地所までも見上げることが出来る。
二人は石段を上った。掩ひ冠さったような葡萄棚の下には、清水が溢れ流れて居る。その横にある高い土蔵の壁は日を受けて白く光って居る。百合の花の香もして来る。(上巻の一)
以前土蔵の方へ通った石段を上ると、三吉は窪く掘り下げられた崖を眼下にして立った。
削り取った斜面、生々した赤土、新設の線路、庭の中央を横断した鉄道の工事なぞが、三吉の眼にあった。以前姉に連れられて見て廻った味噌倉も、土蔵の白壁も、達雄の日記を読んだ二階の窓も、無かった。梨畠、葡萄棚、お春がよく水汲に来た大きな石の井戸、其様な物は皆な奈様か成って了った。お種は手に持った箒で、破壊された庭の跡を弟に指して見せた。向ふの傾斜の上の方に僅に木小屋が一軒残った。朝のことで、ツルハシを擔いだ工夫の群は崖の下を通る。(下巻の九)
展示室になっている土蔵はこの後に作られたものらしい。土蔵の二階から外へ出ると門の屋根で、もう一つの蔵との通路になっている。その蔵は閉められていた。高瀬家(『家』では橋本家)は藤村(同じく小泉三吉)の姉(同じくお種)の嫁ぎ先であり、養子が跡を継いだようである。入口で受け付けてくれた婦人がどういう関係の人であるか聞きそびれた。
藤村たちの故郷はよく知られているように馬籠である。馬籠は『夜明け前』で描かれている。『夜明け前』の主人公青山半蔵は藤村の父島崎正樹をモデルにしていて、藤村自身は和助という名で終わりの方に出てくる。藤村は九歳のとき故郷を離れ、以後訪れることはあっても住むことはなかった。藤村の生家は明治二十八年、藤村二十三歳のときに焼失している。観光地化した馬籠の藤村記念館よりも、木曽福島の高瀬家の忘れられたようなたたずまいの方が、藤村を思うのにふさわしい感じだ。