藤村紀行 2
木曽街道は中山道の一部で、関西から信州へ行くのには当然のことながらこのルートが取られていた。JR中央線や国道19号線もここを通っている。しかし、中央自動車道が出来てから、多くの車は木曽谷を通らなくなった。中央自動車道は中津川から恵那トンネルで伊那谷へそれてしまっているのだ。長いトンネルを抜けて開けた伊那谷に出ると、爽快な気持ちになる。遠くに南アルプスの山々を背景にして広がる天竜川の流域は、狭い日本では谷というより平野の感覚だ。木曽とはまるで風土が違っているように見える。
中山道は下諏訪から軽井沢へ向かうが、このルートは大きな道路がない。19号線は塩尻から長野へ迂回し、長野から18号線が軽井沢へ向かう。20号線は塩尻から甲府へと南下する。2003年8月、美ヶ原から諏訪へ出ようとして和田峠を下っていくとき、中山道の位置を示す標識を見て意外に思った。中山道がこんなところを通っていたとはそのときまで知らなかった。和田峠の道は傾斜が急だった。こんな厳しい登りは徒歩では大変だったろう。ちょうど『夜明け前』を読み返していたときなので、青山半蔵もこの道をたどったのだと思った。ただし、『夜明け前』には木曽街道から先の中山道についてほとんど述べられていない。
半蔵は三度馬籠と江戸(三度目は東京)を往復している。一度目は、妻の兄である青山寿平次とともに、遠い先祖を共通する親類を訪ねて横須賀へ行った。馬籠を出て隣宿妻籠の寿平次の家へ泊まり、翌日は福島の関所を抜けて奈良井に泊まる。そこからの描写は次のように素っ気ない。
追分の宿まで行くと、江戸の消息はすでにそこでいくらか分かった。同行三人のものは、塩尻、下諏訪から和田峠を越え、千曲川を渡って、木曽街道と善光寺道との交叉点にあたるその高原地の上へ出た。
二度目は江戸の道中奉行から呼び出され、贄川、福島の庄屋とともに、木曽十一宿の総代として江戸へ行った。このときの旅程では和田峠は叙述されていない。三度目は、山林事件のため戸長を免職され、娘お粂の縁談が破談になり、「どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかり得たいばかりに」上京する。松本で「この時勢に応ずる教育者のための講習会」に出た後の叙述はやはり簡単なものである。
‥‥やがて彼は塩尻、下諏訪から追分、軽井沢へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠を下った。
和田峠については、水戸天狗党との関連での叙述がある。(藤村は水戸浪士と記し、天狗党の言葉は使っていない。天狗党は蔑称であり、彼等が自称したのではないからであろう。)水戸浪士たちは高崎から中山道には進まず今の254号線をたどって内山峠を越えて望月に出、そこから中山道に入って和田峠へ向かった。和田峠の南の樋橋に諏訪藩、松本藩が陣を構えていて、戦闘が起こった。戦闘は水戸浪士側の勝利となり、諏訪松本両勢は高島城へ退却した。
この砥沢口の戦闘には、浪士側では十七人ほど討死した。‥‥その時、武田耕雲斎は一手の大将に命じ、味方の死骸を改めさせ、その首を打ち落とし、思い思いのところに土深く納めさせた。‥‥浪士等は味方の死骸を取片付け、名のある人々は草小屋の中に引き入れて、火をかけた。その他は死骸のあるところで聊かの火をかけ、土中に埋めた。
水戸浪士の墓の標示もちらと見えたが、私達の車は停まることなく和田峠を下って行った。