『暗夜行路』未紀行
私はいま宝塚に住んでいる。宝塚は『暗夜行路』の中で名前だけしか出てこないが、重要な役割を果たしている。走り出した汽車に追い縋ろうとする直子を謙作がプラットホームへ突き離したとき、彼等が行こうとしていたのが宝塚なのである。そのことがきっかけになって謙作は大山に向かうことになる。
謙作は結局宝塚へは行きそびれたようだが、志賀直哉はどうだったのだろうか。『廿代一面』の中に次のような文章がある。
二人はその翌朝、京都が未だ余りに早かったので、大阪まで乗り越し、箕面、宝塚へ行き、翌々日京都へ行き、其夜晩くなって奈良に行き、次の日又京都に帰り、其処に三日程居て東京へ帰って来た。
『日記』と照合すると、『廿代一面』は明治45年4月6日頃から5月22日頃までの出来事を扱っているのが分るが、その間に「八ヶ月前」の旅行の記述がはさまっていて、引用の文章はその中の一部である。『日記』の明治44年は6月までしかなく、したがって宝塚についての志賀直哉の言及はこれだけである。
その頃大阪から宝塚へは阪鶴鉄道(後に国有化され、一部が現・福知山線となる)が通っていたが、明治43年3月10日、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)の梅田・宝塚間および箕面支線が開通した。箕面を回ったところを見ると、志賀直哉はこちらを利用したのだろう。明治44年5月1日には宝塚新温泉が営業を開始しており、彼は出来たばかりの観光地へ遊びに行ったわけである。
平安朝の昔から、この地には「小林の湯」と呼ばれた温泉があり、その後も湯治場として細々と続いていたが、一部の字の名であった「宝塚」がはじめて温泉名となったのは明治十八年頃のことである。明治二十五年にはその湧出する鉱泉をひいて浴場を開いたために、湯治客もやや増加し、その後阪鶴鉄道の開通により漸時発展に向かったが、電車(箕面有馬電気軌道)開通の当時は、東岸即ち現在の新温泉側は数軒の農家が点在するのみで、寂しい松畷のつづく河原であった。(『京阪神急行電鉄五十年史』)
明治45年7月1日には宝塚温泉パラダイスが完成したが、新趣向の施設である室内プールは時期尚早(風紀上)のようで失敗し、ふたをしたプールを舞台として始まったのが宝塚歌劇である(大正3年4月1日初演)。志賀直哉が衣笠村の新婚時代(大正3〜4年)に宝塚へ行ったとしたら、始まったばかりの少女歌劇を見たであろう。『暗夜行路』の場面はこの頃の経験を基にして書かれたのかもしれない。もし、その場面と似たようなことがあったのであれば、志賀直哉は宝塚歌劇を見損ねたことになる。(『日記』は大正3年から10年まで抜けている。)
あるいは、宝塚の名前が出たことはほんの思いつきだった可能性もある。『暗夜行路』の「第四」は大正15年(昭和元年)から発表されているが、志賀直哉の二度目の京都在住(大正12年3月から大正14年4月に奈良へ移転するまで)のときの『日記』(大正12年6月3日)に「午前一寸公会堂へ行き子供と女中等の為めに宝塚少女歌劇の切符を買って来る」という記述がある。この書き方では本人は同行しなかったようである。
いずれにせよ、宝塚は行かなかった場所として『暗夜行路』に書かれることになった。