井本喬作品集

不倫の民主化

 安岡章太郎は『志賀直哉私論』(1968年)の中で、『暗夜行路』の「不倫」の描き方に疑問を呈している。

 正直にいって《俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ》といふ言葉は、直子の過失について言はれたものとしては、真実味がうすらぐのである。勿論、謙作が直子を大して《認めてゐない事》はたしかだらう。しかし、だからといって直子の過失をきいて謙作が最初から、それを自分がいかに許すかといふ点だけしか考へてゐないことが納得し兼ねるのである。もし、あの寛大さが最初から謙作にあるのなら、彼が自分の“不愉快”にあれほどこだはって直子を追求したことは不可解であり、追い詰められて背中を波打たせて泣く直子に《恐しい事》を意識することもない気がする。直子を認めてゐるにしろ、謙作は《イゴイスティック》な、《同時に功利的な考へ方》の男として、妻を奪われたことはそれ自体、もっと激烈な怒りと、痛切な哀しさに、おそはれないでゐられるはずがない。

 安岡はその原因として「最も簡単に志賀氏の結婚生活の経験からは、謙作と直子のやうな不幸な事態は想像出来なくなったためだと言って、間違いないだらう。端的にいへば、妻の過失といふ不祥事を、作家として体験できなかった」という点に求めている。もちろん「自分の経験だけを書く私小説家の立場に立って、独断を言ひすぎるかもしれない。しかし、観念を人物化することは、その観念が自分の肉体から得たものでないかぎり不可能なはずだ。まして、われわれの場合、他人の体験を自分のものにすることは出来ない」。安岡はついでながら服部達のエピソードに触れている。彼が失踪(1956年)する前に訪ねたが不在だった友人の細君に、「おくさん、日本の文学がなぜツマらないかわかりますか。それは日本ではおくさんが浮気しないからですよ」と言ったというのである。

 浮気というか不倫というか、夫のいる女性が他の男性と性交渉を持つという現象が、他の国に比べて日本において多いのか少ないのか、あるいは、時代的な傾向はどうなのか、そういう疑問に応える統計はなさそうである。唯一言えそうなのは、ある時期において、中産階級に貞操のモラルを保持させうる状況があったかもしれない。都市生活での専業主婦であるという立場は、経済的・社会的に夫への依存度を高め、また居住形態・生活様式などと相まって他の男性との接触の機会が制限され、女性に不倫をしにくくさせたと考えられる。中産階級の増加と離婚率の低下の相関が見出されれば傍証になるであろう(不倫と離婚がストレートに結びつくのではないとしても)。

 不倫に階級的性格があるとすれば、時任謙作の場合はどうであろうか。謙作に自らを反映させている志賀直哉は当時の富裕階級に属していた。しかし、彼らはむしろ中産階級のハシリとみなした方が適当ではないだろうか。富の個人的格差は現代より大きかっただろうが、その絶対的な大きさの点では上層でもさほどとは思えぬのである。富裕階級や下層階級に比して中産階級が貞操モラルへの固執が強いとすれば、謙作にもその傾向がみられるのではないだろうか(ただし、それは「商売女」とか「下女」には適用されない)。

 事例の少なさは、状況への対処を不馴れにさせ、困惑させる。謙作の場合、自分たちには起こりえないという階級的信念があった。それゆえ、例外的事例とみなされうる妻の不倫は、夫に大きな衝撃をもたらすだろう。このような災いがなぜ自分に降り掛かってきたのかということに悩み、運命ということまで考えてしまうことになるかもしれない。起こる確率がもっと高ければ、対処は現実的にすまされるはずだ。

 体験と創作の関係でいえば、夫が妻の不倫に遭遇する確率が高くて(男の)作家がそういう経験を持ちやすい場合は、夫としての感情に対する作家としての興味は強いものにはならないだろう。逆に、妻の不倫の発生の確率が低ければ、そのような感情的経験は貴重であるが、遭遇するのは困難であろう。これは体験がなければ描けない作家にとってのジレンマなのだろうか。いずれにしても妻を「寝取られる」夫というのは、他人から見れば滑稽なものであり、興味はむしろ妻の方に向けられがちだが。

 客観的状況はそうであったとしても、作家および男としての主観的状況はどうであろうか。中産階級的に夫の側の感情を考えてみよう。まず、契約違反という妻の不正に怒りと悲しみを感じるだろう。扶養をする代わりに貞操を守るというのは、はっきり明示されていないけれども結婚の契約の一つである(だから、夫が経済的に非力だったり、妻が独自に収入なり財産なりがある場合には、この怒りはあまり力を持たない)。この点については、謙作と直子のケースではあいまいである。直子は要(直子の従兄)と積極的に関係したわけではない。つまり、直子は、謙作と要を比較して(謙作にないものを要に見出して)、要を選んだというのではない。「不倫」と言えるかどうかも疑問なくらいである。しかし、直子は徹底的に抗ったわけでもない。この点が微妙なのである。直子が暴力によって犯されたのであれば、彼女は同情されこそすれ、非難される筋合いはないが(それでも、スキがあったからだとののしる人もいるだろうけれど)、男の側が強制しようとしても暴力を振るうのまではためらう場合、女の側が非力であっても「協力」を拒み続ければ男は諦めざるを得ないのではないか。謙作は怒ることも慰めることにも徹底しきれない、中途半端な立場に立たされているのだ。妻に怒りを向けることはできないけれど、かといって彼女が全く潔白とは信じきれないのである。

 角度を変えよう。恒産は所有の観念を発達させる。配偶者を所有物とみなせば、不倫は権利の侵害、挑戦と感じられる。それゆえ、相手の男に対して憎しみと怒りを抱くだろう。それは、単に恋の競争相手に対して感じるものとは異なっている。恋の敗北の責は自己に課すことも可能であり、競争相手を不当とみなす絶対的理由は見当たらない。しかし、婚姻関係を侵害する者は泥棒と同じとみなされうるのだ。これは、直子の気持ちがどうであったかとは関係なく、主張できることである。ところが、謙作は権利の侵害者である要に、物理的にも心理的にも対決していない。要について述べられているのは、大山の宿で「此時謙作は不図、留守を知って又要が衣笠村を訪ねて居はしまいかといふ不安を感じ、胸を轟かした。‥‥唯、要の方だけは其時は後悔しても、若い独身者のことで自分の留守を知れば心にもなく、又訪ねたい誘惑にかられないとは云えない気がするのであった」という一か所だけなのである。なぜ要を責めないのかという点については、要が謙作の留守に家に泊まって花札をやったことを不愉快に思ったこと(ただし、そのときはまだ直子の「過失」を知らなかったのだが)に関して述べられていることが手がかりになるだけだ。「謙作はあの上品なN老人を想ひ、その愛してゐる一人児に対し、一寸した不謹慎、それも学生として、別に悪気もない事に、自分の我儘な感情から、こんなに思ふのは済まないといふ気もした。N老人の自分に対する最初からの好意に対しても済まぬ事だと思った」。これから察するに、謙作が要の行為を不問にしたのは、直子の親代わり(?)のN老人(直子の伯父)への遠慮だったようである(そういうことは一切書かれていないけれども。直子の名誉のため、あるいは直子の願いによって事を公にしないことにしたとも考えられるが、謙作は直子の告白の翌日に友人の末松に喋ってしまっている)。また、直子と要の関係は単に肉体上のものだけではなく、いとこ同士という関係の親しさが下敷きになっている(直子は無縁の男に強姦されたのではない)。配偶者であるという占有権が、血縁とか親交とかの結びつきによる共有関係によって弱められ、謙作は要を権利侵害者として強く憎めない。

 つまり、直子にも要にも直接怒りをぶつける事のできない謙作は、一人で悩むより仕方がないように作者によって巧妙に仕組まれているのである。そもそも、志賀直哉が「妻を奪われたこと」を書こうとしていたかは疑問である。謙作の受難としてのみ「不倫」が用いられているにすぎないように思える。そこから、冒頭の安岡の引用文が取り上げている謙作の言葉が導き出されるのだ。

 然し俺から云ふと総ては純粋に俺一人の問題なんだ。今、お前がいったやうに寛大な俺の考と、寛大でない俺の感情とが、ピッタリ一つになって呉れさへすれば、何も彼も問題はないんだ。イゴイスティックな考へ方だよ。同時に功利的な考へ方かも知れない。さふいふ性質だから仕方がない。お前といふものを認めてゐない事になるが、認めたって認めなくたって、俺自身結局其所へ落ちつくより仕方がないんだ。

 だから、安岡の批判は、ないものねだりというより、マトを外してしまっているのだ。直子と要の間には精神的なドラマは設定されてはいない。若い要の欲望が二人の親しさを潤滑材として動いてしまっただけのことなのだ。そこには憎む対象としての人格(意図性)は見出せない。責任を取れる人間はおらず、誰にも責任を問うことはできない。全ては謙作がそのことを受け入れられるかどうかにかかっている。

 ただし、このような謙作の状況が成り立つには条件が必要である。志賀直哉がその条件に限界づけられている(言いかえれば守られている)ことが、安岡の不満につながるのだろう。つまり、謙作の苦悩は妻の受動性の上に成立している。妻が真に裏切ることを全く除外している。彼の態度は家父長的といっていいものかもしれない。しかし、謙作は自己の家父長性に安住しきれるほど鈍感ではない。謙作は「あの女は決して盗みをしない、これは素直に信じられても、あの女は決して不義を働かない、この方は信じても信じても何か滓のやうなものが残った」と悩むのだが、その理由を「女と云ふものが弱く、さう云ふことでは受け身である」ことに求めようとする。また「母の場合でも直子の場合でも不貞というより寧ろ過失と云ひたいやうなものが如何に人々に祟ったか」と思う。つまり、女性は欲望の対象として全ての男性に開かれていて、そのことを女性自身も否定することができない、という思いが謙作を不安にしている。妻が夫を裏切ることはないということ、夫以外の男に興味を示すことはないということは、裏返せば男としての夫を積極的に選んでいるわけでもないということなのだ。女性が主体的に男性を選ばない(選べない)のなら、男女の結びつきは男性の選択にゆだねられた偶然的なものにすぎない。謙作は直子が汚されたことに悩んでいると思い込もうとしているのだが、その偶然性が必然化されないことには安定できないでいるのだ。その意味で、謙作と直子の苦悩は同一のものである。物語の最後で謙作と直子が一体化するのは当然なのだ。

 離婚率は明治中期以来減少を続けていて、戦後の一時的上昇はあったが、1963年に0.73(人口千人当り)で底を打つまで下がり、その後上昇に転じた。1980年代に婚姻数の減少があったので減少したものの、増加傾向は続き、1995年には1.60になっている。標準化有配偶者離婚率(有配偶者人口に対する離婚率を年齢構成によらないように基準人口により修正したもの)をみればより明確で、1965年に底(男子2.54女子2.55)を打ったあと一貫して上昇し、1995年には男子11.56女子11.75になっている。

 中産階級化は夫婦という共同体を強化してきた。しかし、戦後20年たって、別の傾向の影響が上回るようになり、夫婦という共同体は崩壊(結婚という契約の解消)の増加へと様態を逆転させた。1965年という転換点に小島信夫の『抱擁家族』が発表されている。この小説が事実に基づいたものとか、現実のある傾向を主張したものというつもりはない。象徴的という言葉が、現実との何らかの関係、因果や予兆や反映などを含みながらそれらに還元され得ない関係を現しているのなら、象徴的な作品であろう。

  三輪俊介は妻の時子が彼以外の男と性交渉を持ったのを知ってから、彼に従属しない人格としての妻を「女」という形で認識する。

  俊介はこのとき自分の中に変化がおこっていることに気がついた。

  彼の視線は時子の首筋のあたりと、それから組んだ脚に注がれていた。彼は静かな口調でそういったが、落着いているわけではなかった。好奇心をそそる首筋も脚も、その若者の入念な愛撫をうけたのだ、ほんとに計画的だったのかもしれない、と俊介は思った。しかし、それを憤るよりも、そこのひとりの女がいるということのまぶしさに圧倒されていた。

  俊介は時子の血管の中の血の流れから、それが皮膚にもたせるつやから、しぼんだり開いたりするマツ毛の動きから、首筋や肩へ流れる骨組から、ゼイ肉を適度につけて二つか三つヒダを作っている下腹部から心持ち大きさの違う二つの乳房から、しっかりした足をもった比較的長い脚などを造物主のような気持ちで眺め、自分の手を離れて独り立ちした人間の重さにおどろいた。

 これこそ、「民主化」のもたらしたものである。それを皮相というのは、事実を規範から批判することしかできない者の言いぐさだ。「民主化」はこのようなレベルで実現したのであり、確実に社会を変化させたのだ。私たちはずっと後になってようやくそれに気づくのである。

 女性が自由になること、それは母性の放棄ではない。「母の崩壊」ではない。中産階級的核家族の「厳父と慈母」という機能主義的な構図から女性が抜け出すことにすぎない。家族の統合という桎梏から、まず女性が抜け出し、子供が続く。残された男は自分自身の自由に気づかされる。そのはしりが、夫が妻と他の男との性交を容認する気持ちになることである。

  どうしてもっと、時子とジョージを放っておいてもっと続けさせてやらなかったのだろう。どうせ一度やりかけたものなら、続けたっておんなじことではないか。もっと続けていたらどうであったろう。そのとき彼女は自分でも口走ったように遠く遠く自分から離れて行ってしまったであろう。そのときは、その一回一回は、どんなであっただろうか。そのときこれまた彼女が口走ったようにもっと、完璧な楽しみを得たにちがいない。ああ、あんなに不機嫌な舌足らずな自分との交渉ではなしに、十分に味わわせてやればよかった。

 むろん、それは一時の気の迷いであって、持続しうるものではないかもしれない。あるいは、男たちが未練を断ち切って、離婚しようとしたら、女たちは困るかもしれない。離婚率の水準に関しては、妻の経済的な自立度が大きな要因となる(経済的な依存が不倫に与える影響は不明だが)。しかし、時代は変わっていく。

 個人の自由は社会生活においては他者に何らかの影響を与えずには行使できない。それはどこまで許容されるのか。妻が夫以外の男とセックスすることも自由の範疇にあるならば、夫は自由を、自分一人だけではなく妻をも含めた全ての人の自由を望むであろうか。文学の興味はそこへ移っていくであろう。

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