井本喬作品集

『菰野』と湯の山

 志賀直哉の『菰野』は読んだはずなのだが、その地名は鵠沼とか真鶴とかと同じように関東地方のものだと思い込んでいた。むろん彼は京都、奈良、尾道、城崎、松江、大山など、西日本に居住ないし滞在し、その地を作品に取り上げているが、菰野という名は聞き慣れなかった。ところが、再読してみると湯の山温泉のことだった。湯の山温泉は三重県三重郡菰野町にある。三重県というのは紀伊半島の東部のかなりを占めていながら中部地方に属するので、近畿に住む者にとっては身近にあってもよそよそしい存在なのである。

 かつては湯の山温泉を菰野温泉と呼んでいたらしい。作品の中では、「四日市で降り、湯の山行きの小さい電車に乗り換えた」「終点の湯の山駅から渓流について山路を自動車で行った」とある。どこへ泊まったのかは書かれていないが、旅館寿亭の松仙閣と分かっており、作品に登場する女将は葛城寿子という人だそうだ。寿亭はロープウェイ乗り場の方とは分かれて大石公園に行く道の途中にある。松仙閣は従業員宿舎として残っているとのことである。

 志賀直哉は奈良から鳥羽行きの汽車に乗り、関西本線で亀山まで行き、鳥羽行きはそこから紀勢本線に入るので、乗り換えて同じく関西本線で四日市まで行き、三重鉄道(現・近鉄湯の山線)に乗って、湯の山温泉に着いた。私は湯の山温泉に数回行ったことがある。もっとも、私は温泉が目的ではない。山を登りに行く。鈴鹿山脈は北の霊仙山から南の油日岳まで南北に長いのだが、この辺りには御在所岳、鎌ヶ岳、釈迦ヶ岳などの山がある。御在所岳には湯の山温泉からロープウェイが架けられているので若干登高意欲をそがれるけれども、なかなか面白い山である。

 ところで、ウイキペディアの「湯の山温泉(三重県)」の項には「また、文豪志賀直哉も短編:湯ノ山を発表している」とあるが、この作品のことを言っているのだろうか。ウイキペディアの「志賀直哉」の項には「戦時中は短文『シンガポール陥落』等を発表して当時の軍国主義的風潮に流される傾向にあったにもかかわらず、戦後は掌を返したように変節」とある。このことについてはよく知らないが、篠沢秀夫『志賀直哉ルネッサンス』には「『天に見はなされた不遜なる米英がよき見せしめである。』という断言を含む随筆『シンガポール陥落』という、いわば祝勝の辞であるテクストを、敗戦後度重なる非難攻撃を受けても撤回しなかったのは、大正末期から昭和初期には『右傾跋扈』に反発していたのとすこしも矛盾しない」とあり、ウイキペディアの「掌を返したように変節」という記述には疑問がある。ウイキペディアの記事を安易に引用するのは避けた方がよさそうだ。

 さて、『菰野』が『湯の山』と題されていたら、地元でもっと喧伝されていただろうから、そうでなくて幸いだった。「文豪志賀直哉ゆかりの湯」などという標記は見たくない。

 かといって、そういう興味を持つことに冷ややかであるのではない。城崎、松江、尾道、大山などに行けば、志賀直哉に関係するものが見られるのではないかと期待する。尾道や奈良の旧居を訪ねてもいる。奈良の旧居のサンルームを見たときは、やっぱり志賀直哉は裕福だったのだと思い知った。そういうことは作品の理解の助けになることもあるだろうし、あるいは作品を読むにおいては余計なことなのかもしれない。それをどう扱うかは個人の勝手だろう。

 ファンとしての知りたい気持ちは尊重してもいいと思うが、作品を読んだこともない人に「名作の地」などと誇示することには抵抗がある。たとえば、松山は『坊っちゃん』で売っているが、『坊っちゃん』では漱石は松山をいいようには書いていない。私が松山の人間なら『坊っちゃん』を読んで腹が立つだろう。それでも作品に取り上げられたことを地域振興に使いたいというなら、「『坊っちゃん』にけなされた街」とするぐらいの見識は持つべきだ。

 『城崎にて』にしても『菰野』にしても、観光地としての温泉の宣伝にふさわしい作品とは思えない。作品を読んだことは観光にマイナスにはならないだろう。だが、作品に取り上げられたことがプラスになると決めてかかるのには違和感がある。これは他の作品、他の作家の作品にも言える。知りたい人にだけ知らせてあげればそれでいいのではないか。

 さて、菰野。今度湯の山温泉に行ったなら、寿亭を探してみることになりそうだ。

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