井本喬作品集

『三四郎』の道徳

 『三四郎』(1908年)の中に気になる箇所がある。三四郎、廣田先生、野々宮さん、美禰子、よし子(野々宮の妹)の五人で菊人形を見に行ったときの、次のような描写である。

  行くに従って人が多くなる。しばらくすると一人の迷子に出逢った。七つ許りの女の子である。泣きながら、人の袖の下を右へ行ったり、左へ行ったりうろうろしてゐる。御婆さん、御婆さんと無暗に云ふ。是には往来の人もみんな心を動かしている様に見える。可哀想だといふものもある。然し誰も手を付けない。子供は凡ての人の注意と同情を惹きつゝ、しきりに泣き號んで御婆さんを探している。不思議の現象である。
「これも場所が悪い所為ぢゃないか」と野々宮君が子供の影を見送りながら云った。
「今に巡査が始末をつけるに極まってゐるから、みんな責任を逃れるんだね」と廣田先生が説明した。
「私の傍迄来れば交番迄送ってやるわ」とよし子が云ふ。
「ぢゃ、追掛けて行って、連れて行くが好い」と兄が注意した。
「追掛けるのは厭」
「何故」
「何故って――こんなに大勢人がゐるんですもの。私に限った事はないわ」
「矢張り責任を逃れるんだ」と廣田がいふ。
「矢張り場所が悪いんだ」と野々宮がいふ。

 場所云々については、その直前の場面で、「乞食」にカネを恵まなかったことについての、「あまり人通りが多過ぎるから不可ない。山の上の淋しいところであゝいふ男に逢ったら、誰でも遣る気になるんだよ」という廣田先生の評に由来する。この「乞食」に関するやりとりを聞いて、三四郎はつぎのような感想を持つ。

  三四郎は四人の乞食に対する批評を聞いて、自分が今日迄養成した徳義上の観念を幾分か傷つけられる様な気がした。けれども自分が乞食の前を通るとき、一銭も投げてやる料簡が起こらなかったのみならず、実を云へば、寧ろ不愉快な感じが募った事実を反省して見ると、自分よりも是等四人の方が却って己れに誠であると思ひ付いた。又彼等は己れに誠であり得る程な広い天地の下に呼吸する都会人種であるといふ事を悟った。

 三四郎が見抜いたように、これは「都会人種」の現象である。廣田先生の「場所」は無名性と言い換えることができよう。個人が、見知らぬ他者に対して、あるいは社会一般に対して貢献を求められるとき、彼の貢献が多数の貢献の中の極小部分でしかなく、それ(彼の部分)があろうとなかろうと社会に大きな影響を与えないと思ってしまうならば、その要請に応えないという傾向がある。たとえその個人が、みなの貢献によって成り立つ社会の機構によって利便を得ていようとも、である。

 そういう個人に対しては、こう言われるであろう。「みんなが君と同じようなことをしたら、どうなるのだ」。私としては、ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ22』(1961年、飛田茂雄訳、早川書房、1969年)の中でのヨッサリアンの答えが気に入っている。爆撃機の搭乗員であったヨッサリアンは、出撃拒否をめぐって次のような会話をする。

 「ドイツ軍は二、三ヵ月のうちに負けるだろう。そのまた二、三ヵ月後には日本も負けるだろう。もしおれがいま自分の生命を投げうったとしても、それはおれの祖国のためということにはならない。キャスカートやコーンのためにということになるだろう。だから、おれは戦争継続中、おれの爆撃照準器を返上する。これから先、おれはただ自分のことだけを考えるんだ」
 ダンビー少佐は超然としてほお笑み、ゆったりと返答した。
「しかし、ヨッサリアン、かりにみんながそういう考えを持ったとしたらどうなる?」
「だとしたら、おれもみんなと同じ考えを持たぬかぎり、とんでもない阿呆だということになる。そうだろ?」

 ヨッサリアンの合理的(という言葉に抵抗があるなら利己的)な判断に対して反駁するのは難しい。彼一人が戦いをやめたところで連合軍の優位は揺るがないし、みんなが戦いをやめてしまうなら彼一人が戦っても意味はない。ヨッサリアンの決意を変えるには、戦闘からの離脱が戦闘への参加よりもコストがかかるようにしなければならないだろう。そういうコストの一つが他人からの非難や処罰であり、共同体からの排斥である。国家は公式にそういう制裁を加える。村落共同体は公式以外にもインフォーマルな制裁の手段を持っている。だが、都市生活の無名性の中ではインフォーマルな制裁は効力が薄い。

 ただし、ここで問題になっているのは単に受益と負担の比較なのではない。負担をせずとも受益を妨げられないというただ乗りの機会の存在である。そういう機会があればコストがいかに小さくとも、合理的(あるいは利己的)な人は負担をしないであろう。しかし、本当に興味深いのは、人間はそれほど合理的(ないし利己的)ではないということである。ただ乗りの機会があるということは、ただ乗りの機会があるにもかかわらずそれを利用しようとしない多くの人がいることが前提になる。そうでなければ、そういう機会など存在しないはずである。

  一人の投票が国家レベルの選挙結果にまったく影響を与えないことははっきりしている。自己利益を追求すれば、人々は家にとどまって「ただ乗り」をするだろう。「でも、あなたが当選させたいと思っている候補者を支持する人たちがみな、あなたと同じように投票に行かなかったら困るでしょ?」というよくある批判は、基本的な誘因の問題を考えていない。私が推す候補者の支持者全員が家にいるとすれば、結局私の投票など結果に何の影響も与えないだろう。私が投票所へ行くか行かないかは、別の人の投票行動に何の影響も与えない。しかしそれでも人々はわざわざ投票所に出向くのである。(R.H.フランク『オデッセウスの鎖』、1988年、山岸俊男監訳、サイエンス社、1995年)

 人が公共のために行動するには、受益と負担の考慮の他に、道徳心が働くという平凡な事実にたどり着く。

 ところで、道徳の内容は変化する。『三四郎』の中で驚かされるのは、登場人物がやたらとゴミを棄てるということである。

  此時三四郎は空になった弁当の折を力一杯に窓から放り出した。

(髭の男は)‥‥散々食い散らした水密桃の核子やら皮やらを、一纏めに新聞に包んで、窓の外へ抛げ出した。

 三四郎は返事を書かうと思って、教師の方を見ると、教師がちゃんと此方を見ている。白紙を丸めて足の下へ抛げた。

 野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に棄てた。

 最初と二番目は汽車の窓から、三番目は教室で、最後は展覧会場である。所かまわずである。ゴミを棄てるということは道徳上の問題にはなっていないようだ。ゴミ問題は、大量消費にともなう大量投棄、産業廃棄物、危険なゴミ、そしてプラスチックや金属やコンクリートなどの腐らないゴミの増加など、都市化および近代化に伴う現象だろう。だから、少量の、腐敗して土に帰すようなゴミが主流であった当時は、ゴミのポイ捨ては重要な問題ではなく、したがって徳義上も意識されることがなかったのだろう。しかし、今の時代に生きる私は、最も非難されるべき行動は(犯罪は別にして)、ゴミの投棄であると思っているので、こういう箇所が気になって仕方がない。

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