従軍記
火野葦平『麦と兵隊』(1938年)を読むと、ハンス・カロッサ『ルーマニア日記』(1924年)のことに思い至る。似ているような気がするのである。だが、描かれているのは、一方は太平洋戦争のきっかけともいえる日中戦争であり、他方は第一次大戦である。この二つの戦争の様相が似ているのはどういうことだろうか。
『麦と兵隊』は副題に「徐州会戦従軍記」とあるように、1938年4月に開始された徐州作戦の従軍記録である。火野は前年応召し、杭州湾に敵前上陸、南京攻略戦に参加したが、1938年3月に『糞尿譚』で芥川賞を受けたため、中支派遣軍報道部に転属となって、徐州作戦に従軍した。『麦と兵隊』には5月4日から22日までのことが描かれている。
『ルーマニア日記』は1916年10月4日から12月15日までの記録である。第一次世界大戦は1914年に始まったが、1916年8月27日ルーマニアが連合国側として参戦し、軍医として西部戦線にいたカロッサは、所属部隊とともに当時オーストリア=ハンガリー帝国に属していたトランシルヴァニア(ドイツ人はジーベンビュルゲンと呼ぶ)に移動させられた。同盟国側としてドイツ、オーストリア=ハンガリー、ブルガリアが、連合国側のルーマニア、ロシアと戦った。ちなみに、ショーロホフ『静かなドン』の主人公グリゴリー・メレホフは、ルーマニア戦線において1916年11月7日の戦闘で左手を負傷したことになっている。ルーマニア軍は弱体で、トランシルヴァニアに侵攻したものの反撃にあって、12月7日にはブカレストが占領されてしまう。カロッサのいた戦場は国境地帯のようなので、『ルーマニア日記』(”Rumänisches Tagenbuch“)という題はやや焦点がずれているように思える。そのせいかどうか分からないが、1934年に『陣中日記』(”Tagebuch im Kriege”)に改題されている。
第一次と第二次の世界大戦の違いは兵器に特徴的に現れている。第一次大戦では補助的な役割であった飛行機、戦車、潜水艦などの新奇な兵器が、第二次大戦では主役となった。これらの兵器は『ルーマニア日記』には出てきていない。『麦と兵隊』には飛行機や戦車が登場している。だが、歩兵の補助的な役割としてである。もっとも、日本軍の戦車はあまり威力がなかったことは、『麦と兵隊』の孫扞という集落の戦闘の場面にも書かれてある。中国軍側のその種の兵器はより弱体であったろう。そういうことが二つの戦争の様相を似せているのだろうか。あるいは、兵器がいくら変わろうとも、歩兵というものの本質は変わらないのかもしれない。
直接の戦闘員ではないという二人の立場も似ている。カロッサは軍医であり、火野は報道員であった。戦闘に関しては傍観者的な立場でいることができた。状況の類似はまだある。敵が弱体で、彼らの参加した戦争は有利に進められていた。どちらの国も敗北することになるのだが、記録が書かれた段階ではまだそのことは視野にはない(西部戦線を経験したカロッサには勝利の確信が失われていたかもしれないが)。
戦争が軍隊同士の争いであり、住民にとっては災難でしかないという戦場の雰囲気も共通である。トランシルヴァニアはその帰属が争われ続けた土地で、ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人が混在している(この時点でハンガリー王国領であったが、戦後にルーマニアが併合することになる)。
もうベレックの小さな塔が見えだしたころ、伝令が馬を飛ばしてやってきて少佐に紙片を渡した。数分後、もとの宿舎に引き返せという命令が続いてでた。(中略)十時、エステルネクに帰りついたが、昨日はあんなに親切だった村の人たちは狼狽したようなひかえ目な態度でわれわれをじろじろとながめた。われわれが帰ってきたのがうさん臭く思われたのだ。ドイツ軍の退却開始を邪推し、心の中ではわれわれがもうマロシュ河の向こう側へ追い払われたように考えていたのだ。(『ルーマニア日記』高橋義孝訳)
中国においては、少なくともこの時期には、国民党軍が真の国民軍であったのではないようだ。中国兵は自国の住民に対して略奪を行っていたようで、その点では日本兵と変わらなかった。
廟に村長というのが居った。飾りのついた長煙管で悠々と煙草を燻らし、どこかこくのある落ちついた親爺である。通訳が色々と話をして居る。村長は少し反り身になって返答をし、屈託のない哄笑をする。この辺には蒋介石は来たことはない、李宗仁や外の偉い奴は軍隊と一緒に来たことがある。茶なんぞ出してサービスがよいではないかと言えば、いや、我々は日本人にばかりサービスをする訳ではない、支那軍が来れば支那軍にもサービスするのだ、と言う。それでは両方来たらどうすると訊けば、逃げ出しますよ、と言って笑った。なるほど仲仲正直で食えない親爺だと思った。(中略)彼等は茶を出して歓待をする。しかしそれは支那軍が好きだからでも無ければ、もとより日本軍が好きだからでもなんでもないのだ。茶でも飲ませて喜ばせて誤魔化して置いて、早くこの麦畑から追っ払ってしまえばよいのだ。(『麦と兵隊』)
二つの記録は、戦場への鉄道での移動から始まる。進軍と戦闘と休息の、似たような戦場の生活が描かれている。戦場にも日常生活はある。いかに激しい戦いの中にあっても、人間は食って、寝て、会話を交わし、余暇を楽しむ。もちろん、文化や習慣による細かい違いもある。例えば、食事の作り方は違っている。日本軍は兵隊が飯盒など使って個人的に食事を作るのに対して、ドイツ軍には炊事車があって集団給食をしている。(バーバラ・W・タックマン『八月の砲声』によれば、ドイツ軍の炊事車はロシア軍を真似て導入したものらしい。)
あるいは、日本軍が敵地に、ドイツ軍は味方の地にいたことによる違いはある。宿舎として日本軍は避難民の家を勝手に占拠するが、ドイツ軍は住民を追い出さずに同居する。もっとも、ドイツ軍の闖入を住民は断れないし、避難して不在であれば勝手に使われてしまうのだが。住民が避難した後に残された食物や家畜を勝手に徴発するのは同じであるが、敵地にいる日本軍の方が大っぴらであったようだ(日本軍の宿痾である兵站の不十分さのため、それが常態化している)。両著述とも一般の略奪行為にはあまり言及されていないが、個人的な叙述では、火野が空になった家で見つけた絵巻物を何のためらいもなく「持って帰る」のに対し、カロッサは避難民の残した「すばらしい刺繍のある亜麻布」に惹かれるが、持ち主の気持ちを思って結局はあきらめる。(『八月の砲声』によれば、ドイツ軍占領下のベルギーやフランスでは、ドイツ軍による「略奪、放火、虐殺」が頻発した。カロッサは記述を西部戦線からの移動で始めていて、そこでの経験は記録されていない。)
戦争の様相の違いが最も大きく現れているのは、捕虜の扱いの記述である。『ルーマニア日記』では、降伏した捕虜は後方に送致されている。また、敵であるルーマニア兵の負傷者も救護所に受け入れている。いつ野戦病院に連れて行ってもらえるのかとルーマニア兵がたずねさえするのだ。日中戦争は宣戦布告がなされなかったので、戦争に関する国際条約には拘束されないという解釈が日本軍にはあったようだ。『麦と兵隊』には何か所か中国兵の捕虜が描かれているが、権利も何もない「敗残兵」の扱いである。捕虜のその後の行方についてはほとんど書かれていない。(記述の最後に、斬殺される三人の捕虜が描かれてある。)
火野は敵に対しても人間的共感を失ってはいない。しかし、中国兵に対する日本兵の蔑視は表現されている。敵を憎むのは戦争において普遍的なことである。そこに大きな差はないかもしれない。ただヨーロッパにおいては、民族の居住地と国境が複雑に入り組んでおり、単純に割り切れない思いがあるようだ。『ルーマニア日記』には、ポーランドの将校が部下のボスニア兵を殴る場面や、捕虜であるユダヤ人のルーマニア兵が、ハンガリー人は憎んでいるが、ドイツ人は尊敬していると言う場面がある。
時代や場所による違いがあるとはいえ、戦争を参加者個人の日常の視点において叙述している点で、似ているというのが最初の印象である。しかし、二つの作品を読み比べていくと、だんだんそれが心もとなくなってくる。なぜだろうか。
火野が読者として意識していたのは、戦争を行っている二つの集団の一方の成員(具体的には日本国民)であり、そういうレベルでの感情に、意識的にせよ無意識的にせよ、おもねらねばならなかった(むろん、検閲があった)。『麦と兵隊』の終末の「私は悪魔になっては居なかった。私はそれを知り、深く安堵した。」という有名な記述がわざとらしく感じられるのは、そのことに由来するのだろう。
『ルーマニア日記』も発表することを意識して書かれたであろうし、そうでなくとも発表されるときはそれにふさわしいものとして推敲されたであろう。だから、読者を意識して書かれていることは共通である。しかし、どのような読者を意識していたかには違いがある。
以前私は、なんのために自分がこういう手記を綴るのか、それがわからなかった。しかし、現在ではこの手記は、あとになって無事に家へ帰ることができるようにと、ヘンゼルとグレーテルが森の中にまいておくパンのかけらのようなものなのだ。むろん、子どもたちがいざ家へ帰ろうとすると、パン屑はみんな鳥に啄まれていたのだが――しかしそこで初めて本来の童話が始まるのである。(『ルーマニア日記』)
日本人とドイツ人、日本軍とドイツ軍、日中戦争と第一次大戦という相違、そして火野とカロッサの個性の違いよりも、そういうことが作品に差をもたらしているのかもしれない。