『暁の寺』の謎
三島由起夫の『豊饒の海』四巻の中で、その破調のゆえに第三巻『暁の寺』が一番興味深い。そもそも題名が「暁の寺」となっているのに、肝心のそれが出てくるのは最初だけであり(第二部ではわずかに一カ所、二十五で、朝焼けの富士山を「それは端正な伽藍の屋根、日本の暁の寺のすがただった」と形容しているだけである)、それが何を意味するのか不明のまま物語は終わってしまう。また、この巻の主人公であるはずの月光姫(ジン・ジャン)の心理については一切語られず、それどころか彼女は本多繁邦の前に現れるときだけにしか物語に登場しない。彼女は本多の妄想の対象でしかないようである。だから、第四巻『天人五衰』で「清顕も勲も月光姫も(略)苦悩に於いてさえ特権的に振舞いすぎたのだった」とか、「外から人をつかんで、むりやり人を引きずり廻すものが運命だとすれば、清顕さんも勲さんも、ジン・ジャンも運命を持っていたわ」と、清顕や勲と並列して書かれてもピンとこない。
『暁の寺』ではむしろ本多が主人公になってしまっているが、その原因はインドにある。タイが中心であるべき物語にインドが押し入ってしまったのだ。たぶん、三島由起夫はインドについて書いておきたかったが、他の作品として独立させる余裕がなく、やむなく『豊饒の海』に取り込もうとしたのだ。その結果、この物語は「暁の寺」ではなくなってしまった。
ところで、『暁の寺』には一つの謎がある。久松慶子はジン・ジャンと同性愛関係にあったのに、なぜ本多とジン・ジャンの仲を取り持とうとしたのか。彼女の甥にジン・ジャンを犯させようとまでして。彼女の特異な性格のせいにするにしても、いささか無理のある設定ではないだろうか。
このことからある推測が生じる。ジン・ジャンと慶子の性的関係は当初予定されていなかったのではないか。二人の関係が早くからのものであることは、慶子の甥に襲われる前にジン・ジャンが見ていた写真が慶子の全裸写真であったことで証明されるのだが、それを本多(と読者)が知るのは物語の終末、別荘が火事になってからである。物語の早い段階では、ジン・ジャンの性的放恣を本多が覗くことは予定されてはいても、それが同性愛とは想定されていなかった。あるいは同性愛をも含めた性的関係が予定されていたのかも知れないが、そこに慶子は含まれていなかったのではなかったか。
本多の覗きの最初の対象は、鬼頭槙子と椿原夫人と今西康の三人セットであった。槙子に見られながら椿原夫人が男と性交するのが習慣化していたようなのである。この時点で、読者は槙子がこの物語の中で重要な役割を担うことを予感させられる。しかし、その期待に反して、槙子はその後読者の前から消えてしまう。ここにもう一つの謎がある。
インドが『暁の寺』を乗っ取ってしまったために、この物語の最後はベナレスの火の再現となった。本多の別荘の火事がベナレスの再現となるためには、誰かが焼け死ぬ必要があった。選ばれたのは今西と椿原夫人である。しかし、そこに槙子はいなかった。槙子は事前に慎重に排除されていた。今西と椿原夫人は槙子抜きで会うようになり、槙子は慶子の家のパーティにちょっと現れただけで、椿原夫人を棄てて別の弟子とヨーロッパへ行ってしまう。
慶子の不可解な行動と槙子の意外な退場。このことから推測すると、当初予定されていたジン・ジャンの相手は槙子ではなかったろうか。しかし、別荘の火事で同室の今西と椿原夫人が死ぬとすれば、隣の部屋で槙子がジン・ジャンを抱くという状況は不自然となろう。それゆえ、槙子と慶子が差し替えられたのではないか。
この推測を補強する(ただしあまり強力ではない)二つの描写の変化がある。一つは慶子の容姿である。慶子は『暁の寺』第二部で登場するのだが、最初は堂々たる体躯の持ち主とされている。
ウェイストをくびらせたスーツの仕立てのために、タイト・スカートの腰の青磁いろは、巨きな李朝の壺のように充溢していた。(二十四)
慶子の抱擁的な親切、立派な胸と大きなお尻、落ち着いた物言い、その香水の薫りまで、梨枝の生まれついたつつましさに、或る保証を与えるらしかった。(二十五)
軍服のジャックの尻はひどく巨きかったので、人々は慶子の堂々たる臀(いしき)とどちらが巨きいか比べて見た。(二十六)
一方、物語の終わり近く、本多の別荘のプールに水着姿で現れた慶子は次のように描写されている。
プールを隔てて見る慶子の、黒白の縦縞の水着に包まれた体は、五十歳に近いと言われても信じがたい、豊麗を極めた姿で、幼いころからの洋風の生活が、脚の形といい長さといい、日本人離れのした釣合にして、姿勢がいかにも好いから、何か梨枝に話している横向きの体にも、彫刻的な曲線が威厳を以て流れ、胸と尻の突起の均整にも、円やかな肉体の統治が見られた。(四十三)
極端な違いは目立たないけれども、微妙な描写の力点のズレがあり、巨大な尻は消し去られている。ジン・ジャンの相方として、肉体的な改造がされているように思える。
もう一点は、ジン・ジャンが本多の別荘で慶子の甥に襲われて、慶子の別荘に逃げ込んだとき、そこにジャックがいたかいなかったのかはっきりしないことである。読者が最初に与えられる情報は、椿原夫人が慶子から聞いた話として今西に語った内容である。そこではジャックは慶子と一緒にいたことになっている(三十七)。次に、本多の記憶としての、そのときの慶子の言葉「ジャックがいなくてよかったわ。いたら大さわぎをしたでしょう」がある(三十九)。そして、慶子の家のパーティで、槙子が本多に、慶子から聞いた話として、そのときジャックが慶子と一緒にいたと告げる。なぜ慶子が嘘をついたのかを本多も作者も深く追求しようとはせず、「慶子がそういう無意味な嘘をつくことがあるという発見は、本多にひそかな小さな優越感を与えた」というだけで済ませてしまっている(四十)。
本多に対して、あるいは椿原夫人と槙子に対してかもしれないが、なぜ慶子は嘘をついたのか。慶子が嘘をつくとすれば、自分とジン・ジャンの関係を本多に疑わせないために、ジャックと一緒にいたことにしようとするだろう。ジャックがいなかったという嘘をつく必要はないのだし、それが嘘でなければ、本多には本当のことをいいながら、椿原夫人や槙子にジャックがいたという嘘をつく理由が分からない。だいたい、椿原夫人や槙子に慶子が喋り散らすことに対して本多はなぜ怒らないのか。
うがった見方をすれば、慶子が本多に嘘をついたのなら、ジン・ジャンとの関係をほのめかそうとしたのかもしれない。慶子は本多を翻弄していた。ジン・ジャンが自分以外の人間と性的関係を持つはずがないと知っていながら、本多をからかっていた。しかし、そうも考えにくい。
一つの解釈として、慶子をジン・ジャンの相手とするために、ジャックの存在を希薄にさせようとして、作者は慶子に「ジャックがいなくてよかったわ」と言わせたのではないか。だが、それ以前にジャックがいたことになっているように椿原夫人に言わせていたことに気づき、辻褄をあわせようとした。その結果、槙子をも動員しなければならなくなった。
だが、この解釈には欠陥がある。椿原夫人と今西の会話は、二人が槙子から独立して結びつく場面の中で語られている。槙子抜きになることは二人が別荘で焼け死ぬことへの助走であり、それはもはや作者が槙子をジン・ジャンの相手として設定していないことを意味するとすれば、そのときには既にジャックと慶子の関係は薄められていなければならないだろう。だとすれば、椿原夫人と今西の会話では「ジャックはいなかった」とされるべきではないか。
反論としては、作者はそこまで厳密に考えていなかったのかもしれない。全ては作者のたくらみなのかもしれないが、そうではなくて、これらが作者の過誤であったとすれば、作者は混乱していたのである。タイも「暁の寺」もジン・ジャンも作者の興味を引かなくなっていて、ただインドで、ベナレスで見たものを何かの形にしようとしていた。本多の別荘の火事に向かって、全てが調整されなければならなかった。
ただし、これらは全て憶測である。はっきりした裏付けがない以上、謎は謎のまま残る。