『おお、大砲』と天誅組
司馬遼太郎の小説の面白さは短編にあると私は思っている。長編だと、こまごまとした叙述に取り込まれて、颯爽とした主人公の姿が見失われてしまいがちである。『おお、大砲』は好きな短編の一つだ。天誅組に関する私の知識は長い間この作品から得ただけのものに留まっていた。
奈良県東吉野村の鷲家谷には、「天誅組終焉之地」という大きな石碑がある。私のように半端な知識しかない者は、何でこんなところにと不審を持つだろう。この辺りは五條からかなり東方になり、ましてや十津川とは大峰山などの山々をはさんで遠く隔たっている。私がここを通りかかったのは、明神平へ登るためだった。名阪国道を針ICで下りて南下、榛原町、菟田野町(両町とも現宇陀市)を通って東吉野村鷲家口に至り、分岐して細い道を大又方面に行けば、突き当たりが登山口になる。登山の帰りに石碑のところで車を停めてみた。傍には吉村寅太郎の墓があった。『おお、大砲』には吉村寅太郎の最後がこう書かれてある。
(ちなみに、吉村寅太郎の負傷は腹部の盲貫銃創で、奥吉野の山中を敗走中に化膿し、味方からもはぐれ、背負っている人夫にも捨てられ、身動きの自由を失ったところを藤堂兵に射殺された)
天誅組の詳しい経緯についてはよく分からぬままに、感慨を抱かせられる墓ではあったが、なぜここにという疑問は一層強まった。調べればすぐ分かることなのだが、そこまでの気はなくてそのままにしていた。ところが、最近『大菩薩峠』を読みかけたら、机竜之介が天誅組に加わる箇所があった。『夜明け前』には天狗党のことが詳しく書いてあったことを思って、同じことを期待して読んだが、机竜之介が彼らの思想信条に無関心なように作者も彼らの運命などどうでもいいような書きぶりで、それは外れた。そこで、図書館にあった『天誅組紀行』(吉見良三、人文書院、1993年)という本を借りて読んだ。
この本は『南山踏雲録』を書いた伴林光平(ともばやしみつひら)を中心として、天誅組の行動を描いたものである。『南山踏雲録』も伴林光平も私はこの本で初めて知った。伴林光平は国学者、歌人で、天誅組参加者中最高齢の五十一歳であった。敗走の際に本隊に先んじて南山(吉野一帯の山岳の称)を脱出したが、生駒市北田原町で捕らえられ、五ヶ月後に京都六角の獄で処刑された。『南山踏雲録』は奈良奉行所に収監されているときに著したものである。参加者のほとんどが戦死するか処刑されてしまったため、天誅組に関する記録として『南山踏雲録』は貴重なようだ。『おお、大砲』にも『南山踏雲録』を参照していると思われる部分がある。『南山踏雲録』はなぜか高取城攻防については省略してしまっているようだが、天誅組隊士の人物評の部分に、久留米の酒井伝次郎についての次のような記述があるとのことである。
高取城朝駈(あさがけ)の日、烏帽子形の兜を着たりしを、敵の百目筒に打貫れしかど、尻居(しりい)に倒れたるのみにて、事なく還りしが、衆見て膽(きも)を冷やさぬもの無かりき。されど酒井は、特に煩うこともなくて、なお所々の討手などに向居しを「二日ばかりは項(うなじ)痿(しび)れて物音も覚えざりし」と、後に語りき。
『おお、大砲』は、高取藩士の次男坊の新次郎が、ひょんなことから藩に常備された大砲の担当となって、天誅組との高取城攻防戦に活躍する内容である。新次郎と因縁のある玄覚房は天誅組に参加するが、維新後に再会した二人が次のような会話を交わす部分がある。
「大砲さ、だれにも当たらなかったのに、運わるく私にあたってしまった。頭に、三貫目玉が一発、ぐゎあんとぶちあたって来た」
「それあ‥‥‥」
新次郎はしばらく声をのんで、
「私が射ったんだ」
「ほほう、これは奇縁だ」
玄覚房は妙な感心の仕方をして、
「奇縁だな。やっぱり、あんたとは縁があったんだ。よりにもよって、あんたがぶっぱなした玉とは夢にもおもわなんだ」
「私も想像だにしなかった」
「まったくあの大砲にはひどい目にあわされた。三貫目玉がカブトに当たってから、三日三晩、耳鳴りがして眠れなかったほどだ」
「耳鳴り。──」
こんどは新次郎のおどろく番だった。二百年間、高取藩の藩宝として受けつがれてきたブリキトース砲は、この紀州の足軽あがりの男に耳鳴りさせただけにすぎなかったのだ。
(なるほど、そういうものかもしれない)
この一事で、徳川三百年というものの中身が、なんとなくわかるような気がした。
明らかに『南山踏雲録』から取られたエピソードである(というより、このエピソードから『おお、大砲』という作品が着想されたのだろう)。
『おお、大砲』は高取城攻防戦以後の天誅組については書いていない。『天誅組紀行』によって、私はそれを知ることができた。高取城の攻防戦に敗れた天誅組は、十津川郷にこもって追討軍を迎え撃とうとする。しかし、天辻峠付近の戦闘で劣勢になり、河内勢の離脱や十津川郷の離反にあって、遂に主将中山忠光は解散宣言をし、追討軍の包囲網からの脱出を図ることになる。北方から迫る敵を逃れて南下するが、新宮や熊野へ出る道も、紀州田辺へ出る道も既に押さえられてしまっていた。やむなく、大峰山を越えて北山郷へ出て、尾鷲か伊勢路を目指すことになる。本隊は下葛川から笠捨山経由で浦向へ、そこで尾鷲方面も防御が堅いことを知って、白川、伯母谷(川上郷)と東熊野街道を北上、文久三年九月二十四日夜の鷲家口の戦闘に至る。つまり、おおまかに現在の168号線、425号線、169号線に沿って大きなUの字を描いて、五條から鷲家口まで移動したわけだ。
ところで、伴林光平たちは先発隊として、風屋から嫁越峠を越えて白川へ出ている。女人禁制の奥駈道を、輿入れに限って女性が横切るのをゆるしたために峠にこの名がついたという。本隊よりも北側の大峰山横断の道だ。本隊の通った道も険阻らしいが、伴林らが前鬼に下りたと記してあるのに私は驚いた。私は前鬼を経由して釈迦ヶ岳に登ったことがある。前鬼からの登山道は太古の辻で奥駈道に合う。嫁越峠は天狗山をはさんで太古の辻の反対側(南)になるが、そこから前鬼へ下る道があったのだろう。いずれにしても並みの山道ではない。
伴林光平たちが東熊野街道を北上して鷲家を通過したときには、まだ追討軍はおらず、わずかな差で本隊の運命からは免れた。後から東熊野街道をたどった本隊には、負傷した吉村寅太郎や、失明した松本奎堂など、介添えの必要な隊士が十人以上いた。これらの人々や物資・装具を運ぶために地元の人を人足として使っていた。吉村寅太郎は駕籠によって運ばれながら、負傷後も指揮をとっていたようである。そういう行軍で鷲家口まで来たところ、彦根藩の軍勢が待ちかまえていた。バラバラになって行軍してきたため先頭集団だけの軍議の結果、決死隊六名が彦根の本陣に切り込み、その混乱に乗じて他が脱出することになった。鷲家口にいた彦根藩の人数が少なかったせいもあって、無謀とも思えるこの作戦は成功する。決死隊は全員が射殺されてしまうが、残りの隊員のほとんどは鷲家口を通過できた。しかし、その先の鷲家では、天誅組の襲来の報を受けた和歌山藩の兵が警戒していた。とうてい突破できぬと見て、中山忠光を含めて残った十七人は、ここで解散して各自落ち延びることにした。だからこの地に天誅組の終焉碑が建てられたのだろう。
三総裁(松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎)を含む後続の隊員達は逃げ遅れ、近辺の山中などに潜んでいるところを残党狩りにあって、殺されるか捕らえられるか自害した。吉村寅太郎は鷲家口の東約一キロの烏原で駕籠をかついでいた人夫に逃げられ、三日後に鷲家谷の山小屋に潜んでいるところを藤堂兵に射殺された。烏原から鷲家谷までの三キロをどのようにして移動したかは分かっていない。吉村の首は京都へ送られ、残された遺骸は地元の人が近くの鷲家川畔に葬った。
吉村寅太郎の墓は後に鷲谷口の明治谷に移され、決死隊の六人と一緒にまつられた。元の墓も復興されているので、吉村の墓は二つある。私が見たのは、終焉之碑の傍にある元の墓である。
天誅組参加者のほとんどは死亡するか捕らえられ、捕らえられた者も多くは処刑されたので、生き残ったのはわずかだった。驚いたことに、鷲家谷で解散後、中山忠光と供の六人は脱出に成功して長州藩の大阪屋敷に入ることができ、舟で長州へ逃れた。しかし、長州藩では藩論が変わり、藩権を握った俗論党と呼ばれる幕府恭順派によって、邪魔になった忠光は一年余の後に暗殺されてしまう。
『おお、大砲』には、新次郎と玄覚房の次のような会話もある。
「しかし、むかし天誅組にいたという履歴なら、新政府に入れば大そうな出世ができるんじゃないですか」
「それがだめ。私は意気地がなかった。私は八月二十六日の高取攻めのときに敗退して以来、そのまま隊をすてて大和から逃げた。生き残った北畠治房などは大そうもない出世をしているが、私は途中から逃げたから、昔の同志にあわせる顔がない」
そうでもないようなのである。薩長の藩閥に支配されている新政府に天誅組の生き残りの入り込む余地はなかったようだ。伴林光平と一緒に逃げ、途中で別れて逃げ延びた平岡鳩平は、維新後、名を北畠治房と変え、大阪控訴院長にまでなったが、彼が出世できたのは、薩長閥に対抗しようとした司法卿江藤新平に拾われたからである。
天誅組参加者は、死んだ者も生き残った者も、あまり報われなかったようである。そういう彼らの運命を思うと、鷲家谷や鷲家口にひっそりとある史跡は、むしろ彼らの鎮魂にふさわしいような気もする。