井本喬作品集

『ダ・ヴィンチ・コード』とキリスト教

 『ダ・ヴィンチ・コード』(ダン・ブラウン、2003年、越前敏弥訳、角川書店2004年)をようやく読んだ。図書館で本棚にあるのを見つけたのだ。図書館は評判になった本は何冊か揃えているのだが、いつもみな貸し出し中だった。そろそろ流行が下火になってきたようだ(買えばいいのにと思われるかもしれないが、様々な理由でその気にはなれなかったのである)。面白く読めたが、推理小説としては水準を大きく超えているとは思えない。今どきのスレた読者なら犯人が意外な人物であるのは当然と思っているので、作者はひっかけようとしてはいるのだが、辻褄合わせで手の内がバレる。登場人物が限られている以上読み進んでいけば自ずと犯人は分かってしまう。出てくる暗号も驚かされるほどのものでもない。

 ベストセラーになったのはキリスト教の解釈のせいだろうか。読む前から本や映画の宣伝でうかがい知れる範囲で思っていたのだが、読んでみてやはり『フーコーの振り子』(ウンベルト・エーコ、1988年、藤村昌昭訳、文藝春秋1993年)の内容に似ていることが分かった。『フーコーの振り子』が『ダ・ヴィンチ・コード』に影響を与えたというのではなく、こういうジャンルがあるようだ。

 それにしても、トップ四人が一度に殺されてしまうなんて、シオン修道会は秘密結社にしてはガードが甘すぎる。しかし殺害者の方も一人きりというのは、ちょっと負担が大きすぎる(そのせいで、他の三人の殺害についてはほとんど述べられていない)。オプス・デイという組織が背後にあるなら、もっと人数を増やしてもよさそうなものだ。殺すと脅かしたぐらいで得た情報を信じるなんて、そしてその情報の真偽を確かめずに殺してしまうなんて、やり方も稚拙すぎる。誘拐して拷問し、得た情報の真偽を確かめるまで生かしておくべきなのだ。

 また、女主人公が二十二歳になっているのに秘密を知らされず、その後十年間も祖父(シオン修道会の総長)と仲違いしているなんて、何と不用心なことではないか。もちろん、野心を持たれないために(イエスの直系の子孫であることを知りながら、ただ子を残すことのみに専念するなどという境遇に甘んじられようか)、本人には知らせずに保護するという方法も考えられるが、三十二歳にもなって結婚していなければ、危機感から何らかの手を打つはずだ。女主人公たちが秘密の解明に近づいたとき、姓が違うという理由で自分のことではないと否定してしまうのもおかしい。姓などどうにでも変えられる。身分を隠そうというなら、姓を変える方が当然なのだ。そのことに気がつかないなんて、彼等は愚かすぎる(もちろん、作者が驚きの効果を後に延ばそうとしたからだが)。

 ところで、女主人公と祖父の仲違いの原因となった異端的な儀式を、イエスが容認したとは思えない。たとえイエスが結婚していたとしてもである。カソリック教会によって抹殺された部分という設定であるが、イエスの教えはそのような土俗的なものではないはずだ。二人の仲違いを深刻なものにするために、古代信仰を持ち出した作者の計算違いである(シオン修道会という架空カルトが秘密の護持者とされているせいもあるが)。

 キリスト教の解釈についていえば、イエスがマグダラのマリアと結婚して子どもを作っていたということが事実であっても、カソリック教会は新たな難題を抱え込むわけではないだろう。イエスが人間の女性から生まれたということとイエスの神性を調和させるという難題が既にキリスト教にはあったのである。アリウス派はイエスの神性を否定したし、ネストリウス派はイエスの神性と人性は独立した二つの自立存在であるとしてマリアが神の母であることを否定した(いずれも異端とされた)。キリストは神性のみ持つという単性論もカルケドン公会議で異端とされ、父と子と聖霊の三位一体という(理解しづらい)解釈が正当とされたのである。もしイエスに子どもがいたとしても、イエスの神性と折り合えるような適当な解釈が作り上げられたであろう。それについての論争の方が、隠蔽工作の物語よりも面白いように思える。

 そして、なぜ題名が『ダ・ヴィンチ・コード』なのか。物語の発端であるダイイング・メッセージはダ・ヴィンチにからんでいるが、本題はシオン修道会の秘密の探求である。『最後の晩餐』の仮説的解釈は述べられているが、本筋とは直接つながっていない。ダ・ヴィンチ自身を謎にうまく関与さていないのである。(ダ・ヴィンチがシオン修道会の総長だったということも、単にそれだけのこととしてしか取り上げられていない。)題名にダ・ヴィンチを使ったのは商業的には成功だったかもしれないが、羊頭狗肉という感じである。

 そんなわけで『ダ・ヴィンチ・コード』にはさほど感心しなかった。一方、『フーコーの振り子』の中でひけらかされる知識の多彩さは驚きである。こちらはテンプル騎士団の秘密を解明する物語なのだが(『ダ・ヴィンチ・コード』でもシオン修道会との関係でテンプル騎士団について言及されている)、主人公たちは虚構として作り上げた自らの物語にのめり込み、最後にはその虚構を信じた者たちによって破滅させられてしまう。様々の情報を恣意的な操作によって結びつけて奔放に奇怪な物語を構成していく過程は、私たちの思考の病的な側面を表現しているのだろう。『ダ・ヴィンチ・コード』もそういう物語の一つでしかないと思えてしまう。

 ところで、キリスト教徒たちはなぜこんなに秘密結社と秘儀が好きなのであろうか。『危ない精神分析』(矢幡洋、亜紀書房、2003年)には『心的外傷と回復』の著者であるジュディス・L・ハーマンの理論と治療法をめぐるスキャンダルが書かれているが、これを読むと多くのアメリカ人が悪魔崇拝の存在を信じていることに驚かされる。

 日本で主流となっていた文化論の一つに、一神教の西欧と多神教の日本を対比させるものがある。だが、はたしてキリスト教は一神教なのだろうか。イエス・キリストに神性があるなら、唯一神との関係が問題になるのは当然である。だが、それだけではない。マリア信仰とは何だろうか。聖人たちをあがめるのは何なのだろうか。天使たちとは何なのか。悪魔とは何なのか。キリスト教の信仰の対象はいくつもあり、それは多神教的な性格を示しているのではないか。

 仏教では、ヒンズー教などと対抗するために、様々の土俗的な神を取り入れて多神教化した。宗教が信者を拡大するにつれ、あるいは拡大するためには、多神教的な性格にならざるを得ないのであろう。一般の信者たちにとっては教義の本質は難しすぎるのであり、具体的な神の姿を求めるのである。世俗的な要望の個々に応えるために、神々は分化し、分業する。神々も進歩(あるいは堕落)するのである。

 『ダ・ヴィンチ・コード』を読むと、キリスト教の人間化(人間としてのイエスの強調)よりも、キリスト教徒の多神教的な性格の方が目につく。それが西欧でこの本をベストセラーにしたのだろう。

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