帝政ロシアのテロリストたち
『アレクサンドル2世暗殺』(エドワード・ラジンスキー著、望月哲男・久野康彦訳、日本放送出版協会、2007年)という本を読んだことで、ドストエフスキーの『悪霊』(江川卓訳、新潮文庫)を読み直してみた。以前読んだときは、何だかよく分からないという感想が残っただけだったが、今度は、上述の本や訳者(江川卓)の解説も参考になって、この作品を理解する手がかりを得たような気がする。
そもそも最初に『悪霊』を読もうと思ったのは、この作品がネチャーエフ事件を題材としているというので興味を持ったからであった。ところが、主人公であるニコライ・スタヴローギンをネチャーエフの化身だと思って読むと、ネチャーエフ事件(秘密結社内での殺人事件)の骨格があいまいになってしまい、ドストエフスキーの繰り出す圧倒的な量の言葉の中で道に迷ってしまうのである。実は、解説が教えてくれるように、スタヴローギンはネチャーエフではない。ネチャーエフはピョートル・ヴェルホーヴェンスキーだったのである。ドストエフスキーは、ピョートル=ネチャーエフを主人公とした物語を書き始めたが、途中でその構想を変えて、スタヴローギンを主人公として(他の作品プランから)持ち込んできたのである。だから、『悪霊』には二つの物語があり、二人の主人公がいる。
この作品がピョートルの父親であるステパン・ヴェルホーヴェンスキーについての叙述から始まっているのはそういうわけなのである。一八四〇年代の自由主義者である父ステパン氏が、息子ピョートルという怪物を生み出したというのが、ドストエフスキーの最初の構想だったらしい。そこには四〇年代自由主義からの転向者である彼の主張が込められるはずであった。ところが、ピョートルには物語の主人公としての重みが欠けていた。ドストエフスキーにはネチャーエフらの思想があまりに軽薄すぎて、喜劇的人物としてしか造型できなかった。そこでスタヴォローギンが導入された。ところが、彼はうまく接ぎ木させられていないのである。ピョートルはスタヴォローギンに「彼らのためにステンカ・ラージンの役どころ」を引き受けさせようとする。つまり、ピョートルは参謀役に回ってスタヴォローギンを「偶像」に仕立て上げようようと望むのだ。ところが、スタヴォローギンはピョートルの誘いに乗らないし、そもそも作者はピョートルの惚れ込んだ彼の資質を読者に納得させる形で示すことに成功していない。
スタヴォローギンは、この物語の重要な登場人物であるシャートフやキリーロフに、かつて大きな影響を与えたらしいのだが、それがどのような内容であったかは語られていない。以前は反乱の陰謀にも加担していたらしいが、それも後に投げ出してしまったようだ。スタヴォローギンがこの物語で実現するのは、奇妙な決闘と恐ろしい告白以外は、リーザ、ダーリヤ(シャートフの妹)、マリヤ(スタヴォローギンの名目上の妻)、マリヤ(シャートフの妻)などとの男女関係のいざこざだけなのである。彼は自分自身のことにかまけて、ピョートルの行為に重みを与えることはしないし、出来ないままなのだ。ピョートルはスタヴォローギンぬきで動き回らねばならず、二人は並行して物語を進めていく。
この非溶解はこの物語の語られ方にも現れている。第一部から第二部第一章の2までは、ステパン氏の友人である「私」という語り手の体験談という形を取っているが、それ以降については「いわば事情に精通した者として、つまり、すべてが解き明かされた現在の立場から書いていく形で、私のこの記録をつづけたい」と宣言されている。もちろんこういう形が破綻になっているというわけではない。物語を一人の語り手の純粋な体験のみに限らずに、伝聞や調査の内容にまで拡げるという構成は珍しくはない。しかし、死んでしまった者(スタヴォローギン、リーザ、シャートフ、キリーロフ、レビャートキン、二人のマリヤ)や行方不明の者(ピョートル)たちからは事件後に聞き取りはできないはずである。それゆえ、事件の渦中における彼らだけが知っているやりとりについては、作者は語り方についての配慮を放棄し、客観描写にしてしまっている。これはスタヴォローギンの行動に関する部分が多く、その部分が挿入された感じを強めるのである。
ではなぜスタヴォローギンは必要とされたのであろうか。スタヴォローギンは徹底的に反社会的である(「異常な犯罪能力」を持っている)ことで、ピョートルにはない純粋の自我を提供してくれることをピョートルに期待させたのだ。その意味でスタヴォローギンは自我に誠実でなければならず、作者もピョートルとともに彼に期待した。しかし、純粋の自我というものも抽象的でしかなかった。スタヴォローギンは期待に応えることができなかった。
スタヴォローギンの協力を得られないため、ピョートルの企ては滑稽なままに終わってしまう。ピョートルは「ぼくはペテン師で、社会主義者じゃない」と自認している。ピョートルは仲間の一人であるシガリョフの以下のような考えさえ、理想だといってあざ笑う。
彼はスパイ制度を提唱してましてね。つまり、社会の全成員がおたがいを監視して、密告の義務を負うわけです。各人は全体に属し、全体は各人に属する。全員が奴隷であるという点で平等です。極端な場合には中傷や殺人もあるが、何より大事なのは──平等です。まず手はじめとして教育、学術、才能の水準が引きさげられる。学術や才能の高い水準に達するには高度の能力が必要ですが、そんな高度の能力など必要ない!高度の能力をもった者はつねに権力をにぎり、専制君主でした。高度の能力をもったものは専制君主たらざるをえないし、これまでつねに利益より害毒を流してきたんです。彼らは追放されるか、処刑されます。キケロは舌を抜かれ、コペルニクスは目をえぐられ、シェイクスピアは石で打たれる──これがシガリョフ主義ですよ。
ピョートルが理想として笑ったシガリョフ主義が、スターリン体制として実現したところに、彼の限界があった。ピョートルはスターリンになれず、スタヴォローギンをスターリンに仕立てあげることも出来なかった。ピョートルはシガリョフたちを甘く見過ぎたのである。
ドストエフスキーが自由思想や社会主義に批判的であったのは、それらがロシア社会においては重要な役割を果たし得ないと思っていたからだろう。自由思想家や社会主義者などの理想家に彼が見たのは、理想をもてあそぶという自分自身のエゴイスチックな姿に気がついていない彼らの無神経さだった。だからこそ自覚的なピョートルによって彼らを乗り越えようとしたのであろう。だが、理想をあざ笑いつつも、ピョートルは現実的ではなかった。ピョートルもまた幻想の中にいたのだ。
やがて、非現実的であるとドストエフスキーが批判した理想家たちも現実的であろうとする。彼らはテロリストとなって要人の暗殺を実行する(ネチャーエフ事件が1869年、アレクサンドル2世の暗殺が1881年)。ピョートルにもスタヴォローギンにも似ていない彼らテロリストに、ドストエフスキーは共感を覚えたのではないか。だからこそ、アリョーシャ・カラマーゾフが皇帝を暗殺するようになる物語を書こうとしたのではないか(ドストエフスキーはアレクサンドル2世が暗殺される直前に死んだが)。
ロシアのテロリストについては、大佛次郎の『詩人』に描かれた姿が印象的である。啄木は次のように歌った。
われは知る、テロリストの
かなしき心を──
言葉とおこなひとを分かちがたき
ただひとつの心を、
(「ココアのひと匙」より)
テロリストたちへの共感は、彼らの動機の純粋性によっている。彼らの動機は同胞に対する献身的な愛である(観念的かもしれないが、愛とはもともとそういうものではないか)。ただしその愛は、同胞の健全な生活を妨げる(と思われる)者(敵)への激しい憎しみとセットになっている。「テロとの戦い」が難しいのは、テロリストたちがエゴイストではなく利他主義者(その対象が制限されているにせよ)であるからだ。宗教的テロリストたちも、死後の安楽な待遇を望んでいるのではなく、同胞への愛に殉じようとしているのだ。彼らをテロリズムから手を引かせるためには、世俗的なエゴイストに変える必要がある。つまり、彼らの現世における栄達への欲求を自覚させ、それを実現するための正当な制度的手段を整えることが必要なのだ。
だが『悪霊』はそういうテロリストの出現以前の、ピョートルとスタヴォローギンの物語である。全ての小説に当てはまることだけれども、結論を急いではいけない、経過を楽しむのだ。