イヴァン・カラマーゾフの良心
ドストエフスキーの名声の前では、誰だって素直に作品を読めはしない。敬服して賛辞を捧げるか、反発して無視するか、どっちにしても正しいスタンスを取りにくいだろう。ただ、歳をとるとこだわることが少なくなって、若いときとは違った感想を持てることもある。以前に『カラマーゾフの兄弟』を読んだときには奇矯な人物の跳梁する内容に混乱した印象だけが残り面白いとは思わなかったのだが、今回は物語のしっかりした構成が分かったせいか、登場人物の担うそれぞれの役割に応じた性格の必然性が納得できた。特に次男イヴァンの重要性について理解できた。
この物語においても宗教が大きな要素になっているが、現代日本の無宗教者としてはそのことにあまり興味が持てないことが、理解を妨げていることはあるようだ。神などを信じなくとも生活に支障はないし、宗教的行事は習慣として収まるべきところに収まっているのでそれに悩まされることはほとんどない。これは何も日本だけの特徴ではなくて、ある程度安定している社会ではみなそうではないだろうか。信仰の問題は社会の混乱に際して意識されるか、それを単なる習慣以上のものとして意識せざるをえない人によって取り上げられるのだろう。私たちは宗教を真面目に考える必要はないゆえに、宗教をことさら重大視することが奇異に思えるのだ。
とはいえ、文化的な差異が作用していることはあり得る。たまたま遠藤周作の『沈黙』を再読していて、彼我の違いのようなものを感じた。誰かの批評に主人公のロドリゴが日本人的すぎるという指摘があったと思うが、確かに彼はキリスト教弾圧下の日本にはるばる布教しに来た宣教師にしては最初から神の実在について懐疑的である。遠藤の視点に希薄なのは、この世の悲惨さがあの世で報われるという確信である。ロドリゴが死後の世界を信じていれば、この世での神の「沈黙」に動揺することはなかったであろう。つまり、ロドリゴは「現世利益」がないゆえに棄教してしまったのである。いかにも日本人らしいように見えるが、果たしてそうか。
来世での利益(救済)というものが信仰の根本をなしているとすれば、それは「現世利益」と五十歩百歩であるという気がする。いずれにしても、打算的であることに変わりはないではないか。損得勘定の取引相手の神というような宗教観を真面目に取り上げる価値があるのか。たとえ利益がなくとも、要求することが多く与えることが少ない神であっても、信じるというのが真の宗教ではないのか。ところが、神が保証する来世での利益がないと、人間は倫理的にはなれないという考えがあるようなのである。人間は根本的には利己的であるので、神が来世で償う約束をしなければ現世でその利己性を抑制することができないという考えである。こういう考えに馴れていないのが、日本の文化的特性と言えるのかもしれない。
「罪の文化」と「恥の文化」という言い方がある。様々な文化の中から西欧と日本だけを取り出して二項対立させるのは恣意的すぎるように思えるが、文化間の性格的な相違を把握するための手がかりとしては都合がいい。日本においては他人を意識すること(他人志向)が強いのは、人々がお互いに牽制し合うことで社会の秩序が保たれるということの信頼が根底にあるからではないか。つまり、神という絶対者の手を借りなくても、人間たちだけで社会を形成することができるということへの確信。個人が反社会的であろうとしても、他人の抑制によってその反社会性は一定限度に抑えられ、社会そのものを破壊するまでには到らないであろうという見通しとでもいうか。人間の力は限られているので見逃しや間違いはあるけれども、それが社会にとっては致命的な欠陥とはならないという、ある意味では甘い、不徹底な認識である。
一方、人間の能力不足による失策がもたらす不正義をゆるされないものとして突きつめて考えれば、正義の執行者として人間を越えた存在が要請される。人間の作り出す社会の欠陥があまりにも目につけば、そこに絶対者を介在させたいと願いたくなるであろう。ただし、社会の欠陥(の程度)と文化的な違いが相関するかどうかは分からない。むしろ、個人と社会の関係についての考え方の違いが、社会統合の理念に反映されるのではないか。社会統合の成否において個人の寄与が大きいと考えれば、その個人の力を制御するものを社会(人々)の外に、社会を越えたところに据えておかねば、安定感を得られない。他人の掣肘によって個人の行動をどの程度抑制出来るかの見通しの違いが、神の存在感の違いになるのだろう。様々な社会的絆を断ち切ってまで自我を拡張できる存在として個人をみなすか、それとも、社会的絆の結節点である個人がそこから外れてしまえば個人そのものとしての存在も失いかねないと考えるか。
ところで、神が人間をコントロールする方法は、人間が人間をコントロールしようとするときと変わりはない。まず権威によって感化しようとするが、それで効き目がなければ、罰と報酬、つまりムチとアメを使う。利害以外に個人をコントロールする力が見当たらないように思える社会では、最終的な帳尻をあわせる存在としての神が社会を安定させるために必要とされるのではないか。逆に言えば、人間の利己性がさほど社会に害悪を与えない(害悪があってもその主たる原因は人間の利己性ではない)と思われている社会では、来世において個人を評価する神の必要性はあまり感じないに違いない。そのような社会では神は人間以外の要因(自然とか運とか)を左右する存在として扱われるのではないか。
さて、イヴァン・カラマーゾフにとっても、神の不在と倫理が問題になっている。神の存在を信じなければ人間は「何をしてもかまわない」とイヴァンは主張する。その理由を彼は明確には述べていないが、たぶん次のようなことだろうと思われる。
第一に、神が存在しなければ善悪の絶対的基準が失われてしまうので、人間は個々人が最良と考える行動をするしかなくなる。むろん神の存在を信じていても、神から直接に基準を示されるわけではなく、媒介者(預言者)を通じるのであるが。それも、網羅的なものではなく、また時代の制約もあるので、解釈の違いを生み出す余地があり、また、解釈をし直す必要も出て来るので、意見の相違から異端の排除という問題が生じてくる。それでも、一応は共通の基準が成り立つであろう。しかし、基準を権威づける神の存在が疑わしいものになれば、人々の意見は、神の指示を探ることからではなく、各人の利害から出て来ることが露わになってしまう。各人は自分なりの理屈を振りかざして、何でもするようになってしまう。
第二に、神を信じなければ、罰する者がいなくなってしまう。神がいて、終局的に(あの世で)正当な裁きがなされるのであれば、この世での人間たちのずさんな評価にもかかわらず、善行をなし悪行を避ける理由(動機)が確保される。しかし、神がいなければ、人間たちがお互いを尊重し合う取り決めを何とか作り上げることが出来たとしても、それを遵守させる力は限定的なものである。人間は全能ではないから誤ることがあるし、誤魔化されてしまうこともあるからだ。人間は他人を罰することは出来る。しかし、罰すべき人間を見逃し、罰するべきでない人間を罰してしまうことを防ぎきれない(この物語の第十二編は象徴的に「誤れる裁判」と題されている)。
ところで、イヴァンの苦悩は単にそういうことの認識にあるのではない。そういう認識を持ちながら、良心の存在を否定できないことが、彼を苦しめるのである。神を信じなければ、良心などというものを人間が持つ理由はない。イヴァンは神を信じていない。しかし、良心からは逃れられないのだ。神がいないと分かっているのになぜ良心が消え去らないのだろう。イヴァンの分身である悪魔は言う。
「良心!良心ってなんだ?そんなものは、ぼくが自分でつくりだしてるんじゃないか。なぜぼくは苦しむんだろう?要するに習慣のためだ、七千年以来の全人類的習慣のためだ。そんなものを棄ててしまって、われわれは神になろうじゃないか」(米川正夫訳)
神がいなければ良心の絶対的根拠はない。それは単なる「習慣」であり、いわば恣意的なものでしかない。もはやそういう迷妄に捕らわれる必要はない。神がいなくなったので、代わりに一人一人が神になれるようになったのだ。そう主張するイヴァンと、それを実行できないイヴァンが分裂してしまうのである。
そういうイヴァンの苦悩の重要性が理解できないと、この物語の構成の必然性が見えてこない。イヴァンの苦しみは単なる思想的な煩悶ではない。作者がイヴァンに与えた特異な性格ゆえに、読者は彼が現世的な利害を超越していると思い込んでしまい、彼の苦悩の原因を見逃してしまいかねないが、彼は遺産目当てに父親の殺害を容認したのではないかという疑惑に悩まされているのである。
兄ドミートリが犯人であればこの疑惑から逃れられ、スメルジャコフであれば彼を使嗾したことで自分も同罪であるとイヴァンが思い込むのはおかしいところがある。父フョードルに家の戸を開けさせる秘密の合図をドミートリに教えたことをスメルジャコフから聞いたときに、イヴァンは何らかの手を打つべきであった。少なくとも父親にそのことを伝えておけば、ドミートリが父親に危害を加えることを防げるはずなのだ。しかし、イヴァンは何もせずにモスクワへ行ってしまう。このことだけでもイヴァンの「有罪」は明らかである。
「何をしてもかまわない」のであれば、犯罪が行われるのを見過ごそうが、直接手を下そうが、そのことによって自分が利益を得るのであれば、どちらでもいいことだ。問題は、そのことで他の人間に罰せられないようにすることだけである。イヴァンがそう割り切ってしまえば、彼には苦悩はない。彼は思想上は自分の行為を肯定すべきなのに、どうしてもそれが出来ないので悩むのである。
イヴァンは卑怯にも、犯罪を防止できるかもしれないのに何もしない消極的な態度と、直接手を下すという積極的な態度の間に線を引くことで、自らの矛盾を誤魔化そうとした。しかし、スメルジャコフはそういうイヴァンの詭弁を暴く。彼の思想を体現化したスメルジャコフによって、イヴァンは安全な傍観者の立場を切り崩される。スメルジャコフが明らかにしたのはイヴァンの不徹底さだった。イヴァンが自身の思想に忠実であれば、スメルジャコフのしたことを肯定し、彼を使嗾したのは自分だと認めるべきだった。スメルジャコフはイヴァンのやるべきことをやったのである。
だが、イヴァンはスメルジャコフのしたことを受け入れられなかった。だとすれば思想が間違っているのか。思想の間違いを認めることは、それまでの彼の生涯を否定し、存在の根本からの作り直しが必要になる。それは耐えられない。ならば、思想に殉じるか。それも苦しい。
神がいないのを知っているのに、なぜ良心が消えさらないのか。それがイヴァンに突きつけられた疑問であり、作者が私たち読者に投げかけた課題なのである。人間たちだけの間の約束事ははかなく、良心を託すにはあまりにももろい。良心にはもっと確かな基盤があるはずだ。それが神でないとすれば、では、良心なるものは一体どこに由来するのか。
今の私たちには答えが一つある。良心は社会的構築物の中には見つからない。良心があるのは個々人の中である。良心は生得的に人間に備わっている。その理由を明らかにしてくれるのは、たぶん、進化論であろう。