誠実の二つの相
砥峰高原に行ってみると、村上春樹『ノルウェイの森』のロケ地であると書いたノボリが何本か立っていた。映画化されて今秋(2010年)公開されるらしい。興味を感じて図書館で本を借りてきた。二十年以上前(1987年)の出版である。読んでみると、ある型の感情にぴったりはまり込む感じで、その臭みが気にならなければ読みやすい。体のいいポルノ小説のようなところがあるが、今どきのポルノはこんなもんじゃないだろうから、中学生にだってポルノの代用にはなるまい。それにしても主人公(語り手)はよく射精するけれど、膣外射精が多いのに、精液の始末をどうしたのだろうか。自然主義的ポルノ的興味からは、ティッシュを用意していたのか、フェラチオのときは相手が飲み込んだのか、などと気になるのだが。ただし、最後の膣外射精では相手の女性が自分の「パンティー」を提供してくれたことが描かれている。
そんなことを思いつつ読み進み、そろそろ終わる頃になって、ようやくこれは二人の女性の間で迷う男の物語であることに気づいた。一体どういう読み方をしたんだろうね。もっと違ったことを予想したんだろうか。主人公があまりに淡泊で、女性に対する執着心を見せないので、恋愛物語とは思わなかったようだ。あまりに安易に女性が手に入る(まるで女性たちが彼の手の中に飛び込んでくる)状況に主人公が置かれているので、恋だの愛だのという手続き的な面を捨象して余計な感情を排除する設定かと思っていた。
その時点で全体を見渡してみると、主人公のこだわりがようやく理解できた。これは不倫物語なのである。主人公は、精神的に病んだ直子と、いわばうまくいっていない夫婦関係にあり、そこに新たに緑という恋人が現れる。この緑という女性がそれほど重要な役割であることを、読者である私は見逃してしまった。主人公の前に入れ替わり立ち替わり現れる奇妙な人々の一人でしかないとみなして、特に注目しなかった。この点においては主人公も同様らしいのであるが。
主人公は、過去のしがらみから直子を見捨てることはできない。しかし、緑を失いかけると、彼女が必要であることに気づく。二人の間で迷うヒマもなく直子は自殺してしまう。この都合のいい状況に、当然のことながら主人公は罪悪感を抱き、放浪の旅に出る。旅から帰り、その罪悪感を克服できぬまま、あるいは克服できぬことを認めて、主人公は緑に電話をする。
そこで物語は終わってしまう。後日談がない。これは不親切である。この物語は懐古的に始まっている。だとすれば、語っている時点(17年後)にまで到達する必要はないとしても、ある程度の経過の展望は与えてくれるべきではないか。作者もそうするつもりだったはずだ。例えば、同じ学生寮の先輩である永沢は「俺とお前はここを出て十年だか二十年だか経ってからまたどこかで出会いそうな気がするんだ。そして何かのかたちでかかわりあいそうな気がするんだ」と予言し、別離の前に「でも前にいつか言ったように、ずっと先に変なところでひょっとお前に会いそうな気がするんだ」と念押しするのだが、しかし、それきりで、永沢に関しては何の挿話もないままに終わってしまう。また、寮で同室の「突撃隊」とあだ名された男が突然寮を出てしまうのだが、その事情や彼の人生のいくらかがいずれ明らかにされるのだろうという期待は満たされない。彼らのことが触れられる時間を作者は作らなかった。なぜだろう。
主人公と緑のその後の関係をあいまいにしておきたかったからではないか。物語の終結後の登場人物たちの消息については、主人公が十二、三年後に、ある画家のインタビューをしに来たニュー・メキシコ州サンタ・フェで、永沢の恋人で自殺したハツミのことを思い出した、それだけである(それにしても主人公の友人で直子の恋人だったキズキ、直子の姉、そして直子と自殺者が多く出てくることよ)。なぜか。もし主人公が死んだ直子に責任を感じるあまり緑と別れることにしたら、緑を傷つけてしまうことになる。逆に緑と結びついたなら、直子への裏切りを追認してしまうことになる。主人公の誠実さを確保するために、作者は主人公から決定の責任を免じたのだ。
何のための誠実か。作者は主人公を誠実な人間として描いている。主人公が誠実なのは彼自身の情感に対してである。他人からみると不誠実に見えようとも、彼は彼自身の情感に誠実であることを貫こうとしているのだ。私はそう思う。しかし、もしそうであるなら、主人公は直子の死に責任など感じないのではないか。
便宜的ではあるが誠実さについて二つの様相を仮定しよう。道徳的誠実さと感情的誠実さ。もし主人公が道徳的誠実さを信条にするなら、唯一の性交相手が彼であり、それが原因かどうかは分からないが精神的に病んだ女性を、捨て去ることはできない。ところが、別に好きな女性が現れて、彼は悩む(そういう悩みを免れているのなら、道徳的になろうとする必要はない)。すると、精神的に病んだ女性が自殺してしまう。彼は罪悪感に捕らわれるだろう。彼の信条は、もう一人の女性と結びつくことを拒否させるだろう。
感情的誠実さを信条とする男の場合はどうか。彼がその女性が精神的に病んでいても愛するのは惹かれるからだ。別の女性に惹かれたら彼女も愛するだろう。自分自身の感情に誠実であるなら、二人の女性を愛して悪いことはない、もし二人を愛することが感情的に可能であるならば。ところで、精神的に病んだ女性が自殺してしまったら、彼はその事実を受け入れてもう一人の女性との愛に専念するだろう。世間を気にすることはない。彼は彼自身に誠実であればいいのだから。
アニエス・ヴェルダ監督の『幸福』という映画がある(1964年、日本公開1966年)。妻子ある男が、偶然会った女性と恋に落ちる。男は二人の女を愛そうとする。それを知らされた妻は自殺する。妻の死んだ後、女性と結婚した男は残された子供と共に幸せに暮らす。自分の感情に誠実な人間は、道徳的な罪悪感は持たないだろう。
『ノルウェイの森』の主人公は感情的誠実さを持った人間として描かれているように思える。だから彼は直子の死に罪悪感を持たないはずだ。彼は彼女の死を受け入れ、緑と結ばれるだろう。結婚するかもしれない。結婚したとしても、何年後かには離婚しているだろうけれど。そういう彼が突然直子のことを思い出して混乱することはあるだろう(この物語の冒頭のように)。しかし、彼は直子を裏切ったことになるのを認めるはずだ。そして、直子の死後の自分自身の人生を認めるはずだ。
しかし、描かれた主人公は、なぜか直子の死に対し道徳的誠実さ保持しようと懸命になる。もともと彼の道徳的誠実さなどというものは、緑と抱き合うときに、直子に悪いからと挿入しないでペッティングで射精するという程度のものだ。直子の死をなぜ素直に受け入れないのだろう(喜ぶ必要はないとしても)。主人公は一ヵ月も朦朧状態で放浪し、あまつさえ「高校三年のとき始めて寝たガールフレンド」のことも思い出してその扱いを後悔さえするのだ。その経緯といえば「僕はある女の子と仲良くなって彼女と寝たが、結局半年も持たなかった。彼女は僕に対して何ひとつとして訴えかけてこなかったのだ」「東京に向う新幹線の中で僕は彼女の良い部分や優れた部分を思いだし、自分がとてもひどいことをしてしまったんだと思って後悔したが、とりかえしはつかなかった。そして僕は彼女のことを忘れることにした」というものだ。こういう男が今さら何を後悔するというのか。
もし、直子が死ななかったら、主人公はどういう窮地に追い込まれたかを考えてみるといいかもしれない。主人公はいずれ決断しなければならなくなる。道徳的誠実さを取るなら、あくまで直子と離れず緑と別れるべきである、それが緑を傷つけることになろうとも。感情的誠実さを取るなら、直子を棄てて緑を選ぶべきだ、たとえそのことによって直子に回復不能な打撃(最悪自殺)を与えようとも。直子の死はそういう決断を回避させてくれたのだ。主人公は自分が直子の死の原因になったから罪悪感を持ったのではなく、直子の死が自分に都合がよかったから罪悪感を持ったのである。そういう罪悪感はこの主人公には似つかわしくない。
この主人公はときどきそういうことをする。与えられた役割を徹底しないのだ。ハツミの死に対し「彼女は本当に本当に特別な女性だったのだ。誰かがなんとしてでも彼女を救うべきだったのだ」と思ったりするのだが、そういう自分が直子や緑にしたことをどう思っているのだろうか。
作者が主人公に道徳的誠実さを持たせようとしたのは、読者の非難から彼を守ろうとしたからではないか。作者は読者の道徳観を逆なでするような主人公の姿を提出しておきながら、それを押し通すことはせず、ある点で妥協してしまったようである。主人公は全くイヤな奴である。こんな奴と友だちになったり恋人になったりしたくない。しかし、首尾一貫してイヤな奴なら(永沢のように)、その生き方は一つの規範になりえただろう。
旭川へ移住する途中、直子の死の状況を知らせるために東京に寄ったレイコ(直子のいた療養施設で直子と同室だった中年女性)と、主人公は性交する。直子の死のショックで一ヵ月放浪した直後である。東京に戻っても緑に連絡していないときである。レイコを見送ってから主人公は緑に電話をかける。主人公はそういう男なのだ。そういう意味で誠実な男として造型されているのだ。彼に道徳的悔恨は似合わない。