井本喬作品集

『情事の終り』という体験

 物語の面白さには二つあって、一つは「身につまされる」、もう一つは「我を忘れる」である、ということを平野謙が言っている。乱暴に言えば、前者はリアリズム、後者はロマンチシズムに通じるであろうか。しかし、読者と作品世界の親疎は、読者の状況によって違ってくる。私小説家が危機的な体験をいかにリアルに描こうとも、彼らとは異なる堅実な生活を営む読者にとっては、冒険活劇と同じような別世界の物語なのである。逆に、激烈な恋をしている者は、波乱に満ちた恋物語をリアルに感じるであろう。

 異性に(時には同性に)交際を拒絶されるという経験は、「恋人に、振られたの、よくある話じゃないか」と歌われているように、ありふれたことである。既婚の男女が、夫や妻以外の異性と付き合うことも、それほど珍しいことではないかもしれないので、そういう「不倫」関係の破綻だって稀とは言えまい。では、グレアム・グリーン『情事の終り』(1951年、田中西二郎訳、1968年)の語り手のような体験を、「身につまされる」と思って読んだ読者はどの程度いるだろうか。私はそういう数少ないであろう読者の一人であった。

 この物語は、語り手である主人公が、かつて愛した女性の不倫の相手(以前は彼がそうだったが、今は別の誰か)を探ろうとするところから始まる。

 ‥‥考えてみれば、罪のない者を探偵するというのは、これはあまり尊敬できる商売ではない――なぜといって恋人たちはほとんどみな罪のない連中ではないか?かれらは犯罪を犯したわけではないし、古めかしい文句だが、いつも恋人たちの唇から出かかっているとおり、「わたし一人が傷ついても、ひとさまに迷惑をかけないかぎり」何もわるいことはしていないと、腹の底から信じている。そして恋愛のまえには、もちろん、あらゆることが免(ゆる)される――そうかれらは信じているし、わたしも恋をしていた頃は、そう信じていたものだ。

 そう、私もそう信じていた。そして彼が過去を回想するように、私も過去を回想した。

 ‥‥あの午後、彼女が突然わたしに、こちらから訊ねもしないのに、「あたしはこれまで誰をも、どんなものをも、いまあなたを愛しているように愛したことはありませんわ」と言ったとき、わたしは実に完全無欠な信頼を抱いた。食べかけのサンドイッチを手に持って腰をかけている彼女は、五分前のあの堅木の床の上でのように、まったくみずからを抛げ棄てているかと思われた。われわれ大概の人間はこれほど完璧な陳述をすることをためらうものだ――過去をおもい、将来をかんがえ、またおのれの判断に疑いを持つからだ。彼女は疑いを持たなかった。その瞬間だけが問題であった。永遠とは時間の延長ではなくして、時間の欠如であるといわれるが、わたしには彼女の自己抛棄はあの不思議な数学上の点、広さを持たず、空間を占めない点の持つ無限性に達しているように思われることもある。時間にいったい何の意味があろう――一切の過去、その過去にいつの時か(これもまた“時”だ)彼女が知りあった他の男たち、あるいは一切の未来、その未来のいつか、彼女が同じ言葉を同じ真実感にあふれて述べることがあるうるとしても?(中略)
「ほかには誰も愛さないわ。永久に二度とないわ」こう言ったときでさえ、彼女は嘘はついていなかった。時間には矛盾がある、それだけのことである、それは数学上の点には存在しない矛盾である。

 そして、裏切られた(と思った)とき、彼は嫉妬にさいなまれる。これも同じように私に訪れた。

 ‥‥一日に五十度も、そして夜半に目をさませばたちまち、幕が上がって芝居が始まる。いつも同じ芝居、恋のたわむれをしているサラァ、わたしと彼女とがしたのと同じことをしているXとサラァ、彼女特有の仕方でキスをするサラァ、性のおこないのなかで身を弓なりにそらせ、苦悶に似た叫びを口走っているサラァ、歓喜に身をゆだねたサラァ。夜、わたしは早く眠ろうとして薬をのむ、だがわたしを朝まで眠らせておく薬はみつからなかった。ロボット(引用者注:ロンドンを襲うV1号)だけが日中の気紛らせだった。沈黙と破壊とのあいだの数秒間だけが、わたしの心からサラァを拭き消した。三週間たっても、妄想は初めの頃と同じ明らかさ頻繁さで現れ、それが現れなくなる時がくるという理由はなさそうに思われたので、わたしは本気で自殺のことを考えるようになった。

 だが、サラァは裏切っていなかったことを主人公は知る。彼女は爆撃にあった彼の生存を願って、神と「取引」をしたのだ。彼を生かしてくれたら、彼のことをあきらめる、と。そして、死んだと思った彼が生きていたので、その約束を守ろうとしたのだ。彼は彼女との関係を復活させようとする。彼女は迷い、結局、風邪をこじらせて死んでしまう。

 サラァと神との約束が、単に彼女の妄想にすぎないとしたら、この物語は思い込みの悲劇で終わってしまう。しかし、爆撃のときに主人公が死んだとサラァが思い違いをしていただけなのか、主人公は本当に死んでしまって生き返ったのか、そこは明確になっていない。というのは、サラァの死後、奇蹟のようなものが起こるのである。主人公の依頼でサラァの調査をしていた探偵の子供が病気になるが、サラァの蔵書の一冊(子供時代の本)を媒介として快方に向かう。サラァの訪問を受けていた無神論者の頬の痣が、彼女の遺髪によって小さくなる。神はそのような行いによって、サラァを、そして主人公を信仰へと導こうとしているのか。これはそういう物語なのか。

 奇蹟なんぞはないのだというのであれば、単に女の狂信のために振り回された男の物語でしかなくなる。しかし、奇蹟が、思わせぶりではあるとしても、起こったことになっているのであれば、作中人物がどんなに苦悩しようとも、無神論者である私たちには嘘っぽく思えてしまう。この作品を読んで感じる中途半端さは、そこから来ているのであろう。

 ところで、失恋物語としては、主人公の場合は私よりましだったと思う。X=彼の恋敵は神であったのだから、かなわないのが当然ではないか。Xが人間の男であったなら、物語にはなりはしない。単に乗り換えられたにすぎないのだから。

 もしかして、そういうことさえも、何かの配慮が働いているということがあるのだろうか。ある男の不倫相手が、その男を振って別の恋人を作り、しかもそのことをその男に知られてしまう、というようなことが。もし神がそれらを仕組んだのであれば、一体何のためなのだろう。神の意思は私たちには計れないのだろうか。しかし、私たちが壮大な建物を構成する一つのレンガにすぎなくとも、建物がどんなものかを知っていれば、重みを少しは耐えやすくなるというものではないか。それくらいのことはしてくれてもいいはずだから、問うことは無意味ではない。人生に対する(人々とは違った特殊な)見解をその男に持たせるため? そんな下らぬことのために、神が大げさに力を使ったりするとは思えない。その女性を罰するため? それはありうる。彼女だけでなくその男をも罰するつもりなのだろう。しかし、婚姻という人間の作った制度を守ることに神が助力するだろうか。神が作って人間に守らせているのなら別だが。だとしても、制度を守るのなら、それを破らせて罰するより、破らないようにさせる方がいいのに決まっている。だとすれば、罰すること自体が目的なのだろう。でも、何のために?

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