京の辺境
今どき近松秋江の小説を読む人はあまりいないだろうが、嫌われているにもかかわらず想う女を求めてしつこく訪ね歩く痴愚の有り様を自ら描く「私小説」を、あざ笑う気になれないのは私だけだろうか。
秋江の『狂乱』(1922年)に、主人公が女の居所を求めて「木津で、名古屋行きに汽車を乗り換へ」て行くという記述があり、童仙房や鷲峰山の地名が出て来る。女が療養していると聞いた山科近在を尋ね歩いても見つけられなかった主人公は、親類の元にいるという話にわずかの望みをつないで、「南山城は大河原村の字(あざ)童仙房といふ處」まで行こうとするのだが、大河原の駅で下車して村役場で聞いてみると親類の姓の者は村にはおらず、隣村の聞き違いではないかと言われる。村役人によれば「童仙房といふ處は、此の大河原村の内であっても、こゝから馬車も通わぬ険悪な山路を二三里も奥に入って行かねばならぬ」し、隣村というのも「やっぱり鷲峰山といふ高い山の麓になってゐるので、そこまで入って行くには、どちらから行っても困難であるが、まだ此處から行くよりも、こゝから三つめの停車場の加茂から入っていった方がいゝが、それでも五六里の道である」。主人公は教えられた通りに加茂まで行って、駅前にいた車夫を雇おうとすると、「泥濘(ぬかるみ)が車輪を半分も埋めるので、俥(くるま)が動かない、荷車なら行く」と断られる。主人公はなおも諦め切れずに通りかかった荷車に頼んで乗せてもらうことにしたが、結局は断念する。
私の持っている古い登山ガイドブック(1971年刊)には、童仙房も鷲峰山も載っている。ハイキングコースとして紹介されているのだから、近松秋江が行きそびれたのも無理はない。ただし、現在では行こうと思えば車で行けるようになっている。
童仙房の紹介サイトには「明治維新を迎えた京都では、東京に遷都されることで政治的な地盤が低下し、食料が手薄になるのでは、という危機感があったようです。それとともに禄を失った氏族の救済ということもあって、目を付けられたのが童仙房の農地開拓。当初の計画にあった士族の転入は取りやめになったものの、京都市内や郡内の有志を募って、明治4年には136戸が移住しました」とある。また「童仙房は京都府相楽郡南山城村の北部に位置し、大字童仙房を形成していて、21の小字があります。関西本線大河原駅より西北8kmにあり、標高500m内外の高原地帯であり、急峻な村道を唯一の交通路にしています」とあり、不便さはあまり変わっていないようだ。この地域も過疎化から免れていないはずだが、現在でも66戸256人が住んでいるとなっている。
私は童仙房に一度車で行ったことがある。名前にひかれたのと、ガイドブックに「訪れる人もまれな静寂境」とあったので桃源郷のようなところかと行ってみたのだ。しかし、とにかく道が狭く、車を停めておけるようなところも見つからず、時間もなかったせいで通り過ぎただけで帰ってきてしまい、これといった印象は残っていない。ガイドブックには「開拓の行われた順に1番から8番まで8部落ある」とあったが(サイトの略図では、1番3番がなく9番がある)、集落らしきものは見なかったように思う。ただし、記憶は不確かである。
『狂乱』では鷲峰山には「しゅほうざん」とルビが振ってあるが、ガイドブックでは「じゅぶせん」になっている(ウィキペディアでは「じゅうぶさん」ないし「じゅうぶせん」としている)。『狂乱』では「そこに峙(そばだ)ってゐる鷲峰山は標高はやうやく三千尺に過ぎないが、巉岩(ざんがん)絶壁を以て削り立ってゐるので、昔、役(えん)の小角(をづぬ)が開創したといはれている近畿の霊場の一つである」と紹介されている。鷲峰山には金胎寺があり、有料で行場巡りができる。私が行ったときには時間が過ぎていて入れず(入場は午後二時まで)、翌日出直した。谷へ下ってまた登るコースである。下りはそれほど困難ではなく、降りた流れには二つの滝がある。登りは岩場になっていて、小鐘掛と名付けられた場所では足場が届きにくく苦労する。平等岩の鎖場は平らな岩の壁になっていて足がかりがなく腕力で登らねばならない。見晴らしのよい岩の上では青年が尺八を吹いていた。時代離れした風雅な光景に感じ入る。さらに登りは続いて入口に戻る。
今では金胎寺のすぐ下まで車道が通じている。それでも、辺鄙であることには変わりない。鷲峰山も童仙房も、東西に走る国道307号線と163号線にはさまれてはいるのだが、つなぐ山中の道は狭い。近い鉄道はやはり関西本線である(163号線と並行している)。
近松秋江の求める女の母親たちが、女の行方をはぐらかすために持ち出す場所としては当を得ている。さすがの秋江も行きかねたのであるから、母親たちの思惑は成功したと言えようか。