趣味としての登山
どんな本を読むかを決めるには、伴侶とか職業を選ぶときほど慎重になる必要はないだろう。せいぜい今夜の夕食に何を食べるかを決める程度の考慮ですむ。料理がまずけりゃ残せばいいように、本だって面白くなければ読むのをよせばいい。しかし、幾ばくかのカネを払い、時間をかけて(たとえ暇潰しでも)読むのだから、出来れば面白い本に当たりたい。だから、たいていは新聞などの書評を頼りにする。友達や知人の鑑識眼に信頼を置けるのであれば、既に読んだ人から感想を聞くのがいいかもしれない。
予備知識なしに本屋の書棚で面白い本に出会うということはめったにない。膨大な本の中からたまたま手に取って、ぱらぱらと読んでみて面白そうだからと買って、読み通したら本当に面白かったという経験を持つことができるのは幸福なことである。つい最近、そういう本の一冊を見つけた。
さて、これだけ長い前置きをしておいて、書いておきたいのは読書のことではなく、登山のことである。ジョン・クラカワーの『エヴェレストより高い山』(森雄二訳、朝日新聞社、2000年)という本を読んだ。原著は1990年出版であるので、かなり以前の本だ。副題が「登山をめぐる12の話」とあるように、雑誌に掲載されたものを集めたものだが、最後の一つは書き下ろしである。
語られていることの本筋はもちろん面白いのだが、クライミングについての私の断片的知識が補充されることも興味があった。フリークライミングのことや、難度によって段階づけられた岩場のことはある程度知っていたが、岩壁というほどのスケールはない程度のちょっとした岩を登る「ボルダリング」というのは知らなかった。そういえば、以前、善防山と笠松山の間の公園の、石が切り出されたあとらしい小さな岩壁に一人で取り付いている人を見たことがあった。また、この間、北山公園に行ったら、池の傍の岩を登っているグループがいた。知らない人には奇異に見えるのだろう。苦情が森林公園事務所に寄せられて、一時自粛するようなことがあったらしい。
二本のピッケルとアイゼンを使って登る技術を、クラカワーは「フロント・ポインティング」と言っている。こういう登攀については、氷瀑を登るテレビ映像を見たことがあった。この技術を使えば従来登るのが困難であった氷壁を登ることができる。むしろ、氷が厚くついていた方が登りやすくなる。困難な山を短時間で登れるようになったのはこの技術のおかげなのだろう。
戸棚の中の積み重ねた本の中から、『山への挑戦』(堀田弘司、岩波新書、1990)という本を見つけたので読み直してみると、フロント・ポインティングというのはアイゼン(正しくはシュタイクアイゼン、英仏ではクランポンというらしい)の蹴爪を使う技術のこととある。クラカワーがフロント・ポインティングと言っている技術は、ピオレ・トラクションと書いてある。いずれにしろ、そういう知識は完全に忘れていた。これらの技術は私には無縁であった。
クラカワーの本を読んで、私ごときが山について語るのは僭越であるような気になった。クラカワー自身も認めているように、彼は一流の(あるいは超一流の)クライマーではない。それにしても、私などとは隔絶している。クライマーの階層というものがあるとすれば、私などのように氷雪の登山もロッククライミングもやらない人間は最下層に位置する。そもそも私は登山に適した人間ではないのかもしれない。登山というものにこだわっているのは、他の運動とは違って特殊な能力が必要ではないと思えたからだ。ただ歩けばいいのだから。技術が必要であるならば、私はそれを使いこなす能力に欠けているから、そういう山には登らない。
登山が好まれるのは目標がはっきりしているからだろう。頂上を踏む、それだけのことである。危険ということに魅力を感じて山に登る人もいよう。風景の美しさや日常からの隔絶を求めて山に来る人もいるだろう。だがそれは副次的なことだ。それらは山以外でも得られるのだから。山の特性は、頂きがあるということだ。そして、山はいたる所にあるから、各人の能力や好みや都合によって、目標を選べる。競うこともできるが、一人で達成感を味わうこともできる。誰でも参加できて、それぞれの能力に応じて目標を設定できて、対戦相手や審判がいなくても成果が明確というような活動の典型が登山である。暇な中高年(私もその一人)が熱中するのも無理はない。
頂上に達するにも様々な程度があるが、命を賭けてまで目指すつもりはない。とはいえ、整備された登山道であっても危険なところはある。ましてや、一般の登山道を外れてしまえば、道に迷うか、崖から転落するようなことになりかねない。私のような危険回避的な人間でさえ、山で危険な目にあうことは覚悟しなければならない。この前、剣岳に登ったときも、ひょっとしたら死んでいたかもしれないということが二回あった。剣御前小屋を出たところで間違えて剣御前の稜線の道を行ってしまった。黒百合のコルの手前で稜線は切れ落ちていて、道は途切れていた。しかし、時間をとられてあせっていた私は、ルートはあるはずだからとその崖を降りる気になった。やめたのはあまりに急峻だったからだ。道を戻って探すと少し手前に降りる道があった。それから、頂上の手前で、外人男性と日本人女性のカップルを追い越してすぐに、道を見失った。すぐ上が稜線らしいので、登ってみることにした。崩れやすい急斜面で、登りかけると、こぶし大の石が落ち、腕に当たってかすり傷をつけた。不安になったそのとき、稜線にさっきの外人が現れて、道はこっちだと教えてくれた。四、五メートルほどの斜面を何とか登って登山道へ戻った。
剣岳の登山道自体にもこわく感じるところがいくつかあった。高いところに登るというのに、私は高所恐怖症気味なのである。奥穂西穂間の縦走をしたいとずっと思っているが、こわくて行けない。戸隠山の「蟻の戸渡り」という岩稜は四つんばいになって越した。向うから来た女性はゆうゆうと歩いて通ったというのに。高校生の頃、南禅寺の境内の水道橋の上を歩くのをこわがって、すいすいと渡っていた同行の女の子たちに笑われたことをそのとき思い出した。
クラカワーは別なところで、危険だけれども山へ登るのではなく、危険だから山へ登るのだと書いていた。私にはそういう意識はない。山で死ぬなんてまっぴらごめんである。私は一人で山へ行くことがほとんどだが、誰もいない山の中で、ここで足でも折って動けなくなったらと、ふと思うことがある。しかし、危険ならば車の運転だって危険なのだ。危険はできるだけ避けるだけのことだ。
ではなぜ山に登るのかと問われれば、趣味だからとしか答えようがない。それを専らにするのではないが、それなしではいられない。仲間と親しむのもいいし、実績を競い合うのもいい。景色を楽しむのもいいし、都会の喧噪をさけるのもいい。求めて登るのもいいし、捨て去るために登るのもいい。しかし、登山にはそれだけではない何かがある。何か不健全なものがある。それは趣味一般のマニアックさの中に含まれているもののようでもあるし、登山に独特であるようでもある。それがどんなものなのか、はっきりと言い表せないのだが、何か、限りなく悪意に近いようなもの。それは私の中にもある。