虚空へ
たまたま『エヴェレストより高い山』(1990年、森雄二訳、朝日新聞社、2000年)という本を読み、その解説を見ると、著者のジョン・クラカワーが、1996年のエヴェレスト大量遭難を描いた著書『空へ』(1997年、海津正彦訳、文藝春秋社、1997年)で有名であることを知った。遭難者の中に日本人の難波康子がいたことから日本でも事故のことが話題になったようだ。『空へ』も読んでみると面白かった。原題は“Into Thin Air”である。インターネットで読んだ感想文の中に、「空へ」では‘thin’の意味が表現されていないというのがあった。そこで「虚空へ」という題を思いついたのだが、どうだろうか。
『空へ』は、著者が当事者であったため、叙述の客観性が疑われているらしい。『空へ』の中でクラカワーが批判したガイドのアナトリ・ブクレーエフは、『デス・ゾーン8848M』を書き、反論している(1997年、G・ウェストン・デウォルトと共著、鈴木主税訳、角川書店1998年)。他にも発表された資料があるようで、遭難を生き延びたベック・ウェザーズの書いた『死者として残されて』が訳されている(2000年、ステファン・ミショーと共著、山本光伸訳、光文社2001年)。
1996年5月10日、エヴェレストの東南稜を三つのパーティが頂上目指して登っていた。ロブ・ホール率いるアドベンチャー・コンサルタンツ隊(以下AC隊)の15人、スコット・フィッシャー率いるマウンテン・マッドネス隊(以下MM隊)の15人、台湾隊の3人、計33人。AC隊とMM隊は客を募集してガイドする、いわゆる営業登山隊である。
登頂の過程で、三つのパーティのメンバーは登高速度の違いによって入り交じりバラバラになった。AC隊の顧客5人は登頂を諦め、4人はサウス・コルの第4キャンプに戻り、べック・ウェザーズはロブ・ホールが降りて来るのを待つために「バルコニー」と呼ばれる場所に留まった。登頂した者のうち、MM隊のガイドのアナトリ・ブクレーエフが最初に、続いてMM隊の顧客のマーチン・アダムスとAC隊の顧客のジョン・クラカワーが下山してサウス・コルの第4キャンプに着いた。その時点で19人が嵐の山に残っていた。AC隊の3人(ホール、ハリス、ハンセン)はまだ頂上付近におり、MM隊の2人(フィッシャーとシェルパ)と台湾隊の3人(隊長高銘和とシェルパ2人)が下山しつつあった。またAC隊の3人とMM隊の8人の計11人(シェルパ2人を含む)はかたまってサウス・コルのすぐ上まで降りてきていた。
サウス・コルまで何とか降りた11人はテントが見つけられず吹雪の中でビバーク、うち6人は深夜にテントにたどり着く。残されたのは、MM隊のサンディ・ピットマン(女性)、シャーロット・フォックス(女性)、ティム・マッドセン(彼は動けたが、恋人のフォックスの元に留まった)、AC隊のベック・ウェザーズと難波康子の5人である。テントにたどり着いた者の知らせにより、ブクレーエフが嵐の中を救助に向かい、まずフォックスをテントまで運び、引き返してピットマンを運んだ。マッドセンはピットマンを運ぶブクレーエフの後に従った。ウェザーズと難波康子は絶望的であるとして残された。
しかし、翌朝、AC隊の顧客であるスチュアート・ハッチンソンと4人のシェルパが見つけたときには、二人は氷づけになっていながらまだ生きていた。ハッチンソンとシェルパは相談のうえ、彼らをそのままにしておくことにした。彼らが生き延びるとは思えないし、彼らを下山させようとすれば二重遭難の危険がある。ところが、その日(5月11日)の夕刻、ウェザーズは独力でテントまで戻り、次の日(5月12日)、救助者に助けられながらウエスタン・クウムの第2キャンプまで降りた。高度6,500メートルのウエスタン・クウムからは、ネパール軍ヘリコプターの決死的な救助によりカトマンズの病院に運ばれた。結局ウェザーズは生き延びたが、右手全部と左手の多くを失い、鼻の再生手術をした。
AC隊の顧客ダグ・ハンセンは登頂で力を使い果たしてしまって下山できなくなり、ロブ・ホールとガイドのアンディ・ハリスは彼を助けようとして殉じた。頂上付近の3人の様子はホールからの無線で伝わったが、彼は南峰までおりたところで動けなくなり、翌日(5月11日)の夕刻には無線も途絶えた。ホールはハリスとハンセンの姿を見失っており、二人の行方は分らない。後にホールの死体だけが見つかった。
シェルパのロプサンと一緒に下山していたスコット・フィッシャーは途中で動けなくなった。そこへ台湾隊の3人が降りてきた。台湾隊のシェルパ2人は高銘和を置いて下って行った。ロプサンは独力ではフィッシャーを下ろせないので、しばらくして救助を求めて1人でサウス・コルへ下った。翌朝MM隊のシェルパ2人と台湾隊のシェルパ1人が2人を救助に向かい、高銘和だけを連れて下りた。フィッシャーはまだ生きていたが絶望と判断された。夕刻、ウェザーズの生還によって希望を持ったブクレーエフは、フィッシャーの救助のため単身出かけたが、見つけたときには彼は死んでいた。
ブクレーエフは2人の顧客を助け、フィシャーを助けようと努力した。しかし、クラカワーは『空へ』の中で、ガイドとしての役目を果たしていなかったとブクレーエフを非難した。ブクレーエフの『デス・ゾーン8848M』はその反論として書かれている。クラカワーの指摘に対するブクレーエフの説明は、私の見るところ、説得力に欠けている。確かに、ブクレーエフが「顧客たちに先立って一目散に降りて」いかなかったとしても、果たして状況を変えられたのか分らない。しかし、もし彼が幸運にもサウス・コルで2人の顧客を助けることができなかったら、それまでの彼の行動は釈明のしようがなかったろう。ウィザーズは書いている。「もしあの晩、それっきり彼がテントから出てこなかったら、間違いなく彼は登山界から追放されていただろう。」ブクレーエフにもそれは分かっていた。だから彼は救助に必死になったのだ。サウス・コルでの彼の救助活動が彼への非難を帳消しにしてくれたのである。
この頂上アタックにおいて、AC隊の隊長ロブ・ホール、ガイドのアンディ・ハリス、顧客のダグ・ハンセン、同じく難波康子、MM隊の隊長のスコット・フィッシャー、計5人が死んだ。MM隊の犠牲はフィッシャー一人だけであった。顧客は全員無事であり、しかも全員エヴェベレストに登頂した。ブクレーエフにしてみれば、非難される覚えはないと思うであろう。フィッシャーの死についてブクレーエフには直接の責任はない。しかし、登山中のブクレーエフの行動のせいで、フィッシャーに負担がかかっていたと思わせるようなところがある。フィッシャーはブクレーエフを御しかねていたのではないか。とはいえ、今さらここでこんなことを言ってみても始まらない。ブクレーエフは1997年にアンナプルナで雪崩によって遭難死した。
ところで、サウス・コルに取り残された4人(ティム・マッドセンを除く)のうち、助けられた2人はどういう基準で選ばれたのかということに、私は疑問を持った。女性が優先されたのだろうか。でも難波康子は選ばれていない。人種的な偏見が作用したのではないかという不穏な考えに傾きかけたとき、単純な事実に気がついた。ブクレーエフは自分の顧客を救ったのである。難波康子とウェザーズはAC隊に属し、ブクレーエフのMM隊の顧客ではない。2人が死にかけていたことは選択をたやすくしたであろうが、2人を助けることはAC隊のガイドかシェルパの責任であり、自分の責任ではないとブクレーエフは思っていたであろう。
MM隊の2人を助けてブクレーエフは力つきた。ハッチンソンもAC隊の2人をそのままにした。AC隊の2人が死んでいれば、仕方のなかったことだと、誰もが思ったろう。ところが、2人のうちのウェザーズは生還した。となると、難波康子を放置したことは正しかったかという疑問が起こって来る。
誰もそのことをあからさまに問いはしない。しかし、ウェザーズは書いている。「置き去りにされたことについて私自身は恨んではいない。だが、康子をキャンプまで連れ戻すのはどれほどたいへんだったというのだろうか?彼女はあんなに小柄だったのだ。せめてテントの中で死なせてあげてかった。」また、クラワカーも書いている。「難波康子が死にかけて<サウス・コル>に横たわっているとき、わたしは、そこからわずか一〇〇メートルほど離れたテントの中で、彼女の苦闘について何も知らず、ひたすら己の身の安全を気遣いながら体を丸めていた。わたしの心に残るこの汚点は、悲しみに暮れ自責にさいなまれる数カ月を過ぎても、洗い流されるというようなものではない。」
『空へ』も『デス・ゾーン8848M』も、難波康子の死が隠されたテーマになっている。この事件の一番の急所は彼女の死に他ならないからだ。両書とも彼女の死がやむを得なかったことを納得させたがっているかのようである。登頂後の下山において力を失った難波康子を、クラカワーは次のように描写している。
<サウス・コル>まであと一五〇メートルほど――頁岩の急斜面が雪面に接して傾斜が緩むあたりで、難波康子の酸素がなくなり、小柄な日本人女性が座り込んで動かなくなった。
「少しでも楽に息ができるように、酸素マスクを外してやろうとすると」と、マイク・グルームは言っている。「また付け直してしまう。酸素がなくなったら、マスクを付けてもじつは息が苦しくなるだけだ、といくら説得しても信じてくれない。そのころには、べック・ウェザーズも衰弱して自力では歩けないくらいになっていたので、わたしが肩を貸してやらなければならなかった。さいわい、そのあたりでニールが追いついてきた」ニール・ベイドルマンは、マイク・グルームがウェザーズで手いっぱいなのを見て、難波康子を――彼女はフィッシャー隊の顧客ではなかったけれど――引きずって第四キャンプのほうへくだっていった。(『空へ』)
『デス・ゾーン8848M』の中では、この場面は、マイク・グルームにはぐれた(置き去りにされた、と言いたいらしい)難波康子をニール・ベイドルマンが助けたように描かれている。そして、このことが遭難の一因のように書いている。
マウンテン・マッドネス隊の客たちが下山の途中で危険にさらされ、かろうじて生命をとりとめたことには、二つの要因が大きく影響していると思われる。まず頂上を離れるのが遅かったこと、そして下山する途中でいくつかの問題にぶつかったことである。なかでも大きいのは、ロブ・ホール隊の客、難波康子を助けようとして、貴重な時間をとられてしまったことだろう。難波康子は固定ロープにつかまってよろめきながら進んでいたものの、ほどなく第四キャンプの上方で倒れてしまった。頂上にいた時間と、彼女を介抱していた時間とを合わせると、マウンテン・マッドネス隊のクライマーたちは一時間以上も失っていたことになる。(『デス・ゾーン8848M』)
しかし、そのことを強調するのであれば、もしそのときそこにブクレーエフがいたなら、という疑問が強まるのである。様々の要因の中のたった一つが違っているだけで結果が大きく変わってしまう可能性があった。だが、その一つだけを取り上げて原因とすることはできない。現に起こったこと以外の多様な可能性の中で、誰もがある役割をになうことができたとも言える。難波康子の死を明確に片付けてしまうことは難しい。それゆえか、両書とも彼女についてのエピソードで叙述を終わらせている。
「みんな、すすり泣いていました。誰かが『こんなところで死なせないでくれ!』と叫んでいました。動きだすなら今だ、ということははっきりしていた。わたしは康子を立たせようとしました。彼女はわたしの腕にすがりついてきましたが、弱っていて膝から下がどうしても伸びません。わたしは彼女を引きずりながら一、二歩進みましたが、すぐに握力が緩んで、彼女は剥がれ落ちていきました。わたしは、そのまま進むほかありませんでした。誰かがキャンプ地まで行って助けを呼ばなかったら、全員死んでしまうのです」
そこでベイドルマンはいっとき間を置いた。「でも、わたしは、康子のことを考えずにはいられません」抑えた声で語をついで言う。「彼女は、あんなに小さかった。今でも、彼女の指先がこの二頭筋をくるみながら滑っていって、離れていく感じが残っている。それっきり、わたしはもう振り返りませんでした」(『空へ』)
難波賢一は、黙ってじっと話を聞いていた。ブクレーエフがもう何も言えなくなると、彼は日本語でこう言った。自分は誰を責めるつもりもない。妻は登山家であり、エヴェレストに登ることを夢見ていた、そして実際に成功したのだ、と。そして、ブクレーエフに礼を言った。ブクレーエフが一年前に他のクライマーたちを助けてくれたことにたいして、さらに自分の行けないところへ行って、無防備なまま野ざらしになっていた妻を葬ってくれたことにたいして。それから二時間ほど、二人は話しつづけた。ときおり、それぞれの目に涙が浮かんだ。やがて日の光も薄れかけてきたころ、ブクレーエフは別れを告げ、再び山に向かって歩きだした。(『デス・ゾーン8848M』)