トム・ジョードの帰宅
『怒りの葡萄』(大久保康雄訳)を再読したとき、前に読んだときにもそうだったのだが、些細なことながら辻褄のあわないような部分があるのが気になった。小説の最初の方、トムが仮釈放されて家に帰ってきたときの描写である。家は空き家になっていて、トムは家族が移っていると教えられたジョン伯父の家に行く。トムがジョン伯父の家に着いたときに、ジョン伯父とルーシィ(妹)とウィンフィールド(弟)はサリソウに荷物を売りに行っていなかった(第八章)。時間的にはっきりしないのだが、たぶんその日のうちに、荷を売るためにトラックに積み込んで、父親、ジョン伯父、ノア(兄)、アル(弟)、ルーシィ、ウィンフィールドがもう一度出かけた(第十章)。トラックが戻って来たときのルーシィ、ウィンフィールドとトムのやりとりの描写は、まるでトムが刑務所を出てから初めて会ったようである。二人がサリソウから帰ってきたときに既に会っているはずなのに。それだけなら何か理由がつきそうだが、おかしなところはあと二点ある。まず、以下の描写。
トラックが重い道具類や寝台やスプリングや、その他売れそうな家財道具を全部積み込んで走り去ったとき、トムは、そこらあたりをぶらつきまわった。納屋へ行き、つぎには、がらんとした厩に立ちより、それから道具置き場のさしかけ小屋にはいって行って、とり残されたガラクタを蹴とばしたり、こわれた刈りとり機の歯を爪さきでころがしたりした。彼は自分の記憶にある場所を回って歩いた――つばめが巣を作っている赤土の土手。豚小屋の向こうにある柳の木。二頭の小豚が、囲いのなかで鼻をならして呼びかけてきた。黒豚どもは、気持ちよさそうに、ひなたぼっこをしていた。(第十章)
まるでしばらく離れていたわが家をなつかしむようである。しかし、トムがいるのはジョン伯父の家なのだ。トムによれば「あそこにゃ、部屋が一つと、さしかけ小屋の料理場と、ほんの小っちゃな納屋があるだけ」(第八章)なのだが、この描写はもっと大きな家屋を思わせる。
もう一点は家財道具を売りに行ったトラックに乗っているジョン伯父の描写である。彼は運転するアルと父親(ジョンの兄)とともに前部の席(本来は乗用車なのだが、改造されて後部は荷台になっている)にすわっている。
そして父親とジョン伯父は、家族の長らしく、運転手の横の名誉の席にすわっていた。(中略)もしジョン伯父が五十歳という年齢ではなく、またそれゆえに自然と認められた一家の支配者のひとりでもなかったら、彼は、運転手の横の名誉の席にすわることを好まなかったであろう。(中略)一家の支配者のひとりである以上、彼は家族を指導しなければならなかった。だからこそ、いま運転手の横の名誉の席にすわらなければならなかったのである。(第十章)
父親がいるにもかかわらず、ジョン伯父のいる位置を強調するのは不自然な感じである。むしろ、父親が乗っていないので、ジョン伯父がその場所にいなければならないかのように描かれているのだ。
以上の、やや薄弱ではあるが、読者としての疑問という正当な根拠から、私は次のように推察する。作者の最初の構想では、トムが帰ったのは空き家になっていない自分の家であり、そのとき、家には祖父、祖母、父親、母親がおり、ジョン伯父、アル、ルーシィ、ウィンフィールドはトラックに乗って家財道具を売りに出かけていた(ノアについてはどちらでもよさそうだ)。だからこそ、トムはなつかしそうにわが家をめぐり、ジョン伯父は責任者としてトラックに乗っており、帰ってきたルーシィとウィンフィールドは久しぶりに兄トムと会ったのである。
完成された作品では、空き家になったわが家と、浮浪しているミューリーのエピソードがあって、その後にジョン伯父の家に行くことになっている。たぶん、それらが後から挿入されたことによって、トムの帰還の状況が書き換えられたのだろう。
作家は作品に手を入れるとき、全面的に書き換えようとしないで、既に書きあげた部分をできるだけ利用しようとする。その方が経済的であるし、また、うまく書けた部分は、前後の関係からみてそぐわないようでも、何とかして残しておきたいと思うものだ。だから、結果的に継ぎ目のようなものができて、ぎこちない感じになってしまうこともある。たぶん、これもそうなのだろう。