井本喬作品集

ロシアン・ルーレット

 つまんないのよ、何もかも‥‥

 ラジオから流れてきた島倉千代子の歌う古い歌の一節が彼の心に共鳴を起こした。その投げやりな、虚無的とさえいえそうな文句は、泣き虫と称せられた彼女にはふさわしくないはずなのに、不思議と違和感がないのだった。それは彼の気分のゆえかもしれない。彼は今の自分の状況に絶望していた。むろん誰のせいでもない、お前のせいだ、お前自身の。不遜と独善と不寛容でどうしようもなく駄目にしてしまったお前の人生。今さら取り返しようがない。今からやり直すことなどできない。後悔先に立たず。お前のつぎ込んだものしかお前は得られない。

 彼の心は苦々しい思いで一杯だった。それでも、いや、それだからこそ、彼は救いを求めてあがいた。救いは他所にはなかった。あるとすれば、ここ、この絶望のただ中に、だ。

 この人生に何の未練もなければ、好きなように使うことができる。どんなことでもできるだろう。

「君はよほど殺人事件が好きなんだね」

 仮屋俊一は言った。私は応酬した。

「昔からそうだったんじゃない。君と知り合ってからだ」

 仮屋は苦笑いし、私の話を促した。私は事件のあらましを説明した。

「新聞やテレビの報道で大体は承知だろうが、重複をいとわずに私の知りえた限りのことを話そう。事件が起こったのは先週の木曜日、午前九時半頃、私の勤めている企業の本社ビルでのことだ。その日の午前九時過ぎから五人の男が小さな会議室でミーティングをしていた。習慣に従って、女子従業員がコーヒーを出した。そのコーヒーを飲んだうちの一人が苦しみだし、後に死亡した。被害者の飲んだコーヒーから青酸化合物が検出された。被害者は舞田という名。他の四人は、林、三浦、川北、武井。この四人がはっきりと証言しているのは、コーヒーが出された時およびその後に毒物が混入されたのではないということだ。死者も入れて五人がテーブルを囲んでいたのだから、そんな機会はなかった。会議室が狭いので、運ばれてきたコーヒーは入口近くにすわっていた者から順繰りに回されていった。その際も、書類を汚したりしないように皆がコーヒーカップに注意していたので、誰かが変な振る舞いをしたなら気づいたはずだ。当然、コーヒーを入れ、それを運んだ女子従業員にも嫌疑がかかった。しかし、彼女には毒の入ったカップを舞田に渡すということはできなかった。カップは適当に回されたので、誰がどのカップに当たるかは分からなかった。むろん、五人のうちの誰かを殺そうとして失敗した(あるいは偶然に成功した)ということも考えられるし、五人のうちの誰でもいいから一人を殺そうとしたのかもしれない。いずれにしろ、彼女にはそんなことをする動機が見当たらない」

「順番にカップを回していったのなら、誰がどのカップを使うかは予想できたのではないか」

「順番に回したわけではない。テーブルの端にカップをのせた盆を置き、近くの者から遠くの者へ手渡ししたんだ。少なくとも三人が組まなければカップを思うように配分することは出来なかっただろう」

「毒はいつどのように入れられたのか分かったのかい」

「コーヒーはインスタントコーヒーを湯にとかしたものだ。湯は水道の水を電気ポットで沸かした。残りのインスタントコーヒーには毒物は見つからなかった。砂糖は小袋に、ミルクはミニ容器に入ったまま配られたが、袋や容器に残ったものからも毒物は検出されていない」

「インスタントコーヒーは粉末なのか」

「粉末ではなくて、フリーズドライ製法による小塊状のものだった。その中に固形の青酸化合物が入れられていたのではないかと警察は考えているようだ。たぶん目立たぬように着色されて。しかし、このやり方ではスプーンが毒物をすくうかどうかという不確実性はある。ところが、インスタントコーヒーは残量が少なくて、五人分を作るためには新しいビンを開けなければならなかった。毒物は確実にコーヒーの中に入ったわけだ」

「とすると、この殺人事件は誰か特定の者を狙ったわけではなく、誰でもいいから一人だけ死ぬことが目的だったのか」

「少なくともそのときコーヒーを飲んだ五人のうちの誰かが狙われたのは間違いない。朝から会議があることは以前からの予定だったし、コーヒーの置いてあった湯沸場はオープンだから誰でも細工はできた」

 仮屋は考え込んだ。私は彼の邪魔はせずに待った。

「被害者が、あるいは被害者だけが狙われていたとは言えないとしても、被害者も狙われていたのだとは言えるだろう。彼が殺された理由は分かったのかい」

「それ以上のことが分かっている。警察も動機の面から犯人を割り出そうとした。ところが、確かに動機は見つかったのだけれど、殺されてもおかしくないのは死んだ男だけではなかった」

「動機がある人間が複数いるのか」

「動機があるのは一人なんだ。複数なのはその対象なんだ。五人の中の一人、林という男なのだが、彼が他の四人すべてに対して動機があった。殺された舞田と林は仕事の上でライバル関係にあった。この春の人事でどちらかが主任になるだろうといわれていた。結局主任になったのは舞田なんだが、この人事については奇怪なうわさが立った。林が取引上で個人的な不正をやっていて、それを舞田が上司に告発したというのだよ。その噂が事実であったことが今度の事件の警察の調査で明らかになった」

「林は告発したのが舞田であることを知っていたのだろうか」

「直接的に聞かされていないとしても、知っていただろうね。次に三浦は他の四人の上司なのだが、なぜか林とは合わなくて、ことごとく二人は対立していた。林は三浦の能力を疑い、指示を無視することが多かった。三浦がこの分野を担当するようになったのは比較的最近で、業務については林の方が詳しい。だから林に対してあまり強いことは言えなかったのだが、上司の権威を傷つけるような林の言動は常々苦々しく思っていた。人事異動の際に舞田の告発を取り上げて騒ぎ立てたのは三浦の復讐だったようだ。三浦の段階で握り潰すか、何らかの処置を取って穏便に済ますこともできたらしい。最近は三浦の林に対する態度は強硬になってきていた。上司であることを傘にきて、人前で罵倒することはしょっちゅうだったらしい」

「林は反発しなかったのか」

「以前の彼なら黙っていなかったろうね。だが、今の立場ではけんかしたところで勝ち目はない。陰にこもったから、憎しみは激しかっただろうな。次に川北だが、林は彼に金を借りていた。林は遊びが派手で、給料だけでは足りなかったようだ。林と川北は以前は仲が良く、二人で一緒に飲んだりしていたが、支払いはほとんど川北がして、しかも度々金を貸していた。たまりかねて返済をせまっても、林は取り合わない。とうとうけんかになり、訴訟沙汰になりかけたんだが、上の方が仲介して、林の給料から毎月いくらかずつ返済することになった。このことも林の評判を落とした一つの原因だ」

「借金はいくらぐらいだったんだ」

「五、六十万というとこかな。さて、最後に武井。彼は最近結婚した。相手は以前は林とつきあっていた女性。林はハンサムだから女性に持てた。相手の女性もなかなかの美人で、二人は相当いい仲だったんだが、林に失点が重なったんで、相手の方が見切りをつけたらしい。林はだいぶ未練があったようだ。しかも、自分が落ち目であることにつけ込んで武井が彼女を奪ったことを怒っていた。林にしてみれば、女性に慰めを求めたいところを、逆に足げにされたのだからね。弱り目にたたり目で、憎しみを抱くのは当然だったろう」

「それでカードは全部揃ったわけか」

「そうだ。犯人が林であるのはほぼ間違いないと思われるのだが、殺人の方法の合理的説明が欠けているのだ。なぜ自分も含めた五人のうち一人だけが死ぬような方法を取ったのか。全員に毒入りのコーヒーを飲ませて、自分だけ助かるというやり方だってあるだろうに」

「その場合は、確実に彼が疑われる」

「そうなのだ。だから考えられるのは、見せしめのための殺人ではないかということだ。死ぬのは一人だが、他の者には脅しになる」

「しかし、脅しであるためには、犯人が誰であるかを示す必要があるだろう。それに、自分が死ぬかもしれぬような方法を取るかな」

「自分だけコーヒーを飲まなければいいんだが。実際は、林もコーヒーを飲んでいるんだ」

「林という男は自殺するようなタイプかい」

「いいや。積極的で、かなりあくどいところもあって、くよくよするようなタイプではない」

「そうだろうな。そんな男が犯罪をするのは自分が生きるためであって、自分が死ぬ場合のことなど考慮に入れるはずがない」

 仮屋は黙って考え始めた。私は冷蔵庫を開け、缶ビールとサラミソーセージを取り出し、机に置いた。

 しばらくして仮屋は言った。

「ロシアン・ルーレットというのを知ってるかい」

「うん、リボルバーの弾倉に弾を一つだけ入れ、弾倉を回し、交互に一回ずつ自分の頭を撃っていくという、あれだろう」

「映画なんかでよく取り上げられるね。今回の事件はあれに似ていないかい。一つの弾丸、一片の毒。弾倉の六つの穴、五つのコーヒーカップ。誰に当たるか分からない」

「林がロシアン・ルーレットをしたというのかい。自分が死ぬか、相手が死ぬか、偶然にまかせたというわけか。自分が死ぬ確率は五分の一。公然と復讐ができて、疑われることはない。しかし、自分の命を賭けてまで復讐しようとするかな」

「自分の未来が閉ざされていて、生きていくことに価値が認められなくなれば」

「それほど自暴自棄になっていたのなら、もっと過激な手段を取るのではないかな。林の性格からして、偶然に頼るよりも確実な方法を選ぶはずだ。それに、捨て鉢な気持ちと犯行を隠すことは矛盾しはしないか」

「必ずしも矛盾しはしないだろう。犯行を隠すことと確実性が矛盾しなければね。性格論からいえば、林の攻撃性は賭博的演出を好むはずだ。彼がやるとすれば、派手に、皆の度胆を抜くようにしたいだろう」

 仮屋は缶ビールを飲み干した。私は不満げに言った。

「どうもすっきりしない」

 先日はお世話になった。いつも君の心遣いには感謝している。

 さて、あの時聞いた事件のことだが、その後何か進展はあっただろうか。小生の解釈に君は納得していないようだったが、小生自身も割り切れない感じがしていた。そして、ずっと考え続けていた。

 ロシアン・ルーレットのたとえが悪かったようだ。しかし、あのたとえについてもっとよく考えてみたら、真実にたどり着いたよ。ロシアン・ルーレットは原則的には一対一の賭けだろう。相手が死ぬか、自分が死ぬか、どちらかだ。でも殺人は相手を確実に死なすことだ。たとえ狙う相手がコーヒーを飲まなくても、相手を死に到らしめなければならない。つまり、誰が毒入りのコーヒーを飲んでも、目的は達せられなければならない。

 被害者の舞田が死んだのは偶然だった。狙われた男を除いた四人のうち誰かが死ぬとすれば、誰が死ぬかは偶然だった。しかし、その死は必然的にある男を犯人と指示する。狙われた男、それは林なのだ。林は犯人ではなく、被害者なのだ。犯人は林を殺せなくとも、殺人犯に仕立てることで破滅させようとしたのだ。

 では犯人は誰か。君から教えられた林と他の四人との関係を検討すれば、誰が林に殺意を抱くかは明白だ。林は女性に持てたそうだ。つきあっている女性の一人が他の男と結婚したからといって、大して打撃にはならないはずだ。逆に、結婚した女性が以前の男に未練を持っているとしたら、どうだろう。その男と自分とが妻によって比較され、妻の心を得られぬとしたら、夫はどんな気持ちになる。ひょっとして、妻が今でもその男と付き合っているとしたら。

 同僚と噂のある女性と結婚する男は、よっぽど強いか弱いかのどちらかだろう。察するに、武井は気の弱い男ではないか。しかも、女性に惚れ切っている。そんな男が絶望し、憎しみを抱いたら、何をしでかすか分からない。

 ロシアン・ルーレットのような勝負は彼にふさわしくないが、自分が死んでも林を犯人にすることができるなら、いわば相打ち、卑劣な勝負だったのだ。

 たかが女性のことで、と君は言うかもしれないが、心情の世界は人を狂わせる。新聞の三面記事や週刊誌を読みたまえ。うんざりするほど実例をあげることができる。ただ、この犯人の独自性にはまいった。いずれ犯人は警察の追求に音を上げるだろう。こんな小細工が通用するはずはない。自分の偏見でしか見ていず、自分の感情でしか判断していないのだから、犯人の思惑は外れるに決まっている。

 もっとも、人間というものはめったに現実に生きることはない。たいていは観念の世界に生きているものだ。

 近い日の再会を期待している。

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