遺伝的『エデンの東』論
『エデンの東』については既に様々のことが語られているだろうから、私が付け加えるようなことはないかもしれない。しかし、この作品(土屋政雄訳)を読んで二つの疑問が起こったので、そのことについて述べてみたい。一つは、なぜこの物語が二階建て(二世代)になっているのかということであり、もう一つは、キャサリン(ケイト)という妻・母の要素をなぜこんなに大きく扱っているのかということである。カインとアベルの物語を再構成するのであれば、映画化されたときのように、単純に父親と息子たち(兄弟)の関係に絞ればいいのであって、二世代にわたる兄弟の対立や妻・母の大きな存在は余計であり、かえって分かりにくくしてしまっているように思える。
このことを考えるにおいて、少し変わった角度から検討してみることにする。まず、キャサリンがどういう人間として描かれているかを見てみよう。
キャシー・エイムズはある性向を持って(あるいは欠いて)生まれ、その性向(の欠如)に支配され、突き動かされながら一生を送ったのだと思う。バランスホイールの重さやギアの比率が微妙に狂っていた。ほかの人とどこか違い、その違いは生まれたときにすでにあったと思う。
このような性格づけは、二十世紀の文学としては不適切であるとされるのではないか。人間はそのようにはっきりと性格づけられ、その行動が簡単に予測できるような存在ではないというのが、二十世紀文学を特徴づける認識ではないのか。
しかし、兄弟の性格の違いからくる葛藤というのが物語のテーマであるならば、性格が明確であるのは必然とされよう。他の登場人物も多かれ少なかれそういう傾向を持たされている。ただ、それ以上にキャサリンのこの性格づけは強烈で、いわば遺伝決定論的である。そこにこの作品のポイントがあるように思える。
キャサリンがカイン的要素とされていることは明白である。キャサリン=カインはアダム=アベルを拳銃で撃って肉体的に傷つけ、精神的に殺してしまう。第一世代の殺人は、アダムの弟たるチャールズではなく、妻であるキャサリンによってなされる。キャサリンがチャールズの代替的存在であることは、両者の親近性が度々言及されていることからも明白である。実は、成長してからのアダムとチャールズの対立はそれほど厳しいものではなく(父親の存在も希薄になっている)、チャールズがアダムを殺すにいたるような状況にはない。そのため、キャサリンがチャールズ=カインの役割を担わなければならなくなっているとも言える。
キャサリンの獲得をめぐってチャールズとアダムに対立が生じるという通常考えられるストーリーは、カインとアベルの物語構成からは排除されてしまうであろう。したがって、キャサリンは無条件にアダムと対立しなければならない。この無条件性がキャサリンの性格を規定している。キャサリンの行動の動機は、欲望とか利己性には求められない。彼女は知的とされているけれども、その行動の仕方には合理性がなく、結果として彼女に利益をもたらすことはない。彼女は他人を害する存在として機能しているにすぎないのだ。例えば、彼女がアダムと結婚した直後に彼を薬で眠らせてチャールズと性交するのも、欲望とか打算ゆえでなく、単にチャールズと一体化しアダムを裏切るというカイン的要素の強調でしかないのである。
このようなキャサリンの決定論的性格は、再度指摘するが、他の登場人物にも共通するものである。状況に対する柔軟性に欠けていて、他のあり方を思ってみることもない。性格というより存在の形態が決められてしまっているようである。革新的であることを予想されるビジネス上の成功でさえ、運命的なものにされてしまっている。
世の中には、何をしたわけでもないのに神々に愛される人間がいる。何の思惑もなく、努力もしないのに、向こうから幸運が転がり込んでくる。ウィル・ハミルトンもそういう一人だった。(第五章)
逆に、ウィルの父親であるサミュエル・ハミルトンは、技術的才能はあるけれどもそれを成功には結び付けられない人物として描かれている。このような性格運命複合決定論的存在とでもいうべき人物像は、小説においてははなはだ便利であり、多用されてきているのは事実だ。では、『エデンの東』に見られるのは、そういう小説的特徴にすぎないのだろうか。
『エデンの東』の構造から必然的に導き出されるのは継承という問題である。遺伝といってしまえば明確なのだが、その概念に還元できない意味をスタインベックは与えている。ウィルのように父親の性格運命複合から免れている子もいるが、それを継承したために苦しむ子もいる。親から子へ継承されるものから、人は自分の力で自由になれるのか、というのがこの作品の一つのテーマになっているのだ。
それゆえ、キャサリンに与えられたもう一つの役割がこの作品における彼女の存在を必然にさせているのだ。それは第二世代を作ることである。アダムの子供たちの母親はもっと影の薄い存在であってもよかった(アダムたちの母親のように)。しかし、第二世代が第一世代の再生産であるためには、チャールズ=カイン的要素が継承されなければならない。アロンとキャルの父親がアダムであるのかチャールズであるのかは明確ではない。二卵性の双子であるということは、アダムがアロンの、チャールズがキャルの父親である可能性もある。チャールズが二人の父親であるならば、アダム=アベル的要素の継承がなされないことになる。しかし、アダムが父親であっても、カイン的要素はキャサリンから発生することができる。チャールズの血統がキャサリンを経由して直接その子(アダムの子とされる)に流れ込まなくても、チャールズと一体化したキャサリンによってカイン的要素がアダムの子に継承されるのだ。
つまり、キャサリンの役割は、カイン的要素の実体化と、その世代間の継承にある。彼女ははなはだしく遺伝決定論的存在なのだ。では、スタインベックは人間はそれによって縛られていることを強調したかったのだろうか。キャルは母親であるケイト(キャサリン)と次のような会話をする。
「おれはね、自分の中にあなたがいるんじゃないかと心配だった」
「もちろん、いるさ」とケイトが言った。
「いや、いない。おれはおれだ。あなたである必要はない」
「そんなことがなぜわかる」
「なぜでも。いますっかりわかった。おれがひねくれているとすれば、それはおれ自身のひねくれなんだ」(第三十九章)
むろん、解決がこんなに簡単であるなら、苦労して物語を構成する必要はない。これはキャルの希望でしかない。しかし、この希望にスタインベックは賭けたのであろう。スタインベックの言いたかったことはリーの次の言葉にあるのだろう。
「(略)そして、焼かねばならなかった汚れも、火傷の跡も、これは二つながら先祖から受け継いだもの。そうも思っていました。すべて受け継いだもの、引き継いだものだ、と。(略)そこで止まってはだめです。そこで考えをやめるのでは不十分です。(略)たぶん、受け継ぐのではないんです。どの世代に生きるどの人も、新たに焼かれるんです。(略)」(第五十五章=最終章)
遺伝という観点からは、子は両親の遺伝的特質を受け継ぐが、両親の要素からの選択と組み合わせによって両親とは異なる資質を形成するはずである。したがって子は親そのもののコピー(クローン)ではない。とはいえ、親の要素をいくらかは受け継いでいるのは確かだ。その要素が親の肉体的精神的存在に占める位置と子における位置は異なるであろうから、行動にも差は出てくるはずだ。それも結局は遺伝のなさしめることなのか、あるいはそうではなくて個人の精神作用の結果なのか。
ともあれ、スタインベックは遺伝的決定論を認めつつも、そこから脱け出す道を見出したかったのではないだろうか。それは人間存在の被決定性と自由性というより根本的な問題の一つのケーススタディである。