サナトリウム
今夏(2013年)、スタジオジブリ作品『風立ちぬ』が公開されるとのこと。この作品は堀越二郎(ゼロ戦の設計者)もモデルになっているらしいから、堀辰雄の作品の忠実な映画化ではないようだ。しかし、ポスターに描かれた、夏空(?)をバックにキャンバスに向かう娘の姿は、堀の作品に沿っている。
昨夏、富士見町のスキー場にユリを見に行ってきた。夏場のスキー場に人を呼ぶためにユリの花を咲かせるのがはやっている。帰ってから堀の本を再読したら、『風立ちぬ』に取り上げられているサナトリウムが富士見町にあったことを知った。かつては不治の病とされた結核の療養所と、日本在来の花にはない派手な色合いのしかも大きな花が生を誇るように咲いている風景とがどうにもそぐわない。原村と清里にはさまれてやや影の薄い富士見町だが、しゃれたカフェやホテルなどもあって、やはり観光に活路を求めているようでもある。かつてのサナトリウムは富士見高原療養所という私立の病院で、継承されて現在は富士見高原医療福祉センター富士見高原病院となっており、当時の建物は資料館として残っているらしい(解体されるらしく、その前に一般公開されたとのこと)。
サナトリウムの物語といえば、トーマス・マンの『魔の山』がある。作品の量的な違いからだけでも両者を比較するのは無理だが、特殊な咳の音が聞こえる病室、部屋部屋をつなぐ形のバルコニー、長い療養生活にじれて退院したものの再び入院して死んでいく者(『魔の山』では主人公ハンスの従兄のヨーアヒム)など、似たような雰囲気がうかがえる。
私が気がついた両者の違いの一つは、富士見高原のサナトリウムでの食事は病室でとるらしく、『魔の山』のような食堂での風景が見られないことだ。『風立ちぬ』と同じサナトリウムを描いている『菜穂子』の中に「圭介はひとりで女の多い付添人達の食堂へ夕食をしに行き」というくだりがあるので、食堂はあるようなのだが。ここで病院論などをやるつもりはないが、病院はあくまで治療の場であって生活の場ではないというのが日本の病院施設設計の考えにあるのだろうか。あるいは治療費の多寡が病院施設に影響するのだろうか。富士見高原療養所の入院費は結構高かったらしく、よほど高所得の人でないと利用できなかったにもかかわらず、ベルクホーフ(『魔の山』のサナトリウム)とくらべれば貧弱な施設で、経済力の差が現れているようでもある。ベルクホーフは国際的サナトリウムと称されて、入院患者はヨーロッパのみならずロシアや北米からも来ている。スケールの違い、富の集積の違いが背後にあるのは間違いない。それはともかく、『風立ちぬ』の病人と付添人たちは、『魔の山』に比して孤立の度合いが高いようで、それは病室以外に居場所がないことにもよるのだろう。
しかし、どちらにしろ、サナトリウムに入れるのは裕福な人々なのだ。では、富の格差は治療の効果に差をもたらしたのだろうか。抗生物質が使用される以前の結核治療には有効な手段がなかったから、富める者も貧しき者も同じように死んでいったようにも思えるが、療養生活の差はたとえわずかであっても死亡率に影響したであろう。ただし、サナトリウムに来るのは重症者が多かったはずだから、そこでの死亡率だけでは比較はできない。重症者の中で、サナトリウムで療養した者とそうでなかった者(十分な治療を受けなかった者)との差、あるいは、所得や資産の差が死亡率にどのような影響を与えたのかという統計的検討が必要だろう。
そういう知識は私にはないので確定的なことは言えないのだが、サナトリウムは明らかに特別な場所なのだ。そこで死んだ者たちは他の場所で死んだ多くの者たちとは違っている。つまり、結核患者としての普遍的な姿ではない。そのことがサナトリウムを舞台にした小説の評価において考慮されるべきだろうか。
統計的に層別されようとも、個々の死にはそれぞれ個別の状況がある。富者であれ貧者であれ、その死は当人や周りの人にとって特別である。しかし、死を特別視することは不安を伴うので、世俗的な配慮がその死を一般化してしまう。残された人々は生き続けなければならないのだ。死にゆく人は生きる者の都合によって死に方を決められる。死は社会的なパターンに当てはめられるのだ。死にゆく者でさえそれを望まずにいられようか。
サナトリウムでの世間から隔絶された環境は、世俗性を削ぎ落すことを可能にさせるように思わせる。もちろん、そういうことを可能にさせる条件は世俗的なものであり、それを無視することで幻想が成り立つのではあるが。サナトリウムが小説の舞台とされるのは、幻想を成立させる場としてなのだ。世俗的な関係から切り離された人々の小さな世界。そこでの関心事も閉ざされた世界での出来ごとに集中される。まるで他の世界からの影響はこの高地までは届かないかのように。
かつてのサナトリウムは死が唯一の日常となりうる世界であった。『風立ちぬ』はそこに成立する。しかし同時にそこは生きようとする者たちの世界でもある。生きることの当然さから暫時排除されることによって、その意味を問う場にもなるのだ。『魔の山』のように。
私たちは原村に行って、地元産の野菜などをバイキング形式で食べられることをウリにしているらしいレストランで昼食をとった。テラスのテーブルは犬同伴が可で、順番待ちをしている組もあった。食事中なので(いつものように)犬たちに挨拶することはできなかったが、彼らを見ているだけで楽しかった。昔と違って、雑種などはいない。みな由緒正しい純血種なのであろう。落ち目とはいえ、日本は豊かなのである。
結核は恐れるものではなくなった。今ならかつてのそれに相当するのは癌だろうか。サナトリウムが消えたとしても、私たちの生の危うさはいささかも変わらない。ひょっとしたら、今の私たちは巨大なサナトリウムの中にいるのかもしれない。
ところで、『魔の山』のサナトリウムはスイスのダボスにあると冒頭に記されてある。かのダボス会議の開かれるところであり、観光地として有名なのだろう。今はサナトリウムという形の施設は残っていまい。ダボスに行く人は『魔の山』のことをどう思うだろうか。
<追記>
山口輝久『定本 北八ッ彷徨』(平凡社、2001年、創文社版は1960年)には、著者が1950年3月から翌年の11月まで富士見高原療養所に入院した時の体験を描いた「富士見高原の思い出」という文章がある。それによると、「療養所は、広い八ヶ岳の裾野の標高一〇〇〇メートルのところに、ほぼ南を向いて建てられていた。(中略)療養所は、横に長い、それぞれが平行した六つの病棟からなり、手前の病棟から、富士、石楠花、竜胆、白樺、梓、桂と(中略)呼ばれていた。(中略)六つある病棟のうち、診療所のある富士病棟と、個室ばかりの白樺病棟の二つだけは二階建になってい」たとのことである。ただし、堀辰雄が滞在していた頃もこのような形だったのかは分からない。
著者が白樺病棟に入院中の1950年5月10日に梓病棟で火災が発生し、「(前略)白樺病棟は天井の落ちた一階の病室だけは焼け残ったが、梓と桂の二病棟は完全に焼失した。富士、石楠花、竜胆の三病棟はさいわいに類焼をまぬがれた」。どのように再建されたかの全体像は記されていないが、白樺棟は一階建に改築され、他の病棟に臨時に移動していた著者はそこに戻った。
白樺病棟は「廊下をはさんで南側の病室と北側の病室に分かれ」、「北側の病室はベランダがなく、冬は一日じゅう日が差しこまないので、ことさら寒かった」。南側の病室のベランダには仕切りがなく、他の病室に自由に行き来ができるので、ここを利用しての交流が軽症の患者たちにはあったらしい。『風立ちぬ』におけるような患者の孤立は主として重症者に見られたもののようだ。
なお、「食事が運ばれてくるまで蒲団にもぐりこんでいる」という記述があるので、やはり患者用の食堂はなかったようである。
この文章の前半は、死をも予感させる病状のため、著者の不安な思いが主調になっているが、後半になると、手術による病状の改善や、師となる尾崎喜八との交流、後に妻となる女性との出会いなどによって、一転して明るく希望に満ちたものになっている。その背景にはストレプトマイシンなどの抗生物質の出現がある。結核は治療可能な病気になりつつあったのである。