ジャベールはなぜ死んだか
映画化されたミュージカル『レ・ミゼラブル』を見たので、原作(ヴィクトール・ユゴー、1862年、佐藤朔訳、新潮社、1962年)を読んでみた。『ああ無情』という翻訳題の作品のことは知っていたし、どういう経路かははっきりしないがおおよその内容は記憶に入っていた。何せ原作は長い。部分的にちょん切ってつなぎ合わせた方が読みやすいのは確かだから、たぶんそういうたぐいの本か漫画からの知識だったのだろう。
意外にもストーリーから外れて延々と述べられていることが多い。背景として必要だとユゴーは思ったに違いない。ましてや大革命(1789年)、七月革命(1830年)、二月革命(1848年)の区別さえはっきりしない私たちには、さらなる背景説明がほしいところだ。作品のなかのバリケード戦が1833年のものであることを原作を読んで初めて知った。映画の最後に出てくる巨大なバリケードは六月暴動(1848年)を示唆しようとしたのだろうか(原作第5部第1章1を参照)。
当然、ここではこの長大な作品のほんの一側面だけを取り上げることにする(それ以上のことは私の手に負えない)。映画を見て思い、原作を読んでその思いを強くしたのだが、成長したコゼットの存在が希薄ではないだろうか。というか、どうにも軽薄な娘に見えて仕方がない。マリユスに片思いをして死ぬエポニーヌの方がよっぽど精彩がある。なぜだろうと考えて、コゼットが恩知らずだからではないかと思い当った。自分を苦境から救い育て上げてくれたジャン・ヴァルジャンに対して冷淡すぎるのではないか。少なくとも、マリユスとジャン・ヴァルジャンとの板挟みになって悩むことぐらいはあってもしかるべきではないか。
恩だなんて、なんと日本人的な見方をするのだとあきれる人がいるかもしれない。しかし、この作品は報恩ということがテーマになっているのだ。ジャン・ヴァルジャンが改心するのもミリエル神父から受けた恩を返す(個人にではなく社会へだが)ためであった。ジャン・ヴァルジャンがモントルイユに住めるようになったのは、彼に火災からわが子を救ってもらった憲兵隊長の配慮による。マドレーヌ氏(ジャン・ヴァルジャン)が繁栄につくした恩を忘れたモントルイユは衰退する。フォーシュルヴァンは馬車の下敷きになったときに命を助けくれたジャン・ヴァルジャンに恩返しをする。プチ・ピクピスの修道院は、死んだ尼を礼拝堂の地下に埋めるという秘密を実行してくれたフォーシュルヴァンに対して、その弟になりすましたジャン・ヴァルジャンとコゼットを受け入れることを了承する。マリユスは戦場で死にかけていた父親を救ってくれた(事実は少し違うのだが)テナルディエに恩返しをしようとする。また、マリユスは負傷した彼をバリケードから助け出したのがジャン・ヴァルジャンであることを知って、それまでの忘恩を取り返そうとする。そして、バリケードでジャン・ヴァルジャンに命を救われたジャベールは、彼を見逃すことでその恩を返すのだ。
先程の人(報恩の普遍性を信じない人)ならこう言うかもしれない。見返りを当てにする奉仕は真の奉仕ではない。そんな商売みたいに損得計算をする取引によって人間関係が成り立っているのは特殊な社会である。そんな社会であるのは一神教がないからだとひょっとしたら言い出すかもしれない(しかし、キリスト教は来世での救いを報酬として取引を持ちかけているのではないか?)。そのような人に対する反論は別のところ(「『菊と刀』の今さらな読み方」)でしているのでそちらを参照していただきたい。「交換」が人間関係の根本にあることは今では広く認められている。
コゼットについては、物語の構成上(ジャン・ヴァルジャンの献身を際だたせるために)そういう風にならざるを得なかったのだろうという推察に留めよう。興味深いのはジャベールである。ジャベールはジャン・ヴァルジャンに恩を受けた。別の言い方をすれば、借りを作った。恩というのは重荷でもあるのだ。恩はいわば債務であり、返さなければ決済されず、いつまでも引け目として残る。だから、できれば恩は受けたくない。「恩を売る」という言葉もある通り、人を債務者にして支配しようとすることも起こる。逆に、人を助ける場合、そのことが助けられる人の負担にならないように、隠れてするのが最善であるとされる。あるいは、貸借関係と割り切るように見せることで、この負担を軽くしようとする。「貸しとくよ」「借りとくぜ」という気軽なやりとりで、いつでも返せる信用貸しにしておくのだ。つまり、通常人間は恩を感じるようになっているということだ。
しかし、ジャベールを殺したのは恩の重荷ではない。ジャベールは恩を返した。ジャン・ヴァルジャンに借りはない。以前のように、追う者と追われる者という関係に戻った。では、なぜジャベールは死なねばならなかったのか。
ユゴーの説明はこうである。
悪人に命を救われ、その負債をみとめて、返済し、心ならずも前科者と対等になり、奉仕に奉仕をしてむくいること、「行け」と言われて、こちらからも「自由にしろ」と言ってやること、個人的な動機から、義務を、つまり一般的な責務を犠牲にし、しかもその個人的な動機の中に、同じく一般的な、おそらくより高いものを感じること、良心にしたがうために、社会を裏切ること、このような不条理なことすべてが実現し、かれの上に積み重なってきたのだ。かれはすっかりそれに打ちのめされてしまった。(第5部第4章)
心のうちに、これまでかれの唯一の尺度であった法律的な確信とはまったく別な、一つの感情的な啓示が生まれた。以前の実直さにとどまるだけではもう満足できなくなってきた。一連の意外な事実が起こって、かれを圧倒した。新しい世界が、かれの魂の前に出現した。つまり、受けて返す善行、献身、慈悲、寛大、なさけにほだされて威厳をくずすこと、個人を重んじること、決定的に人をさばくことも、罰することもできないこと、法の目にも涙がありうること、神の正義とでもいえるなにかが人間の正義とあべこべになっていること。かれは、暗闇のなかに未知の道徳の恐ろしい日の出を見て、おびえ、目がくらんだ。(同)
ユゴーはジャベールが立ち向かわなければならなかったものについて「つねに人間の内部にあって、真の良心となって、にせの良心に抵抗する神、‥‥ほろびることのない人間性、失われることのない人間的感情、このかがやかしい現象、人間内部の奇跡のうちでおそらくもっとも美しい奇跡」(同)と説明している。ただし、善意と善意の交換に潜む「お返しへの期待」についてはユゴーは無視しているのだが。
つまり、本来そうであるべきはずのジャベールにとってなら、ジャン・ヴァルジャンが彼の命を救ったことと、ジャン・ヴァルジャンを捕まえて法の裁きを受けさせることは全く関連のない別のことである。ジャン・ヴァルジャンはジャベールを助けた。よろしい、それがどうしたというのだ。それは彼の勝手にすぎない。ジャベールとしては助けてもらわなくてもよかったのであり、ジャン・ヴァルジャンはしたいことをしただけなのだから、彼に同様のことを返してやる理由はない。悪く取れば、ジャベールが別の機会に恩返しをしてくれることを期待して、ジャン・ヴァルジャンは恩を売ったのかもしれない。
だが、ジャベールは自らの中に恩を返すべきだという規範があることを悟って、それに逆らうことができなかった。これは不思議なことである。別に約束や申し合わせや契約をしたのではない。だから義務などは発生しないはずなのだ。善意はそれきりのものであり、取引になってしまえばその価値を失うだろう。しかし、受けた恩は返すというのは、恩を受けた者も、第三者も、そして恩を与えた者も、期待して当然のことなのである。それは何も、忘恩が仕返しをもたらすからだとか、報恩はさらなる恩を呼ぶとか、そういった見通しからではない(そういう計算を排除はしないが)。恩は心理的債務を自動的に発生させるのである。それはあたかも地下組織のように、秘密結社のように、人間集団の基底にはびこる網なのだ。ジャベールにとっては賄賂とか情実などと同類のもののように思えたのではないか。そのようなインフォーマルな関係こそが人間の本質をなし、彼自身もそういう人間であったことの認識――フォーマルな制度のみを信じていたジャベールはそれに絶望したのだろう。