井本喬作品集

男と女、上と下

 小説が映画化されたときには、その二つは別の作品として受け取らなければならないと私は思う。映画化された作品が小説のイメージとは違うという感想がよく聞かれるが、それは当り前のことだ。映画が小説の再現になっているとしたら、そのどっちもが大した作品ではなかったからではないだろうか。

 それゆえ、小説の映画化は、この二つの芸術の表現形式の違いを認識しうるいい機会といえよう。表現を特徴づける技法上の違いの一つとして、映画ではしばしば解釈が必要になることがあげられる。登場人物の表情や仕草で、彼ないし彼女が何を思っているか、観客は推察をせまられる(そんな面倒なことはせずにただポカンと見ていてもいいのだが)。現実においても、対応している相手が何を感じ、何を考えているのか、正確なところは私たちには分からない。映画では、監督やら俳優やらがその意味を伝えようと努力するので、現実においてよりもずっと分かりやすくされている。それでも、小説の場合のように言葉によって説明されるのとは、やはり違ってくるのだ。

 古い話だが、テレビの映画解説で有名になったある映画評論家の例をあげよう。彼の言うことはいつも的外れだと私には感じられたのだが、ある雑誌に彼が書いていた『コレクター』(ウィリアム・ワイラー監督、1965年)の解説についても、おかしなことを言うものだと思った。古い記憶なので改変されているかもしれないが、その場面について説明しよう。誘拐され閉じ込められた若い女性が、誘拐者(男)の用意した女性用の服が衣装棚の中にたくさんかけてあるのを見つける。彼女はその一つを取り出して自分の体に合わせて見る。そして、ハッとするのだ。その映画解説者は、彼女のその反応を、誘拐者の趣味の悪さに女性が拒否反応を示したと解釈していた。つまり、二人の違いをより鮮明に示すための演出であるとしたのだ。私が映画を見たのはその解説を読む前だったが、女性のその反応は、その服が女性のサイズにあまりにもぴったりとしていたので、狙われて誘拐されたことに気がついたゆえのものだと思った。

 わざわざ調べてみるほどのことでもないのでそのままにしていたが、ずっと気にはなっていた。ところが、最近、未読だった『コレクター』(ジョン・ファウルズ、1963年、小笠原豊樹訳、白水社、1979年)を読んだ。私の疑問に該当する部分はあった。

  美術書のコレクション。定価を足し算してみたら、五十ポンドたらずになった。それが私のための美術書であることに最初の晩気がついて、愕然としたのだった。つまり私は偶然の犠牲者ではないということだ。

  それに、衣類のいっぱい入った箪笥。ブラウス、スカート、ドレス、カラー・ストッキング、≪パリの終末≫マークの下着一揃い、ネグリジェのいろいろ。サイズは少し大き目だったが、だいたい私にぴったりだった。(159-160ページ)

 古いことになってしまっているが、小説では誰が読んでも明らかなヒロインの感情が、映画表現ではうまく伝えられない場合があることを改めて確認した(ただし、くだんの評論家のように受け取る人は少ないと思うのだが)。

 ところで、小説を読んでみて驚いたのだが、ヒロインの手記部分(原作の半分以上を占める)が映画ではバッサリと削られていた。ミステリとしては当然のことかもしれない。ヒロインの意見や心理を表現するのは映画ではてこずるし、テーマを誘拐の経過にするならば、ヒロインの容姿と誘拐状況での反応さえ描ければそれですむのだから。しかし、これだけの割合を占めているのだから、作家が書きたかったことの多くがこの部分にはあるのだろう。それは何だろうか。

 この作品で上下意識について触れられているところが目についた。美人であり、教養もあり、画家を目指しているヒロインに対し、誘拐犯は、思わぬカネを手に入れたとはいえ、下層階級出身であり、学歴も、教養も、社交性もないので「下」の人間だろう。しかし、ヒロインは上層階級ではなく、ビジネス層(新興階級)をも嫌っており、いわば精神の貴族であろうとしている。誘拐犯はヒロインを「上」に属すると見ているが、誘拐犯の見方による「上」などではないとヒロインは自負しているのだ。むろん、ヒロインは誘拐犯に代表される下層に共感しているのでもない。

 唯一、二人の認識で共通しているのは、ヒロインが美人で誘拐犯が男として魅力がないということであり、誘拐犯がいかに望もうと彼女の愛を得られないということである。それが分かっているから、誘拐犯は彼女の心を得ようとは思わず、単に彼女を物理的に所有することで満足する。彼女が世俗的で誘拐犯が世慣れているのなら、カネで縛るところだろう。そういう穏健な方法を二人とも取れない(ある意味で純真なのだ)。

 ヒロインの手記部分では、年上の男性に対する屈折した恋愛感情や、知的エリートとしてのアイデンティティについて述べられている。誘拐犯に最後まで反抗的であるヒロインの姿を作者は描きたかったのだろうか。あるいは、知的エリートであるという自惚れが幽閉という状況の中で再検討を余儀なくされ、ヒロインが再生に導かれる過程を描きたかったのか。そうだとすれば、それはあまり成功していない。精神的成長を描くには設定された状況が過激すぎるのだ。

 このような状況の(そして小説の)クライマックスとしては、①この状況が永続する、②ヒロインが脱出に成功する、③誘拐犯がヒロインを解放する、④どちらかが死ぬ、というケースが考えられ、死ぬとしたらヒロインの可能性が大きい。小説では思わぬ形でヒロインが死ぬ。ヒロインの死は誘拐犯を動揺させ、自殺まで考えさせるのだが、結局、彼は新しい獲物を見つけ、こう反省する。

 彼女はむろんミランダほどの美人ではなく、ただの平凡なサラリー・ガールだけれども、前に高嶺の花を狙ったのは明らかにぼくの失策だった。ミランダのような、乙にすました考え方のもちぬしで、抜け目のない娘に、たとえ何かを期待したって、とうてい望みが叶うものではないということを、どうしてぼくは分からなかったのだろう。もっとぼくを尊敬してくれるような娘を連れてくるべきだった。いろいろ仕込んでやれるような平凡な娘を。(366-7ページ)

 誘拐犯とヒロインが共にした経験が両者を精神的に変化させる兆候は見られるのだが、その過程は無駄に終り、ヒロインは死に、誘拐犯は悔悟することなく同じことを繰り返そうとする。男女、上下という異質な魂がぶつかり合って、結局は異質なままで終わってしまう。サスペンスとしては上出来かもしれないが、ヒロインの独白は一体何だったろうかと怪訝な気持ちが残る。映画が削ったのは当然だったろう。

[ 一覧に戻る ]