最も恐ろしい物語
私が今までで最も恐ろしく思った物語は『小鹿物語』である。ただし、本は読まずに映画を見ただけなのだが。原作(1938年)の著者はマージョリー・キナン・ローリングス、映画(1946年)の監督はクラレンス・ブラウンということだが、詳しくは知らない。映画では父親役をグレゴリー・ペックが演じていた。
うろ覚えながら、物語をなぞってみると、両親と男の子、親子三人の開拓者一家の話である。父親がやむを得ず殺した牝鹿に仔がいて、連れ帰って飼うことになり、男の子がかわいがる。しかし、小鹿が成長するにつれて一家の育てている作物を食べるようになり、柵をしたり山に帰そうとしたりいろいろ防ごうとするのだがうまくいかない。作物が育つかどうかは文字通り一家の死活問題であるから、小鹿を殺さざるを得なくなる。むろん男の子は反対するが、いきさつがいろいろあって、結局は彼がとどめをさすことになってしまう。
最近、『豚の死なない日』(ロバート・ニュートン・ペック、1972年、金原瑞人訳、白水社、1999年)という本を読んだが、『小鹿物語』と似たような物語である。こちらは貧しい農家の親子三人の物語である。父親は収入を補うために豚の屠殺の仕事をしている。男の子が隣家の牛の難産を助けたお礼に仔豚をもらう。豚を育てて仔を生むようになれば収入になる。しかし、男の子がいつくしみ育てた豚は不妊だった。不妊の豚に餌をやる余裕はなく、冬を越す食料の不足もあって、父親と二人で豚を殺すことになってしまう。翌春、父親は結核で死ぬ。父親の葬式に父親の同僚が出席してくれたので、その日は「豚の死なない日」になった。
父親の葬式の日に満足に着るものもない少年は、「神様聞いて下さい」「貧しいってことは地獄です」と言う。この物語でも『小鹿物語』でも、貧困が子供の感情を傷つけてしまうのだが、それは親の意志でも責任でもないことを子供は理解している。漠然とした「世の中」という存在の脅威を子供は感じるのだ。
ただし、単に貧困の悲惨さが恐ろしさを感じさせるのではないだろう。貧しくはなくとも似たような経験をした人もいるはずだ。捨て犬や捨て猫を拾ってきたが、親に飼うことを認められずに再び捨てに行かねばならなかったときの気持ち。もう少し広く取れば、貧しく悲惨な人を見かけても何もしてあげられないという無力感。確かに富は解決の一手段である。だが、それさえも無限ではなく限度がある。つまり、扱われているのは、私たちにはしたいけれどもなしえないことがあり、そのことを認識させられる時期があるという普遍的なテーマなのだ。
なぜ『小鹿物語』が恐ろしかったかというと、何者も抗うことのできない現実の強力さの前で、うすうすは感じていた人間の卑小さを明確に示されてしまったからなのだと思う。理想というか、美しいもの、心優しさなどの実現が、現実の前に敗れ去ってしまう。大げさに言えば、この世の中は残酷でなければ生きていけない仕組みになっていることを否応なく悟らされてしまった。そういう風に私は取り、未来についてすごく不安になった。はたしてこれは生きて行く価値のある世界なのだろうか。それは私がそういう時期にいたからだろう。望み、喜び、愛情、感動といったものに満ちた世界の完全さが損なわれてしまう時期。いわば幼年期の終り。
『豚の死なない日』の父親は、二人で豚を殺した後で、「これが大人になるということだ。これが、やらなければならないことをやるということだ」と息子に言う。大人になるということは、親がしなければならなかったこと(あるいはできなかったこと)を理解して子供の意に反した親と和解することではある。一方で、親がしたことはやむなくしたのであり、裏返せば、別のやり方をしなかったのはできなかったのであるということを知り、親の限界を悟ることにもなるのだ。それは親の権威失墜につながる可能性がある。子供にとって全能と思われた親が打ちひしがれたのだ。それとともに、親と一体化した子供の全能性も失われてしまう。
ところで、なぜ子供は楽天的であり、全能感とでもいうべきものを持っているのか。親に保護されているからだろうか。実際には保護されていない場合もあるのだけれど、いわば統計的な信頼感を持つようになっているのだろうか。それゆえ世界が自分に味方するものであり、自分の思い通りになるものと思い込むような自己中心的な性向が形成されるのだろうか。たぶん、幼児期にはそのような性向が必要であるのだろう。親の保護下に入るということは、親に対する絶対的な信頼感がなければならないからだ。
そのような全能感が失われるのは、親でさえ限界のある存在であることに気づくからだろう。親が貧しければ察知しやすいであろうけれど、貧しい人間だけにもたらされる認識ではない。根本的には、生物は食べなければ生きられないのであり、その現実から人間も免れない。たとえ私たちが強力であり、飢えを克服したとしても、他の存在を害さないと生きてはいけない。仏陀が絶望するのは当然なのだ。
長じてからは、そのときのような恐怖を実感することはなくなり、ただそう感じたということだけを憶えているだけになった。だから、切実さはないのだけれど、『小鹿物語』と同じような状況は現在も存在することを、『ヒトと動物』(林良博・近藤誠司・高槻成紀共著、朔北社、2002年)という本を読んで知った。一つは獣害を防ぐための駆除という問題である。鹿は確かに人間の影響を受けているけれども、絶滅に向かっているのではなく、増えすぎているのだ。鹿の個体数の増加が生態系を破壊してしまっているので、その駆除を考えねばならなくなっているのだ。むろん、鹿をそういう立場に追いやったのは人間かもしれないのだが(一因として考えられるのは、天敵の狼を絶滅させたことで、鹿の個体数の自然な調整をできなくさせた)。昔ほどナイーブではない私だが、やはり殺すことには抵抗があり、人間との接点を何とか工夫できないかと思ってしまう。
さらに、『小鹿物語』の状況は、野生動物よりも家畜の方によく当てはまる。私たちは食べるために生物を殺す。肉を得るために、豚や鶏や牛を飼って、殺す。野生動物と資源の取り合いをするのではなく、動物自体が資源であり、それを殺して(殺さない場合もあるが)自分たちの生きるための役に立てているのだ。小鹿がかわいいのであれば、雛も仔豚も仔牛もかわいい。鹿を殺すまいとするなら、鶏、豚、牛、羊、その他の家畜も殺さないようにすべきではないか。むろん、そんなことはできない。
だが、そのように冷静に(冷酷に?)なれるのは、年齢を重ね、経験を経たせいである。愛着の対象を死なせなければならない世界、愛着しながら守ってあげることのできない世界、自らの力の限界を思い知らされる世界、そういう世界への絶望は理屈では解消できない。ただ慣れるだけなのだろう。