虚構と事実
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トルーマン・カポーティ、テネシー・ウィリアムズと著者の交流を描いた『失われし友情』(ドナルド・ウィンダム、1987年、川本三郎訳、早川書房、1994年)という本を読んで、興味が湧いたので『冷血』(トルーマン・カポーティ、1965年、佐々田雅子訳、新潮社、2005年)を読んでみた。ベストセラーだったこの本を読んでいなかったのだ。読み進んで半ばまでも至らないうちに、何かひっかかる気がして仕方がない。取り上げられた人物の幾人かがいかにもアメリカ小説に出てきそうな描かれ方なのだ。どうも嘘くさい。引用されている手紙さえも疑わしい。これはドキュメンタリーなのだろうか。
カポーティもその辺は心得ていて、ノンフィクション・ノベルという形式だと主張したらしい。しかも、犯人たちとの会話をテープレコーダーやメモにとって記録を残すことはしていないにもかかわらず、書かれていることは全て事実だとも言った(犯人以外の人たちへの取材ではどうだったのだろう)。
ウィンダムの本のせいもあって(ウィンダムはカポーティを天性の嘘つきと書いている)、私はカポーティが信じられなかった。どこまでが事実で、どこからが嘘(カポーティの創作)なのか分からず、ドキュメンタリーなのか小説なのか、判断のつけようがなかった。ウィンダムは『冷血』を「想像力を使って事実を的確に描」いた傑作と評しているが、私はそんな風に納得はできなかった。
ドキュメント(報告)と小説(創作)の差になぜそれほどこだわるのか。私たちは嘘を作り話としては楽しめるが、事実として受けとることを警戒する。ことの真偽を明確にできないときは両者にはっきりとした差をつけられないにしても、である。事実と虚構に関するこのような私たちの態度は、日本文学の独特のジャンルであるとされる私小説の評価においても現れる。私小説の評価の基準として、虚構(嘘、隠ぺい、飾り)を排していかに事実に近く叙述するかということがあげられる場合があった。
事実を知ることは何らかの理解を得ることになると、私たちは信じているようだ。好奇心というのは私たちのそういう思いの積極性を現している。たぶん、事実の認知(誤った見かけの排除)は進化的に肯定的な役割を果たしたのだろう。
ではなぜ、一方で私たちは作り話を楽しむのか。その理由は次のように考えられよう。私たちは(本能的に決められた手順の範囲外の)選択の機会を進化的に増やしてきた。選択するにはいくつかの選択肢のそれぞれのもたらす結果をシミュレーションする必要がある。現実には起こっていないが起こる可能性を疑似体験すること、つまり予想であり空想である。疑似体験には体験の実質的な構成要素、つまり欲望や感情の動きがある程度伴う必要がある。そうでなければその重要度を比較できないだろう。それゆえ、私たちは空想を楽しみ、怖がることができるのだ。
事実を知ることと空想にひたることとを私たちは区別している。それが混同されてしまうと、混乱するのだ。
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それでも、小説は事実ではなく真実を表現すると言う人がいるだろう。事実と虚構の区別を超越した真実を。真実が重要なのは、私たちの理解を、単なる事実の認知以上に深めてくれるからだ。
そうだろうか。犯罪に絞って検討してみよう。人間はなぜ犯罪をなすのかということの理解が、小説やドキュメンタリーで深められるだろうか。いかにその人間の性格を描こうとも、あるいは育った環境や犯行前の状況、また環境と性格の相互作用を描こうとも、その人間がその犯罪をなした必然性は捕えきれない。同じような環境にあって、犯罪をなす人もしない人もいる。同じような性格でも、同様だ。『冷血』の中にもジャーナリストの次のような会話がある。
「でも、ペリー・スミスですがね。まったく。あんな真っ暗な人生を送ってきて――」
パーがいった。「あのチビ程度のお涙頂戴の話なら、そこらじゅうにごろごろ転がってるさ。わたしだってそうだ。たぶん、わたしは飲みすぎだ。だが、冷酷に四人もの人を殺すなんて真似は絶対にしないね」
特定の環境と特定の性格を組み合わせれば、起こる確率は上がるかもしれないが、必然性からははるかに遠い。そうだ、確率ないし統計の問題なのだ。犯罪の発生しやすい環境というものはつかめるだろう(国別、地域別の犯罪率の違いがあるのだから)。犯罪をしやすい性格というものも想定できるだろう。だが、特定のこの人間が特定のこの犯罪をなすという予測は、今のところ科学であってもなしえない。地震予知と同じだ。起こった後から説明はつくが、いつどこで起こるか確かなことは何も言えない。だから、個々のケースを描いてみても、理解ということとは関係ないのだ。もし理解というものが問題解決へのステップであるならば、犯罪をなくすために個々の犯罪者を理解しようとすることは虚しい試みである。
犯罪を描くことが好まれるのは、復讐の感情と謎解きの興味からではないか。犯罪者は罰せられなければならず、そのためには犯罪が暴かれなければならない。犯罪者は罰を免れようとするので、彼らを追いつめるための知恵比べが起こる。それが興味を引き起こすだけなのだ。犯罪を描いたからといって、起こったこと以上の何かが理解できるわけではない。
真実ということで事実以上のことを生みだす手品みたいなことにはならない。真実という言葉でモデルケースのようなものを思ってみても、事実と空想の違いを超越しえないのだ。だから、『冷血』に対しても、小説だと受け取って事実との相違を気にしないか、ドキュメンタリーと信じて事実の確からしさに寄りかかるか、その二つのどちらかを選ばなければ、安定感は得られない。
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とはいえ、物事はそう簡単ではない。事実の絶対性の援護を受けながら小説的技巧を振るうということは可能であるからだ。ただし、その場合、事実から離れないという大きな制約を受けるという誠実さが必要となり、事実との齟齬が分かれば作品に大きなダメージを与えてしまうことになるだろう。むろん、事実というもの自体あいまいなところがあるから、その齟齬を判定することは困難である。だとすれば、その確からしさは小説的技巧にかかるということになるのかもしれない。『予告された殺人の記録』(G・ガルシア=マルケス、1981年、野谷文昭訳、新潮社、1983年)は私に疑いを抱かせなかった。
逆に、ドキュメンタリーに見せかけて物語を作るという方法もある。映画『ファーゴ』(イーサン・コーエン製作、ジョエル・コーエン監督、1996年)は犯罪物語として面白かった。私はこれは実話だと称する映画のトリックに騙されてしまっていた。映画というのは、映像による再現が新たな現実となって、事実との違いが気にならなくなってしまうのかもしれない(映画の『冷血』もレンタルDVDで見たのだが、原作の存在が邪魔をして実話性を感じられなかった)。ともかく、そういうこともあるのなら、事実と虚構についての区別は、私が気にするほど明確ではないのだろうか。
私たちは事実と嘘の区別にこだわりながら、簡単に騙されてもしまうのだ。しかしながら、騙されまいとして嘘を見抜く鋭敏な感覚も備えている。『冷血』の語り口には、話を平凡な事実から離陸させようとする意図が透けて見えるのだ。わざとらしさというか、臭みというか、そのためには平気で事実を曲げてしまうような無神経さを感じる。小説形式をとっていようとどうであろうと、ドキュメンタリーの要点は、読者が作者にどの程度誠実さを期待できるかにあると私は思う。カポーティを信頼できなかった私は、『冷血』をドキュメンタリーとしては読めず、さりとて小説とも扱えず、困惑した。だから感動できなかった。評価もできない。