霧ヶ峰
霧ヶ峰に初めて行ったのは、高校の林間学校でだった。1962年の夏のことだ。白樺湖に泊って、車山まで登った。ニッコウキスゲの花盛りだったことを憶えている。高校を卒業した年(1965年)の春、友達と二人で旅行の計画を立て、美ヶ原から霧ヶ峰のコースを考えたが、まだ雪があってとても無理だと分かり、四国に変更した。今から振り返ってみると、ビーナスラインの霧ヶ峰区間(白樺湖から美ヶ原)が着工されたのは1966年だから、霧ヶ峰を通る道路はなかった時期のことである。強清水には早く1954年にバスが通じていたらしいが、八島や車山方面に自動車道は延びていなかった。
霧ヶ峰線(白樺湖から強清水)は1968年に開通した。その年に霧ヶ峰線の延伸となる八島線(強清水から和田峠)への反対運動が起こり、その結果同線は旧御射山遺跡、八島湿原を迂回する経路変更がなされ、1970年に開通した。その反対運動を描いたのが新田次郎の『霧の子孫たち』(1970年)である。
1971年、大学の夏休みに、友達(高校時代とは別の)と二人で美ヶ原から白樺湖まで歩こうとした。どういう経緯かは忘れてしまったが、高校卒業のときの計画中止が心に残っていたのかもしれない。そのときはビーナスラインのことも反対運動のことも知らなかった。夜行で着いた一日目は、松本からバスで王が鼻まで行き、美ヶ原を横切って、山本小屋のテントサイトにテントを張って泊った。予定では次の日も歩く予定だったが、荷が重いせいもあって初日にバテてしまい、八島までバスに乗った。ビーナスラインの美ヶ原線(和田峠から美ヶ原)はまだ開通していなかったから、バスはいったん和田まで下って、再び和田峠に登る。和田峠からは出来たばかりの八島線で八島まで行ったことになる。一本で行けたのか、どこかで乗り換えたのかを含めて、途中の経過は憶えていない。その日は八島のテントサイトにテントを張り、八島湿原を一周しただけで終わった。三日目は車山を越えて白樺湖まで下り、船で渡った対岸のテントサイトに泊った。
ビーナスライン霧ヶ峰区間(当時は有料)が全面開通したのは1981年である。美ヶ原線でも反対運動があって工事が遅れたのだ。私はその後霧ヶ峰には何回か行ったが、いつも車でビーナスラインを通るだけなので、車山の肩と八島湿原しか歩いていない。霧ヶ峰はそれだけのものと思い込んでしまうようになっていた。
先日『霧の子孫たち』を読んだ。この作品のことはずっと前から知っていた。私は新田次郎のファンであると言っていいだろうが、この作品は何となく異質な感じがして敬遠していた。久しぶりに霧ヶ峰を歩いてみようかと思ったのがきっかけで、読んでみたのである。小説ではあるが、ドキュメント的な内容であるので、事実として知ることがあった。旧御射山遺跡がかなり大きなものであること、奥霧ヶ峰といわれるところに地道ではあるが車道があるのは農地開発の名残であることなど。だが、この作品は反開発の姿勢が強すぎるせいか、強清水や池のクルミを中心とした観光開発については触れられていないので、霧ヶ峰については期待したほどの知識は得られなかった。
『霧の子孫たち』に表明されている新田次郎の自然保護観には、私は全面的には賛成はできない。自然景観を観光の対象とすることについて、私はもっと柔軟な見解である。人々が豊かになり、観光に時間やカネをかけることができるようになっているのだから、観光開発が進むのはむしろ好ましいことである。人々が自然観光によって得るものが、一部の人の「高級な」趣味によって得られるものより劣っているということはない。いわゆる自然破壊と観光開発の妥協点を具体的に検討していくことが重要であって、原則開発阻止というのはナイーブすぎるのではないか。
そもそも、霧ヶ峰の主たる景観である草原は、「火入れ、放牧、採草」などの人為的な介入によって形成されたものである。それがなくなれば森林化が進む。現に、この作品で新田次郎が保護を訴えているレンゲツツジは森林化の走りであるようだ。森林化の阻止が観光によって正当化されるならば、観光は霧ヶ峰の景観を守ることになる。
道路(登山道なども含めて)や宿泊施設が自然に与える影響は確かに大きい。その影響のコストと観光によって得られる利益を比較することが、まず考えられよう。しかし、自然に対する人為的な影響は長期的で広範囲であるし、それらを全て把握するのは不可能と言っていい。だから大雑把な見込みなってしまうだろうけれど、かけたコスト(自然に与える影響)をはるかに超えるほどの観光客の総満足が得られるかが問題であろう。
今年(2013年)の夏、霧ヶ峰インターチェンジに車を置いて、車山、蝶々深山、八島湿原と回ってみた。リフトのある車山と八島湿原の近辺以外は静寂で、車山から蝶々深山経由で八島湿原へいたるコースでさえ人はまばらだった。8月下旬の平日だったせいもあるだろう。もっと早く、ニッコウキスゲが咲いている頃なら人が多かったのかもしれない(ニッコウキスゲは電気柵で鹿の食害から守られている場所以外はあまり見られなくなったようだが)。
車山へのコースとして通り抜けた霧ヶ峰園地や、旧御射山遺跡から沢渡を経て園地に戻るコースでは誰とも会わなかった。シーズン中でもにぎわうようなことはないだろう。手軽に観光できるようになったために、観光スポットから外れたところはかえってさびれてしまうのだ。また、この園地のように、観光用に整備されても、観光客が苦労して見るだけの魅力を感じなければ、見捨てられてしまうのだ。
その意味では、ビーナスラインが霧ヶ峰と美ヶ原を結んだのは間違いだったと私は思う。ビーナスラインが両者をワンセットにしてしまったので、両方ともに十分な時間を割けなくなったのだ。ビーナスラインが強清水で途切れていたら、そこを拠点にして周囲を観光するために時間をかけざるを得なくなっていたろう。美ヶ原もまた単独で観光する時間を当てられるようになっただろう。両者を一緒にしなければならない理由などないのである。
とはいえ、観光客は急いで霧ヶ峰を通り過ぎてしまうので、考えようによってはビーナスラインのおかげで特定の場所以外は荒らされずにすんでいるのかもしれない。私にしてもそういう観光客の一人として、霧ヶ峰の中へ分け入ることはしないでいた。例えば、ビーナスラインの出来るまでは霧ヶ峰観光の中心であった強清水や池のくるみ(踊り場湿原)でさえ、見知ったのは最近のことである。
一般的に、有名な場所はどこでもハイカーが多いが、以前に比べてマナーは向上していて、植物の採取やごみの投げ捨てはほとんど見られない(むしろ、本格的な登山者と自認しているような連中の方が、排泄物をまきちらしているのではないだろうか)。歩く範囲も守られ、保護域に入り込むような人はめったにいない(ただし、写真を趣味にする人の中には、道を占領して通行の邪魔をしたり、道以外のところに平気で入り込むようなのがいる)。登山道によって荒らされる部分はあるけれど、それだけでとどまっている限り許容されるのではないか。
自然へのアプローチをどれだけ容易にするかという点に関しては、立場や考え方の違いで合意を得るのは難しいかもしれないが、観光客が行けるところと、それから先はある程度の装備と経験が必要とされるところの境界を意識的に、そして段階的に設置することが望ましいのだろう。