アンとアンナ
1
私は『赤毛のアン』全十巻を読んでいる。すなわち、原題が『グリーンゲイブルズのアン』である『赤毛のアン』(ルーシー・モンゴメリ、1908年、村岡花子訳、三笠書房、1956年)から、『アンの娘リラ』(同、1919年、訳同、新潮社、1959年)まで(原著の出版順では、『炉辺荘のアン』が1939年で一番遅いらしいが)。これは人を感心させることではないかもしれないが、同じ経験を持つ人は少なくないはずだ。『赤毛のアン』の原著の出版から百年以上過ぎている。いまでも広く読み継がれているのかどうか分からないが、人を引き付けるものがあることだけは確かだ。
あるとき、極端に落ち込んで何をする気も起きないでいた私は、たまたま『赤毛のアン』を読み返してみた。このような世界を久しく忘れていた。マリラやマシュウやダイアナやギルバートやレイチェル・リンド夫人など、アンをめぐる人々の優しい気持ちに打たれて、涙さえ出た。このような世界を単にセンチメンタルであるといって片付けてしまっていいのだろうか。
確かにアンの世界は限定的である。思いつくままに限界と思われる要素をあげてみる。
1 登場するのは善意の人ばかりである(むろんこの世の常として意地悪はいるが)。
2 醜いあひるの子である主人公の幸運は約束されている。
3 叙述が日常生活レベルでしかない。
4 扱われている感情や思考が感傷的である(3と4を言い換えれば、常識的であり、深みがない)。
5 文体が陳腐である(英語でもそうなのかは私には不明)。
6 個人を越えた社会的状況が切り捨てられている(ただし『アンの娘リラ』は第一次大戦の銃後の物語として描かれているが)。
このような点に不満を持つ人は『赤毛のアン』を読んでも感動しないか、批判的にならざるをえない。それはそれで仕方がない。だからといって、その点を直せば『赤毛のアン』がより優れたものになるかというと、それは疑問だ。アンの世界はそのような限界を持つゆえに魅力的なのである。もし『赤毛のアン』によって満足が得られないとしたら、違った物語を探さざるを得ない。物語と読者はお互いに相手を選ぶ。不完全な人間世界においては誰をも満足させるものなどない。
ちょっと思いついたのだが、NHKの朝の連続ドラマに似ているのかもしれない。この手のテレビドラマは特定の時代設定が伴い、社会性を帯びているように見えるけれども、実は時代劇とおなじようにある型にはめているだけなのだ(多くの場合、戦争をはさんだ前後の社会状況が描かれる)。それは安心して定型に頼れるからであって、問題を提起する気はさらさらないのである。
そこで、批評家にはやっかいな問題が生じる。作品の優劣は読者の数とどのような関係があるのか。逆に言えば、多くの読者に受け入れられたという明確な指標の他に、作品の優劣を左右する要素というものが存在するのか(本も他の商品と同じではないか)。
にもかかわらず、多数の嗜好とは関係なしに、優れたものと劣ったものが存在する。優れたものとは必ずしも多くの人を満足させるものではない(そうであったなら事態はもっと単純で済ませられるのだが)。優れたものとは優れているとされる人を満足させなければならない。事態を複雑にするのは、優れているとされる人(権威)の意見を聞かなければ判断に困る人がいるということだ。誰もが自分なりの判断を下せれば、何が優れているかの社会的合意など必要はない。
文学の権威は『赤毛のアン』を優れたものとは見なさない(世界文学全集に入れはすまい)。にもかかわらず、『赤毛のアン』は多くの読者を持っており、例えそれが少女たちであっても作品の優秀さを示す。不幸にも、文学の権威たちが求めるものと、作品の与えるものが違っているのである。それが通俗性を意味するのだろうか。
私はアンに似た名前の女性主人公のことを思い浮かべる。
2
大岡昇平が『現代小説作法』(文藝春秋新社、1962年)で、『アンナ・カレーニナ』の冒頭の文章を問題にしている。それはこういう文章である。
幸福な家庭はみな一様に似通っているが、不孝な家庭はいずれもとりどりに不幸である。(原久一郎訳)
この文章を、さすがに巨匠の至言であるとありがたがる人もいるようだ。だが、家庭の不幸というのはどれも似たようなものであるとも言えるし、また、家庭の幸福はそれぞれが独特なものであると言えるかもしれない、と大岡は反駁する。この文章はトルストイが後から書き加えたものらしい。大岡の言うように、これは真理としては疑わしい文章であり、こけおどしか仰々しい装飾とみなすこともできる。次に続く「オブローンスキイ家はひどくごたついた。」という文章から始めた方がよっぽどよかったのにと、大岡の影響そのままに私は思っている。
トルストイにいちゃもんをつけるつもりはない。『アンナ・カレーニナ』は傑作である。そんなことは私が言わなくても分かりきったことだろうが、私も素直に認めるものである。しかし、読んで面白いかとか、好きになるかとは、それとは別次元のことのようだ。
『アンナ・カレーニナ』を再読してみて、若いころになぜこの小説に興味を持てなかったかが分かった。感情移入できる登場人物がいなかったからだ。作者はレーウィンを推奨しているらしいが、彼をひいきにする気にはなれない。かといって、作者も冷淡に扱っているようであるアンナやウロンスキーには好意を持てない。そもそもなぜ作者がアンナを中心人物としているかが疑問に思える。彼女の生き方を賞賛する、あるいは彼女に同情する気はトルストイにはないようなのだから。
この世の中には好きな人物と嫌いな人物がいて、その他の人物はどうでもいいと思い込めるのが若さなのだ。好きでも嫌いでもないが、どうでもいいと無視できない人々がいることを知るのが成熟することなのだろう。トルストイがアンナを描いたのは、彼女を批判ないし非難するためではあるまい。彼女のようなことが、望ましいことではないけれども否定することはできない事実として現に存在するのが、世の中というものであることを表現したかったのではないか。
それにしても、トルストイの巧みさはどうだ。アンナとウロンスキーとキッティとレーウィンのからみ。ことに、ウロンスキーに振られて、その直前に振ってしまったレーウィンとの結婚を望まなければならなくなったキッティの立場の残酷さ。最初はうまくいかないが結局結ばれるというのは、恋愛を扱う小説にはよくあるパターンである。しかし、キッティの立場は微妙なのである。二人の男性のうち一方を選んだらその男性に振られてしまったという状況で、もう一人の男性を選び直すというようなことは心理的倫理的に容易なことではない。そういう危惧はあるものの、『アンナ・カレーニナ』がキッティとレーウィンの物語であったなら、私たちは彼らに肩入れすることができ、たとえアンナとウロンスキーの挿話があったとしても、彼らの不幸を当然のこととして安んじて受け入れられただろう。
だが、キッティとレーウィンはアンナとウロンスキーに対照するものとして描かれていて、一方が他方の欠陥を際だたせるのであるが、それは一方的ではなく相互的なのだ。キッティとレーウィンの関係は、アンナとウロンスキーの関係によって、完全性を蝕まれているのだ(それがトルストイの意図であったがどうか分からないが)。
アンナは嫌な女である。トルストイがなぜこのような人物を取り上げたかというと、周りから嫌な女だと思われることの理由を、当の本人が自覚していないことの悲劇を描きたかったからだろう。アンナは自分が正しいと思っている。たぶん、大方の人もそう(自分が正しいと)思っている。だが、多くの人は自分の正しさに固執することの不利を悟って、妥協することを学ぶ。アンナにはそれが分からない。正しいことを曲げてまで妥協することに何の意味があるのか。当然、アンナの正しさには自分の感情も含まれている。アンナが高慢ちきでわがままで思いやりに欠けるように見えるのは、自分の正しさを疑うことがないからだ。
さて、このような女によって一番傷つけられるのは、一番身近にいる他人、つまり夫ないし愛人である。アンナは家庭生活を破壊する女なのだ。アンナは賢明な女ではない。家庭生活を保つ秘訣は簡単なことである。妥協すること、理不尽だと思っても自分から折れること。しかし、それができないのだ。分かっていてもできないのだ。それがアンナの不幸であり、それは私たちにとっても無縁ではない。実際、キッティとレーウィンの家庭もそういう危機をはらんでいるのだ。
アンナが賢明でないというのは、言い方を変えれば(アンナに同情的な見方をするなら)うまく立ち回れない、もっと言えばずるくなれないということでもあろう。納得できないのに相手の言い分を認めるというのは不誠実ではないのか。賢い人なら些細なことは譲って、重要なことでは妥協しないようにするのかもしれない。では、何が重要なのか。損得にこだわる人は、「名を棄てて実を取る」という行動が可能だろう。しかし、心情や主義にこだわる人なら、たとえ些細なことであっても、自己の統一性を危うくするような妥協は耐えられない。そういう行動は自分を失うことになるから受け入れることができないのだ。
アンナは特別な女なのだろうか。女一般のある側面が表現されていることは確かだが、普通の女とは言えまい。では、もう一人の特別な女であるアンとはどう違うだろうか。
3
アンとアンナに対する私たちの感情移入には大きな違いがあるようだが、奇妙なことに、二人には共通の性格(他に適当な言葉が見当たらないのでこの言葉を使うのだが)があるという見方も出来そうなのだ。アンの後身がアンナだとさえ言えるかもしれない。
アンの物語で奇妙なのは、ギルバートの存在が希薄なことである。授業中にアンの髪の毛を引っ張って「にんじん」と言ったためにアンに石版を頭に叩きつけられてから以後、ギルバートはひたすらアンにつくすだけで、結婚後は影の薄い夫としてしか存在していない。二人の家庭生活にいさかいごとは生じることはないが、それはギルバートがアンの引き立て役に徹しているからである。だから、アンの夫婦生活には書くべき物語は起きない。
アンナとカレーニンの生活も同じようではではなかったろうか。カレーニンは妻との衝突を回避しようとする弱気の夫のようである。アンナはカレーニンとの結婚によって十分に満たされることはなかったにしても、ほどほどの幸福感は得ていたはずだ。アンナがその生活を維持することに満足していたら、アンナ・カレーニナは物語にはならなかった。アンナはウロンスキーと生活するようになってから、彼とやり合うようになる。ウロンスキーはカレーニンと違って屈服できる男ではない。
アンとアンナの二人を表現する言葉として自己中心的というのはきつすぎるだろうが、自己主張的、非妥協的というのなら容認されるのではないか。この性格は恒常的な人間関係を築く際に障害となる可能性がある。意見の対立があった場合、あくまで自分の意見に固執する人と、人間関係の保持を第一にして妥協する人がいる。固執する人と妥協する人の組み合わせなら対立はおさめやすいが、双方ともが強硬であろうとするなら危機となる。そういう実例には事欠かない。
ちょっとしたことが原因でケンカになり、どちらかが折れれば仲直りできるのに、お互いに意地を張って交渉を断ってしまう。何かのきっかけがあれば元の関係に戻ることは受け入れられても、自分の方から呼びかけることは負けを認めてしまうことになるので絶対にしない。そうしているうちに時間がたっていく。相手の強情さに腹が立ち、作戦にしろ本気にしろこちらを無視するつもりなら、こっちも相手のことなど気にしていないと思わせねばならない。さらに時間がたち、怒りが全てを呑み込んでしまい、本当に相手が嫌いになってしまう。
恋人たちがそういうことで別れてしまう物語はよくある。たとえ些細なことであっても、折れた方は弱みを見せたことになり、それがその後の二人の関係を形作ってしまうだろう。一度折れた方は、せっかく取り戻したものを再び失うことを恐れて、同じような状況になったらまた折れざるを得ないだろう。そこで非妥協的になって争いを蒸し返すことになったら、最初に折れたことが無駄になってしまうのだから。それゆえ、これからずっと折れることを覚悟するのでなければ、最初に折れない方がいいのだ。そういう覚悟もなしに折れるくらいだったら、最初から決裂した方がいい。些細な理由であっても、そこで妥協できる関係でなければ、重大な理由の際にだって妥協できないだろう。二人は性格的に合わなかったのであり、別れることは必然だったのだ。
もちろん、結局は仲直りして、お互いに誤解していたことを了解し、二度とそんなことにならない関係を築くという物語もある。しかし、それは一方が他方に服従することを受け入れた結果なのだ。アンとギルバートがそうであり、有名な例をあげれば『高慢と偏見』もそういう物語である。女性にしてみれば、障害を乗り越えて征服した男性は理想的なのであろう(もちろん男性でもそうであり、これを裏返したような物語はごまんとある)。
しかし、この関係にはねじれが含まれている。現在でも解消されたとは言い難い、男女の役割期待の問題である。「亭主関白」と「女房の尻に敷かれる」というような、一見、男女のどちらもが主導権を取れそうな言葉はある。しかし、決断・決定は夫が行い、妻はそれに従うというのが通常の型とされていて、そうでない場合は揶揄の対象となる。たとえ実質的には妻が主導していても、夫が決定権を握っているように見せかけるのが良妻なのだ。だから夫を差し置いて出しゃばるような妻は、「女賢しゅうして」と糾弾されるのである。
気の強さは男性に特徴的な性格であるかもしれないとはいえ、気の弱い男性がいるように、気の強い女性もいる。そして、物語の主人公に備わっていそうな性格というのは、強気の方なのだ。アンがそういう性格であったにもかかわらず読者の反発を呼び起こさないのは、周りの人といざこざを起こしながらも、最終的には彼等の理解と支持を得る(征服する)からだ。そういう風に描かれているからだ。誰もアンには勝てないのである。そして、常勝であるからこそ、アンは他人を真に害さず、他人からも真に害されないので、醜くならずにすんでいるのだ。そういうアンを読者は愛するのである。
一方、アンナはそういう都合のいい他人に囲まれているのではない。アンナの乗り越えるべき障害は堅固すぎるのだ(現実がそうであるように)。当然、アンナはそれらにぶち当たって砕けざるを得ないのである。『アンナ・カレーニナ』にトルストイの経験がどの程度反映しているかは分からない。また、この作品で彼が何を訴えたかったかも(訴えたいことがあるのであれば)それほど明確ではない。ただ、人生には妥協も必要だという実生活の知恵めいた平凡なメッセージは読み取れるのである。しかし、それを実践することこそが難しいことは、彼の最後が示している。