井本喬作品集

因果と確率

 『マネーボール』(マイケル・ルイス、2003・2004年、中山宥訳、早川書房、2013年)を読みながら、こういう統計処理は野球のように同じようなことが何度も繰り返して起こる事象だから有効なのだろうと考えていた。つまり、一般生活には適用できないのだろうと。しかし、読んでいくうちに、まてよ、と思った。

 この本は、メジャーリーグの球団オークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーンが、その革新的な球団運営によって比較的低い費用で高い勝率をあげていることについてのドキュメントである。ビリーの方法の特徴は、選手のプレーのデータを分析して、従来とは違った評価をすることにある。例えば、打撃率よりも出塁率を重視する。それゆえ四球を高く評価する。バントや盗塁はアウトカウントを増やすだけなので作戦として採用しない、など。

 そもそもこの本を読んだのは、先に、ブラッド・ピット主演で映画化されたものを見たからだ。原作の描き方と映画のそれとが違うことが分かってくると、奇妙な感じに捕らわれ出した。原作の描写はいわば「分析的」であり、野球におけるビリーの方法に相当するとすれば、映画の描写は「劇的」であって、ビリー以外の野球人の方法になるのではないか。野球の見方に二つの方法があるように、野球に関わる人間たちについても、野球を見るのと相似形に、二つの見方がある。だとすれば、一般生活を見る方法にも、野球の場合のように違う見方が可能ではないかと気がついたのだ。

 一般生活も野球のように、同じような繰り返しが起こっている。次元が多様で統計処理は難しいだろうが、それは程度の問題であって、本質的な違いではないだろう。では、なぜビリー・ビーン的方法が採用されないのか。理由は簡単で、コスト・パフォーマンスが悪いからだ。それだけの手間ひまをかけても期待される収益はわずかである(ただし、大きな収益が得られるというまれな実践例はあるだろう)。

 とはいえ、私たちは状況の認識を行動に結びつけることは常に行っているから、その効率性を改善させようとはしているはずである。私たちが長期的には人生、短期的には日常生活を見るやり方が、あり得る中で非効率の方に偏っているとすればおかしなことである。あるいは、いったんある効率的な方法が選ばれた後、慣習化されてただ単に継承されていて、革新されないでいるのかもしれない。そういう一般生活における状況が、野球という分野でより明確にされたとも、この作品を解釈できるのだ。

 さて、それはどういうことなのか。観客としての私たちは野球の途中経過に一喜一憂する。しかし、勝負ということで言えば、それは無駄なことだ。途中経過がどうであれ、結果が全てなのだから。ぬか喜びや早過ぎる悲嘆は必要のない反応である。終わってみないと全体的な見通しは得られない。しかし、結果だけを知りたいならゲームを見る必要はないだろう。私たちがゲームを見るのは途中経過における感情の動きを経験したいからだ。むろん、勝敗の結果も大きな感情を引き起こす。ただ、突然知らされるより、途中経過を追って行った結末としての方が、結果を受け入れやすいのではないかとも考えられる。

 ゲームのプレイヤーにとっては、一つ一つのプレーの積み重ねが勝敗につながり、一戦一戦の勝負がシーズンの成績を決めるのだから、そこに感情的反応が起こるのは当然と言えよう。観客はプレイヤーとは立場が違っても、一体化して同様の感情を起こす。成功は喜びをもたらし、失敗は落胆と後悔を引き起こす。私たちは目前の課題に取り組み、課題の解決は感情的報酬に結びついている。つまり私たちの動機は感情であり、感情は直近的な状況に強く結びついているので、長期的視野を取りにくいのだ。だから、プレイヤーの評価においても、個々のプレーを因果論的に見て、短期的な結果のよしあしで判断しようとする。

 しかし、一つ一つのプレーを個別に評価してそれが勝負にどの程度貢献しているのかを判断するとき、偶然的要素を考慮しないと実践的な操作の有効性にはつながらない。偶然を取り入れるには確率論的な思考が必要なのだ。そういう思考をつきつめれば、「ホームラン以外のフェア打球は、ヒットになろうとなるまいと、投手には無関係なのではないか?」「いままで投手の責任とみられていた部分が、じつはただの運なのではないか?」というボロス・マクラッケンの仮説(訳書357-8ページ)にまでいたる。確率論的な思考のためには多くのデータを分析しなければならない。一つのプレー、一つのゲームだけでは何も言えない。だが、こういう思考は私たちには苦手なのである。私たちの基本は因果論的思考なのであり、それは感情とも結びついているので納得しやすい。

 野球に関するこの二つの方法が、原作と映画におけるビリー・ビーンの描き方の違いに相似的に反映しているように思える。原作のビリーは、野球の新たな見方(統計分析)によって従来とは違った観点から選手を評価しようとする革新者・破壊者である。彼は感覚的、情緒的な判断を排し、知的な操作の有効性を実証しようとする。したがって、読者の興味も知的な方向に傾斜する。むろん、因循な既得権者に対立する彼や、それまで真に評価されなかった選手たちの物語は、私たちの感情に訴えはする。ビリー自身も感情に捕らわれやすい人間である。しかし、勝つためには知的でなければならないということを徹底しようとする彼の姿は、私たちの感情パターンとの安易な同調を拒んでいる。確率的な結果を期待する場合には経過に捕らわれることを避けねばならない(ビーンが試合を見ないようにしているように)。私たちもビーンに見るべきなのは、予算やドラフトやFAやトレードなどのシステムの制約の中でいかにうまく(賢く)選手を集めるかということであり、個々の選手の個々のプレーに介入することではないのだ。

 一方、映画に描かれたビリーは、困難さを乗り越えていくヒーローである。彼はうまくいかない原因を把握し、それに働きかけることでよい結果を得る。因果関係が明確なのだ。そのため、映画では期間を2002年の一シーズンに圧縮して短期的な視点が取りやすいようにし、原作にはないエピソードでつないでいく。インディアンズからポール・デポデスタを引き抜いて彼のデータ分析による新たな選手評価を手にする。その評価に基づいた選手獲得を実践し、反発するスカウトを切ってしまう。指示に従わない監督にビリーの方針通りの選手起用を強制するために、監督の使いたがる選手をトレードに出す。敗戦続きなのに試合後にロッカールームで浮かれている選手をチームから追い払ってしまう。ベテラン選手に若手選手の指導を依頼する。これらは私たちには分かりやすい。ビリーが適切な手を打ち、チームを勝利に導く。

 しかし、そういうビリーに感情移入してしまうのは、原作が目指したビリーの異端性を見失わせることになってしまうのではないか。むろん、本に比べて映画は複雑な理論を詳しく描写することが難しく、観客もそれを望んではいない。そもそも映画は観客に知的になれと訴えかけたりしない。映画が作り上げるのは困難を克服して成功するヒーローなのであり、観客はストーリーの妥当性を検討するために映画を見るわけではない。もちろん、原作にも、ビリーのヒーロー性は含まれている。ドキュメンタリーであろうと、多くの読者を獲得するには劇的な要素があることが望ましい。そうでなければ、そもそも誰も描こうと思わないだろう。それでも、彼の異端性が劇的な要素を必然的に持ってしまうとしても、本においては知的な興味を排除することはない。

 さて、叙述の次元をもう一段変えてみて、私たちの生活の見方にビリーの理論が適用できるかどうかを考えてみよう。先に述べたように、コスト・パフォーマンスの問題はある。しかし、それだけが大きな問題であるのではない。目的が明確であるなら、ビリーの手法は比較的使いやすいと思われる。だが、私たちの目的とは何だろう。生きることの目的。確かに目的はあるが、それは私たちのものではない。私たちはその目的を達成するために、短期的な動機を植え付けられている。いわば、目の前にぶら下げられた人参につられて、ある方向に導かれているようなものだ。私たちは感情、情動、欲望にせかされて行動する。それが私たちの日常だ。つまり統計的な分析は必要ないのである。というより、統計的な選択にさらされて私たちは今のようになった(遺伝的進化)。それ以外に私たちの存在理由はない。だから、私たちは自分たちの日常を映画のストーリーのように理解している。もし、経過には何の意味もないと思わされ、目的を達成するために適切な行動のみを評価して実践するように仕向けられたとしたら、私たちは何をすべきか分からなくなるだろう。

 だから、ビリーの方法は限られた分野でしか適用できないのである。

[ 一覧に戻る ]