井本喬作品集

路上の昼食

 どんな集団にもスケープゴートの役割をはたす人間はいるものだ、とは小利巧な文化人類学者からの受け売りだが、僕らのグループでは加藤がまさにそうだった。そもそも彼のような男が僕らの仲間の中にいること自体が変だった。

 僕らはみんな芸術家志望だった。結局は若さのもたらす幻想だったとしても、僕らは野心的であり、才能を信じ、未来を信じていた。僕らの創り出したものがいかに貧弱であろうと、他人の評価が僕らを打ち倒すことはなかった。作品などはどうでもよかった。僕らの存在自体が芸術の可能性であり、可能性というものは立派な一つの現実であった。

 芸術家になるのは難しかったが、芸術家ぶるのは簡単だった。僕らは生活においては既に芸術家だった。つまり、でたらめだった。僕らの突飛さは、ほとんどはカネのなさが原因だったが、芸術家としてゆるされるものだと思っていた。

 加藤は外観からして僕らと違っていた。髪はいつも刈っていた。むろんヒゲはない。服装はきちんとして、こぎれいで、そして野暮ったかった。僕らは薄汚いかっこうはしていたが、他人の目にどう映るかは充分考慮にいれていた。気に入ったものしか着ず、着潰すまでは同じかっこうでいたのは、他に着るものがなかったせいでもあるが。

 酒を飲んでも加藤は決して乱れることはない。ケンカを吹っかけられれば、明らかに相手に非があっても謝った。勘定はきちんと自分の分は払う。不心得者が彼を置き去りにして逃げてしまうと(よくあることだったが)、後からその分を請求した(むろん、決して支払われることはなかった)。カネを貸してくれと言われれば、気恥ずかし気に今はこれだけしかないのだけれどと弁解し、それでもいいと取り上げられてしまう。おずおずと返却を求めれば、うるさいなあとあしらわれてしまう。

 要するに、加藤は真面目で優しかった。あまりに真面目すぎ、あまりに優しすぎた。お前が嫌いだと面と向かって言う相手(まれではなかった)にも、にこやかな顔つきを消すまいと努力していた。抜けていたのではない。それどころか知識は相当なものだった。僕らは度々彼に間違いを指摘された。その度に、そんなことはしなければいいのにと僕らは思ったのだが。

 僕らは彼を馬鹿にし、冗談の種にし、多くの場合無視した。彼は自分が邪魔もの扱いされているのに気がつかぬかのように(気がついていたのだと僕は思う)、僕らから離れようとしなかった。

 才能に関していえば、僕らにさえ加藤のひどさが分かった。熱心さでは彼は誰にもひけをとらなかった(もっとも、僕らの大部分は怠け者だったが)。これほどの情熱がこれほどの拙劣さと結びつくのは、滑稽や悲痛を越えて、人をげんなりとさせる。だからこそ僕らは彼を嫌った。そこに僕ら自身の姿を見ることを恐れたのかもしれない。

 僕らの仲間の女性は、芸術家ぶることに関しては男に負けていなかったから、誰とでも寝ることを義務としており、その点に関しては僕ら男どもは恵まれていた。しかし、男に関しては博愛主義の彼女達も、加藤に対してだけは冷たかった。大ボラふきの飲んだくれさえ、芸術という同じ神につかえる身であるなら、彼女達は寛容であったのに。加藤は女には興味を示した。惚れっぽかったといっていい。彼は次から次へと恋をして、ふられた。僕らはただ寝るだけなのに、彼は恋をしたいらしいのだ。むろん僕らだって取った取られたのトラブルはしょっ中だったが、それは、女に関してはカネほどには共有意識を持てないからだった。

 最近加藤が恋しているのはパン屋の売り子だった。これも彼の変わったところなのだが、彼は世間の人と同様日曜を休息日としていて、朝遅く起き(といっても僕らのいつもと同じぐらいの時刻だが)、朝昼兼用の食事としてパン屋でパンを買って歩きながら食べ、僕らのたむろしている店へやって来る。この日課は破られたことがなく、パンの種類と食べる順序まで決まっていた。最初にクロワッサン、次にチョコレートパン、最後はハムロールパン。そのパン屋にかわいい娘がいて、加藤は彼女の笑顔(客用のだが)を見、声(これも客用)を聞くのが楽しみだった。彼女との交渉はパンを注文しカネを払う以上は進行しなかったが。

 加藤がパン屋の売り子に恋をしているのを知って、興味を起こしたのは浅井だった。彼は鉄の棒や板を切ったり曲げたり引っつけたり削ったりしていた。時には木や石や粘土などにも手を出したが、得意とするのは金属だった。もう一つ彼が得意としているものに女があった。

 ある日のこと、例のごとく僕らが集まって飲んだくれている席で、浅井はパン屋の売り子を陥落させた話題を肴として提供した。彼にしてみればしごく簡単な仕事だった。浅井はその娘には何の魅力も感じていなかったのだが、ただ加藤が恋しているという理由だけでちょっかいを出したのだ。僕らは浅井の話し振りを楽しんでいるように笑ったが、その笑いは加藤に向けられたものだった。それを知ってか知らずか、いつものように加藤は静かに浅井の話をきいており、善良そうな笑いを浮かべるだけだった。

 そのことがあってからも、加藤のパン屋通いは変わらなかった。彼の卑屈な心は、恋の勝者となることはあきらめても、いくばくかの好意を期待することはやめないらしかった。

 そこで植村がいたずらを考え出した。パン屋の売り子を使って、加藤のパンの中に何かを入れてやろうというのだ。植村はエアブラシを使った超写実的な絵や、引き伸ばした写真を再現する微細模写の絵などで腕のよいところを見せ、イラストなどの仕事もしていた。技巧は水準以上だったが、センスがなかった。彼の手法では技巧だけなら看板書きと何ら変わりなくなるのだ。

 僕らは相談し、下剤を選んだ。パンを食べ終わって加藤が店へ来たなら、誰かがトイレを占領してしまい、加藤がどんな反応を示すか面白がるつもり。下剤は甘さで味をごまかせるチョコレートパンに入れることにした。

 いたずらの実行の日、僕らは加藤を待った。彼がいつも店に現れる時刻に、表が騒がしくなった。出てみると、道路に人が倒れ、やじ馬が取り囲んでいる。倒れているのは加藤だった。彼の体の下からパンの入っていた袋が半分はみだしていて、それは空だった。手には食べかけのチョコレートパン。誰かが呼んだのだろう、救急車の音が聞こえ出した。僕らはチョコレートパンを気にしていた。加藤が落としてくれれば、溝にでもけり込んで知らぬ顔ができるのだが。しかし、パンは加藤とともに救急車に収容されてしまった。

 僕らは店に戻り、ひそひそと話し合った。あいつは死にかけていたぜ。一体何を呑ませたのだ。パン屋の売り子がとんで来た。彼女はヒステリックに浅井を責め、僕らは彼女を鎮めるのに苦労した。疑いは浅井と植村にかかった。植村が薬を調達し、浅井が娘に渡した。娘だって怪しいと誰かが言い、娘の興奮を再発させてしまった。

 警察沙汰になるのは間違いない。みなは恐れをなした。無免許運転やマリファナを吸うぐらいは誰でもやっているが、殺人なんてごめんだ。大体あんないたずらを考えた奴が悪い。何を言う、みなも喜んで賛成したではないか。醜い仲間割れ。

 みなの動揺と混乱をしばらく放置したのち、僕は口を切った。

「たぶん、あれは青酸性薬物による中毒だ。下剤がすり替えられたんだ。誰がやったのか。このいたずらの企てを知っていたのは僕らだけだ」

 僕はみなを見回した。

「植村、君は加藤に借金をしているそうだな。そもそも、今度のことのきっかけとなったいたずらは、君の発案だ」

「冗談をいうなよ、借金は返すつもりだった」

「そうかな。加藤は相当無理をしてカネを作ったようだ。君に返す気がないなら君の仕事の注文主にかけあうつもりだったらしいぞ。君の立場はそんなトラブルに耐えられるほど安定的ではあるまい。それに、君は写真屋から薬物を手に入れることが出来たはずだ」

「とんでもないいいがかりだ。毒物なら、誰だって手に入れられる」

「そうだな。浅井、君にはメッキ屋からのルートがある」

「何を言い出す。何で俺が加藤を殺さなければならない」

「女さ。加藤が君を恨んで脅迫したかもしれない。後援者のあの女性に君の放蕩ぶりを密告するとか、君の相手の誰かの夫に言いつけるとか」

「それだけでは人を殺す理由にはならない。第一、加藤が俺をおどしたりするものか」

「そうだろうか。今まで僕らは加藤をいじめつくしてきた。彼には何の落度もないのに。彼の責任といえば、ただいじめられやすかったというだけだ。僕らに後ろめたさがないはずはない。加藤がこれ以上追い立てられることに我慢ができなくなり、自暴自棄的に反撃する、そういう恐れが僕らになかっただろうか。そんな僕らの心が彼に投影されれば、加藤はひどく危険な存在に見えてくるだろう。僕ら自身の邪悪さの限りなさのゆえに」

 みなの反応を確かめるために僕はしばらく待った。

「さっき倒れている彼を見たとき、チョコレートパンの食べかけだけがあって、他のパンはなかった。他のパンは先に食べてしまったのだろう。ところで、彼はいつもパンを食べる順番を決めていた。クロワッサン、チョコレートパン、そしてハムロールパン。しかし、今回はチョコレートパンを最後に回した。なぜだろう」

 みなは怪訝そうに僕の次の言葉を待った。

「君たちは気がつかなかったかもしれないが、加藤は絶望していたんだ。自分の才能と、自分を受け入れてくれないこの世の中に。だから、恋している女性と友だちに裏切られて、卑劣ないたずらの対象にされたのを知ったとき、自分の死によって復讐することを決意した。そして、チョコレートパンの中に毒物を入れて僕らを殺人容疑者にした。あの三つのパンは彼が地上で食べる最後の食事だった。だから、みんな食べてしまうために順番を変えて、チョコレートパンを最後に回したのだ」

 みなの悔恨を待って、僕はつけ加えた。

「幸いなことに、さっき病院に確認したら、加藤の命は助かるそうだ」

 しばらく続いた安堵の沈黙の後で、浅井が言った。

「でも、なぜ加藤はチョコレートパンの中に下剤が入っていることを知っていたのだろう」

 僕は答えた。

「僕が教えたんだよ」

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