意識は流れているのか
『灯台へ』(ヴァージニア・ウルフ、1927年、鴻巣友季子訳、河出書房新社、2009年)を読んだ。面白かった(と言えるだろう)。カッコ書きを付け加えねばならないのは、もやもやしたものがあるからだ。こういう書き方(手法)を理解しながら読むのは好きである。なにしろ、『ユリシーズ』だって面白いと思い込んで(実際は退屈しながら)読んだのだから。
こういう手法は日常の細かな描写に適用されるのが常套らしく、なぜなら劇的な展開の場合は邪魔になってしまうからだろう。いわば装飾のようなものだ。建物の大きさや構造を把握しようとするとき細かな装飾は無視されてしまう。装飾の巧みさに目を奪われるときには建物全体についてはとりあえず保留されてしまう。装飾が過剰なときはそれを担っている建物自体は単純である方がいい。
だが、こういう決めつけは正しいだろうか。
ヴァージニア・ウルフについてはほとんど知らなかった。トマス・ウルフが夫だと思い込んでいたくらいだ。『ヴァージニア・ウルフなんか恐くない』という映画(マイク・ニコルズ監督、1966年)は見た。彼女は欧米のインテリには有名なんだろう。『灯台へ』が代表作であることは知っていた。みんなで灯台へ行くという一日を描いたものだろうと見当をつけていた。断崖の傍の道を通って、岬の外れの灯台へ。灯台を見に行った私の経験はほとんどそうだったから。しかし、この作品の中の灯台は島にあり、船を使わねばならないから、そう簡単には行けない。
この作品(のたぶん第一部)は、コーンウォールのセントアイビスにあった別荘での体験を元にしているらしい(作品では場所はスコットランドのスカイ島に設定されている)。第一部での別荘の滞在者は、ラムジー夫妻とその子八人(プルー、アンドルー、ナンシー、ロジャー、ローズ、ジャスパー、キャム、ジェイムズ)、ラムジー氏と同業(哲学者)のチャールズ・タンズリー、詩人のオーガスタス・カーマイケル、科学者(?)のウィリアム・バンクス、画家志望のリリー・ブリスコウ、そして恋仲のミンタ・ドイルとポール・レイリー。冒頭でジェイムズの強い希望に応えて翌日灯台に行くことをラムジー夫人が承諾し、しかし、第一部の終りに雨で中止になってしまうことが暗示される。短い第二部を経て、第三部は十年後、長い間打ち捨てられていた別荘に同じ人々が集う。ただし、ラムジー家では夫人とプルーは病死、アンドルーは戦死して欠落。外来者はカーマイケルとブリスコウだけ。ラムジー氏はキャムとジェイムズを連れて船で灯台に向かうが、強権的な父に子供たちは不機嫌である。ジェイムズは十年前の灯台行きの望みなど忘れてしまったよう(この冷淡さは第一部と第三部では作品の下敷きになった灯台が違っている――前者はセントアイビス、後者はヘブリディース――からかとも考えられる)。灯台島に付いたとき、父と子の感情的和解が成立するのだが、何だか取ってつけた感じ。第一部の叙述ではラムジー夫人が主要な位置を占めていたが、第三部ではリリー・ブリスコウがそれを継いでいる。
さて、読んだ後に思い返すと、淡い感じしか残っていないのだ。登場人物に肩入れするとか反感を持つとか、彼らの運命に納得するとか割り切れない思いを持つとか、作者の言い分に同感するとか反論したくなるとか、そういったこちらの反応がない。かといって、表面的に流してしまえるような、快さあるいは苦々しさといったものでもない。何か非常に巧緻な制作物に感心したという気分だろうか。作者の手並みに感心し、ふと気がつくと、その土台となっている構造物がひどく単純なことに気づいて物足りなくなるのだ。
日常の瑣末な事柄や人との些細なやり取りについて、ここ描かれたような微妙な心理の動きを実際体験しているのだろうかと反省してみると、大方はぼんやりしていて、たとえそのとき意識していたとしても忘れている。後から解釈するほど統一的ではない。意識というのが短期記憶の機能ならば、その全部を中・長期記憶にしようとするのは無駄なことであろう。
また、意識の流れというものがあるとしても、それが独白として実現しているかは疑問である。感覚は一次的には言語には変換されずに「意識」されているだろう。あるいは、認識のうちで言語として変換されるものが「意識」であるということも考えられるが、それではあまりに非効率である。
そういった状況で意識が統一性を保つとしたら、後から解釈しているのだろう。
それはそうだろう。作品は経験を描くとしても再構成するのだから。そこでの自分の心理状態についての記憶でさえ完全ではないだろうし、ましてや他人の心理は推察せざるを得ない。だから、風景にしろ心理にしろ、同じことなのだ。描写の手法なのだ。その証拠に、手法は流行でしかない。それでなければならない確たる理由があるわけではない。むろん、科学的手法にも流行がある。しかし、そこでは古い手法が陳腐化するのは、新しい手法がより適切であると認知されるからだ。芸術においては、古い手法は有効性とは関係なしに飽きられる。
もう一つ、手法の普遍性という問題がある。芸術にも流派というのがあって、手法を共有することはある。しかし、そこに個人の独自性(個性)というものが反映しなければ、単に模倣に終わる。そういう意味では芸術における手法とは個人的なものだ。もちろん、学問においてもそういう傾向がないというのではない。スタイルというのはどこにでもつきまとう。いわば、程度問題なのだろうが。
とはいえ、意識の流れを描こうとする現実的な根拠はある。意識は単純な認知ではない。意識というのは、過去を顧み、将来を慮って、現在をおろそかにする。というより、現在のそっけなさに耐えられないのだろう。意識は、「いま・ここ」を離れて自由に飛翔するのである。そのような意識の動きは私たちのコントロールを外れてしまう。私たちにとって意識は不可解なものであり、感覚と同じように受動的にならざるを得ない。だから描く対象になるのだ。
ヴァージニア・ウルフが幻想に悩まされていたというのが、そのことと関係があるかどうかは分からないが。