井本喬作品集

さよなら、中国

 尖閣諸島国有化に対する中国国内の反日暴動(2012年9月)の映像をテレビで見ていて、水晶の夜を連想した。ガラスを割ることは何にもまして破壊の快感を与えてくれるのだろう。透明ではありながら侵入を拒んでいる物質が大きな音とともに砕け散り破片となって崩落する。簡単な一撃でこの効果。木や石ではこうはいかない。ベルリンの壁崩壊のときハンマーで壁を叩いている映像が流れたが、コンクリートは堅くて割ることができない。象徴的な行為としては間が抜けてしまう。その点ガラスは苦労しないでも派手に壊れてくれる。ガラスは破壊への誘惑となるのだ。

 この事件への最初の反応は反中国感情だったが、時間がたつにつれて反感の応酬をしてみても始まらないと思い直した。中国には中国の事情があり、中国人の身になってみれば(難しいが)そういう行動を理解する(容認するのではなく)ことも可能だ。中国人も日本人の身になってみれば(難しいだろうが)日本人の感情を理解できる(共感できなくとも)のではないか。相容れない立場にあることが理解できれば、早急な解決が期待できないことも納得せざるを得ないだろう。

 今回のことで、個人的な影響が一つあった。『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリディ、2005年、土屋京子訳、講談社、2005年)という本が前から気にはなっていたのだが、なかなか読むことができない。『偉大なる道』(アグネス・スメドレー、阿部知二訳、岩波書店、1955年)や『中国の赤い星』(エドガー・スノウ、1944年、宇佐美誠次郎訳、筑摩書房、1964年)などによって植え付けられた中国共産党と毛沢東に関する幻想が、最終的に打ち砕かれることにためらいがあったのである。ところが、今回のことでそのこだわりが解消されてしまった。

 改革開放政策以後に出版された中国関連の本などを読んで、とっくに幻想は棄てたはずだった。しかし、いったん愛着を持ってしまったものを諦めるというのは非常に(強調!)困難である。それは、例えばストーカー行為でも明らかだ(最近問題になっているが、ストーカーや彼らによる犯罪は太古から存在したはずだ)。愛着というのは理性を越えており、何らかの進化的な理由のゆえに私たちに深く組み込まれている機能のようだ。その対象は物、異性そして思想にまで及ぶ。それが妥当でないことが事実として何度も示されても、愛着の堅固さ失われないように見える。しかし、時間をかけて執拗に繰り返せば、いつかは幻想も崩れていく。重要なのは事実と時間だ。

 毛沢東のような指導者は、小粒ながらどこにでもいて、私にも経験がある。そういうトップは、組織というのは上からの命令に従って動くから、命令さえすれば目標が達成されるものと勘違いする。それが出来ないのは、命令がちゃんと実行されていない(部下がサボっている)からか、命令を具体化する過程で工夫が足りない(部下が無能だ)からだと、部下に不信感を持つ。そのため部下に教育訓練を施したり、コンサルタントを雇う(多くは、両者が補足し合う)。また、思いついたいろいろなアイデアの実行を強要する。命令と同じように、そういうもの(一般的には資源)を投入すれば成果があがるはずだと思い込むからだ。しかし、対費用効果を考えれば、ほとんどはやらなかった方がましであるという結果に終わる。そのことが意味するのは、組織のトップになることに必要な特質は、組織目標の達成に実績をあげることとは必ずしも関連していないということなのだろう。

 私の知っていたこのようなトップは、対外的には人気があった。業界団体の長として講演などを行った後に、彼を讃美する声を私も聞くことがあった。外から見ただけでは分からないものだと嘆かわしく思ったものだ。語られた言葉が事実を表わしているかどうかということは、語った本人でさえ把握していないこともあり(トップには気に入られる情報しか上がってこないものだ)、ましてや外部の者には情報のルートが限られているから判断が偏ってしまうのは当然である。

 ある集団の業績はその集団のトップの業績と同一視されがちであり、彼が神格化されれば集団と一体化してしまう。中華人民共和国の成立に果たした中国人民、中国共産党の役割は毛沢東に具現化されているように思ってしまう。逆に言えば、中国への失望が毛沢東への疑問へ直結することになるのだ。

 中国共産党と中国人民に対する幻想がはがれおちたのは、彼らがよりよい状態になることと並行しているというのは皮肉だ。彼らが困難な状態にあって苦しんでいるときには、それゆえに賞賛していたのである。人間性は悲惨さの中にあって輝くことがある。もちろん、悲惨さには汚いことの方が多いのには違いないのだが。わずかな人間性の光のために大きな悲惨さがなければならないとしたら、そういうものを求めるのは残虐だろう。

 国民性というのは、与えられた環境に対応した一般的行動による適応にすぎないと私は思っている。だから、日本人と中国人の間に見出せる差というものが絶対的なものだとは思っていない。差異は集団間よりもむしろ集団の中の個人間の方が大きいだろう。

 中国はやっかいな隣人であるが、それは他人(親子きょうだいも含めて)というもの一般に当てはまることなのだ。私がようやく得ることができた思いは、彼らは私たちのために生きているのではなく、彼ら自身のために生きているということである。プロパガンダに乗せられたという面はあるにしろ、私たちが望む何かを実現するかもしれないという期待を彼らに負わせるのは、こちらのご都合主義なのだ。

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