ものをかたる
出演者が順番にエピソード的な体験を語るテレビ番組を友人がひいきにしているので、私も一緒に見ることがあった。面白さに関しては語り口にも影響されるのであろうし、当然脚色もなされているはずで、事実そのものの持つ力がどの程度なのかよく分からない。
ところで、私は岡本綺堂の作品を愛読しているが、たまたまこの番組を見た直後に読み返してみて、物語の起源というか、あるいは本質のようなものは、こういう語りにあるのではないかと思いついた。単に語る(声に出す)ということではなくて、各人が自分の体験ないしは伝聞を披露するというのが、物語の前駆的な形態であり、なおかつ物語の本質を形成しているのではないだろうか。
体験を喜んで聞くと言うことには二つの要素がある。一つは、それが聞き手の体験したことがないという珍奇性、もう一つはそれが作り話ではないという保証としての語り手の体験性である。つまり、物語は珍奇性が必要だが、同時に事実性も求められるのである。事実性の保証として、語り手の体験性があるのだ。
だが、この二要素はもともと矛盾を含んでいる。聞き手は語り手の語ることを体験していないゆえに引き付けられるのであるが、体験していないゆえに語られたことの事実性を検証できないのである。そこから、語り手は体験を物語化する誘惑に駆られる。珍奇性を増せば聞き手をそれだけ喜ばすことが出来るし、それが嘘であるかどうかを聞き手は判断し難いからである。それゆえ、物語は虚構性を増していくのだが、かつての体験性の名残として、語り手の体験であるか、語り手が誰かの体験を伝聞したということが形式的な枠組みとして用いられるのであろう。
つまり、物語に対する私たちの興味は、二つの知的性向に基づいているのだ。一つは未知のことを知りたいという好奇心。もう一つは仕組み(因果関係)を知りたいという真理探究心。たぶん、元来は一体であったのが分化したのであろう。
私たちが因果関係を知りたがるというのは理解できる現象である。人間が過去を生きて来た上で、また、これからも生きて行くためには、危険を避け、好ましいものを得るように行動を調整しなければならないはずだ。それには、何がどうなっていて、それがどうなるかを出来るだけ知っておく必要がある。他人の体験を聞いて知識を補うのは生存上有利であり、そういう傾向が強化されるのは当然だろう。その場合、情報がいい加減であることは文字通り死活問題につながる。語られることの事実性が担保されることの重要性は当然である。
一方、事実性が欠けている法螺話でも人を喜ばすことが出来る。現に、私たちに向かって語られている(ほとんどは文字や映像で)のは全くの作り話であることが多く、受け手である私たちはそれを承知している。だから、不思議なのはむしろ、なぜ私たちが虚構に興味を持てるかということなのだ。事実の裏付けのない物語に惹かれ、感情移入できるのはなぜだろうか。ただ単に珍奇であるだけなら、感覚的な反応にとどまり、追体験的な感情は起こらないのではないか。
このことは別のところ(『虚構と事実』)でも取り上げたが、次のようなことが考えられる。私たちが適切な行動をするためには、現状の把握と同時に、ある行動がもたらす結果の予測が必要であるが、それは単なる事実関係の認識ではなく、予測された結果が主体にどう影響するかが実感されなければならない。なぜなら、私たちが意識的に行動をするのは、行動の結果が私たちにもたらす「報酬」を求めるからであり、その「報酬」の価値は実感されることによって決まるからだ。つまり、予測とは仮想体験なのである。
現実にはない状況から模擬的とはいえ実際の「報酬」を得られる能力が想像力なのである。想像とは単なる認識ではなく、体験なのだ。もちろん、得られる感情は好ましいものばかりではない。危険であれば恐く、悲惨であれば悲しくまた腹立たしい。そういう結果を避けるためには、結果が否定的に感じられねばならないからだ。私たちが不快な情報を避け、好ましい情報ばかりを得ようとするのも、情報自体が「報酬」の源泉となってしまっているせいだろう。私たちは事実を単に事実として知的にだけ認識することができないのである。
虚構の物語から感情を惹起させられるのもそのせいである。たとえそれが事実ではないと分かっていても感情的な反応をしてしまうのである。逆にいえば、事実ではないから安心して感情にひたれるのかもしれない。悲しいことも恐ろしいことも、生存の苦労から切り離されもものとして享受できるのだ。私たちが空想にふけるのはそれゆえなのだ。
しかし、想像を事実から遊離したものにしてしまえば、現実からの復讐を受けることにならないか。想像力を現実における成果のために使うのでなく、刹那の喜びとしてそれに依存してしまうなら、その個体の現実対応性を低下させるだろう。想像力の過多は個体に不利に働くだろう。
だからといって想像力が人間から失われることにはならない。それはやはり生存のための強力な機能であるからだ。想像力の濫用は、遺伝子の裏をかく個体の余禄なのだ。避妊をして性行為を楽しむのと同じである。事実と虚構を明確に区別できるのであれば、私たちは単純な切り換え操作だけで済ますことができる。
問題は別のところにあるようだ。他人の提供する情報が本当かどうかの判断は難しい。嘘の情報で相手を騙すことによって利益を得られるなら、誰でもそういうことをしたくなるだろうから、提供者の保証には頼れない。逆に、そうことに対して防御できなければ、生きのびるのは難しい。それゆえ、人間は疑り深く、何であれ事実であることの保証を求めようとするのだ。虚構に対しては、虚構であると分かっていても(分かっているからこそ)、自動的に警戒心が働くのである。だから、形式的であっても体験談であるとされることが、警戒心を(なくせなくても)緩和させることになる。この辺は駆け引きじみたものになる。
日本における私小説というジャンルは、事実と虚構の関係の好例である。私小説が体験という事実報告であるとされることは、私たちの事実探究の興味を引く。しかし、ありきたりの事実では珍奇な知識を求める読者の気持ちを満足させない。そこで、特異な事実を意図的に作って、それを書く(報告する)という逆転が起こる。これが伊藤整や平野謙の指摘した日本的私小説のメカニズム(の一部)である。それは事実であることと珍奇であることの二重の効果を狙った物語なのだ。
そこまでは行かなくとも、語りという形式を取ることは、事実性の影のようなものをまとわりつかせることで私たちの猜疑心をなだめて物語に専心させるという工夫なのだろう。