井本喬作品集

エボラ

 西アフリカでエボラ出血熱の感染が拡大しているというニュースが気になり、エボラに関する本を読んでみた。『ホット・ゾーン』(リチャード・プレストン、高見浩訳、飛鳥新社、1994年)、『エボラ』(ウィリアム・T・クローズ、羽生真訳、文藝春秋、1995年)、『ウイルス感染爆発』(NHK「エボラ感染爆発」取材班、NHK出版、1997年)の三冊である。

 『ホット・ゾーン』は1989年にアメリカ、ヴァージニア州レストンにある「レストン霊長類検疫所」という民間の施設で発生したサルのエボラ感染を取り上げている。実験動物として輸入されたサルがこの施設で一カ月間留め置かれ、伝染病にかかっていないか様子を見ることになっているのだが、ミンダナオ島で捕獲されたカニクイサルがこの施設で大量死した。その原因がエボラ・ウイルスであることが判明し、アメリカ陸軍伝染病医学研究所(通称ユーサムリッド)がサルの処分作戦を行ったのだが、この作品はその経過を描いている。エボラ・ウイルス相手では非常な危険が伴うが、実はこのウイルス(エボラ・レストン)は人間には無害だった。結果から見れば「なあんだ」ということになり、事前においていかに危機的な状況とみなされようと、興味は減殺されてしまう。作者は、エボラと同じ仲間(フィロウイルス)のマールブルグ・ウイルスの感染例や、スーダンやザイールでのエボラ出血熱の発生について述べることで、レストンでの事件を危機的なものに見せようとしているのだが、羊頭狗肉という感じは免れない。

 エボラ出血熱が初めて人間に感染したのは、1976年のスーダンにおいてであり、次いで同じ年にザイールでも起こった。エボラ・ザイールはエボラ・スーダンよりも凶暴で、致死率は最大90%にも及んだ。『エボラ』はザイールでの感染を扱っている。しかし、残念ながらこの作品はノンフィクションではなく、事実に基づいてはいるもののフィクションなのだ。作者はコンゴないしザイールで16年間医療に携わり、帰国直前にこの感染に遭遇した。後にこの災厄について調べ直して書いたのがこの本である。なぜノンフィクションではなくフィクションにしたのか理由は分からないが、叙述からは作者の関心がエボラそのものではなくエボラ出血熱に関わった人々にあることがうかがえ、フィクションの方が思いを伝えやすいと判断したからではないか。

 ザイールのヤンブクというところに、ベルギー領コンゴだった時代から継承されたカソリックの伝道所があり、その付属病院がこの本の舞台である。ヤンブクの近くにコンゴ川の支流のエボラ川が流れていて、エボラという疾病の名はここからとられた。この病院で一人の(後にエボラ出血熱と呼ばれるようになった病気の)患者が治療を受け、その結果、病院が感染源となって正体不明の病気が広がっていく。スーダンと違ってその詳細が分かっているのは、伝道所の神父やシスターがベルギー人であったため情報が外に発信されやすく、また外部からの注目も集まりやすかったからだ。

 伝道所の神父やシスター、病院の現地スタッフはこの謎の病気になすすべもなく、患者も彼等も次々に倒れていく。現地からの情報は文明世界にうまく伝わらず、ようやくCDC(米国立防疫センター)が新しいウイルスが病原体であることを突き止める。それより先にキンシャサの医師が現地に向かっており、WHOやCDCの医師もそれに加わって対策に乗り出す。しかし、そのときは疾病の流行はおさまりかけていて、伝道所では一人の神父と三人のシスターだけが生き残った。

 この本がフィクションであらねばならなかったのは、生き残ったシスターの一人に焦点が当てられているからだ。彼女は病気の終息後にも伝道所に残るが、再びエボラ出血熱らしい患者が一人出ると、あれほどの惨禍を耐え抜いたのにもかかわらず、恐ろしくなり逃げ出してベルギーに帰ってしまう。彼女はすぐに後悔し、ヤンブクに戻るのだが、英雄的行為と卑怯な憶病さが同居することは矛盾ではなく、それこそが人間性の現れであることを、この本は最後に語るのである。

 ザイールでは1995年にも首都のキンシャサに近いキクウィトでエボラ出血熱の感染が起こっている。このときの発生から終息までの経過を描いたのが『ウイルス感染爆発』である。病気は決まったように病院を襲う。患者が病院にウイルスを運び込み、感染源にしてしまうからだ。また、病院という文明の先端が病気を認識することで、感染の発生が地域を越えて社会に認知されるという面もある。まず、キクウィト第二病院がウイルスに汚染され、閉鎖に追い込まれる。次に、患者を介してキクウィト総合病院に飛び火する。現地の医師たちが病気の解明に乗り出し、貧弱な通信網を使い、ヨーロッパやアメリカに協力を求める。血液サンプルは様々な人の努力の末、キンシャサ、ブリュッセル、アントワープを経由してアトランタのCDCに送られ、エボラ・ザイールの存在が確認される。それと並行して、WHOとCDCは専門の医師をキクウィトに派遣する。一方、ザイール政府はキクウィトを隔離する。これらの対策が功を奏したのか、他の理由があったのか、ともかく首都キンシャサでの感染は起きず、キクウィトの感染も終息する。このような経過はヤンブクで起こったことの繰り返しと言っていい。

 この本の著者はNHKの記者たちである。彼等はジャーナリストであって作家ではない。それゆえ、彼等の描く人物像はせいぜいタイプ化されるにとどまり、個人的な洞察までには至らない。それでも、『エボラ』と『ウイルス感染爆発』の描写から受ける印象は似ている。貧弱な医療体制、情報伝達手段の未熟、教育・マスコミなどの知識伝達網の不足という、いわば人類の弱い環であるアフリカを最悪の疾病が攻撃し、他の世界は自らを守るという意味もあって防衛に助力する。その過程の中に、この災厄に巻き込まれたり立ち向かったりする個々人のドラマがある。

 疾病の拡大に立ち向かう医療関係者には感心する。最近のケースでは「国境なき医師団」の活躍も伝えられている。私は彼らを尊敬している。彼等の活動に対して情けないほどのわずかな金額だが寄付をしている。彼等のような人々がいることが人間への信頼をつなぎとめることになっているのだろう。

 それにしても、ウイルスとか細菌というのは、進化において人間がはたして成功したのだろうかという疑問を投げかける存在である。存続の確からしさという点では彼等の方が優っているのではないか。しかし、私たちの体も免疫機構などを発達させて彼等に対抗している。進化という長い過程を経た均衡状態という観点からは、生き残った誰もが(その時点での)勝者であると言えるのだろう。

 ただし、人間は進化の過程を乱す存在でもある。『エマージングウイルスの世紀』(山内一也、河出書房新社、1997年)、『もう抗生物質では治らない』(マイケル・シュナイアソン&マーク・プロトキン、栗木さつき訳、日本放送出版協会、2003年)といった本を読むと、人間の知り得たこと、なし得ることの大きさを思うと同時に、まだまだ無知であり無力な存在であることを悟らされる。

[ 一覧に戻る ]