水に落ちた犬は打て
STAP細胞騒ぎについて、『常温核融合スキャンダル』(ガリー・トーブス、1993年、渡辺正訳、朝日新聞社、1993年)を参考にして感想を書こうかと思ったのだが、まだ事態は不明ところが多く、いずれ誰かが事の顛末をまとめてくれることを期待することにしたい。ただし、その誰かは忘れっぽい読者が興味を失ってしまう前に仕上げなければならないだろうが。
いつものことだが、メディアの取り上げ方ははしたない。渦中の人が若い女性であったことも大きく作用しているのだろう。最初の発表の際はあれほど持ち上げておいて、その業績が怪しくなるとまさに手のひらを返したような扱いだ。メディアは最初の自分たちの煽りたてを恥じて当然なのに、まるで騙されたように憤りを露わにしている。むろん、メディアというのはそういうものなのだろう。
若い女性ということでは、冬季オリンピックのジャンプ競技とフィギア競技の報道でも似たようなことが起こった。ジャンプ競技では金メダル確実と事前に盛り上げておきながら、メダル外の4位という結果になって後は全くと言っていいほど報道がなくなった。若すぎる彼女に気を使ったということは考えられる。むろん、彼女自身に気を使ったのではなく、どんな伝え方をしても視聴者の反発を招きかねないとして敬遠したのだろう。フィギア競技でも視聴者の期待を高まらせておいたのに、ショートプログラムの失敗でメダルの可能性はなくなった。だが、こちらの方は翌日のフリー演技がうまくいったので、失敗を乗り越えたという物語にして、メディアは自らの失態を取り繕うことができた。
毀誉褒貶という言葉が浮かぶ。メディアはその日暮らしだから君子豹変を地で行くことを気にしはしないが、私たちにしてみれば振り回されることになる。だが、なぜそんなことで一喜一憂せねばならぬのか。所詮は他人事ではないか。別に私たちが裏切られたわけではなく、損をさせられたわけでもない(政治家のスキャンダルに関しては有権者という立場から当事者であることを主張できるが、実質的には関係ないに等しい)。
進化論的には私たちの噂好きは生存価を高めるらしい。他者を評価するということは噂話の中核である。優秀な人間が誰であるかを知っておくのは後々役立つであろう。また、誰かがしくじれば競争相手が減ることになるので(あるいは他人の成功で自分が置いてきぼりになるという事態が避けられたので)それを知ることは喜ばしい。はるか昔には噂話の対象は見知った周辺の人々に限られていたのが、今では向こうが知らなくともこちらは知っている人の数が増え、彼等に関する情報が垂れ流されているので、噂話の楽しみが増えた。
それにしても、人を評価するというのは難しい。評価の激変は日常茶飯事である。一方、いったん確立した評価は、たとえその根拠が不確かであっても、なかなか変わることはない。これは科学という、業績が明確になりやすいと思われる分野でも同じである。『栄養学を拓いた巨人たち』(杉晴夫、講談社、2013年)を読んで改めてそう思った。この本は副題が『「病原菌なき難病」征服のドラマ』となっていて、ビタミンの発見の過程が取り上げられている(それをはさむ形で前後にエネルギー代謝の解明についても述べられている)。ビタミン不足からくる病気としては、壊血病、ペラグラ、脚気、くる病などがある。19世紀にコッホやパストゥールが多くの感染症の病原菌を発見したことにより、これらの病気も病原菌が引き起こしていると考えられるようになった。微量な栄養素が関係しているということなど、医師や科学者という立場であれば一層信じ難かったのである。ある種の食品に治療効果があるという明白な証拠も、既存の信念をなかなか崩せなかった。このような環境の中でさまざまな困難に会いながら、後にビタミンと呼ばれるようになる物質の解明に努力した科学者の姿がこの本に描かれている。
ところで、この本は森鷗外についても触れている。鷗外が脚気の原因を見誤って日清・日露戦争での陸軍兵士の犠牲を拡大させたことについては、『鷗外最大の悲劇』(坂内正、新潮社、2001年)が詳しい。当時兵士の間で脚気が流行していたが、その原因は白米食によるビタミンB1(サイアミン)不足であった。海軍においては高木兼寛の案により麦食を導入することでこの問題を解決したが、陸軍では鷗外を含むドイツ留学組の医官が伝染病説にこだわり、海軍の実績を無視し続けたのである。特に鷗外は、明治22年に行なった兵食試験の結果を楯にとって白米優位の立場にこだわり、「脚気減少は果たして麦を以て米に代へたるに因する乎」(明治34年)などの論文や、初代会長であった臨時脚気病調査会(明治41年発足)での活動など、脚気栄養障害説への抵抗をやめなかった。
かつて、私小説家の非社会性(文壇内部への孤立)に対照させて、漱石や鷗外が社会と関わりを持っていたことを強調する論理がはやったことがあった。彼等の社会性(西欧への留学もその一要素とされた)が、閉鎖的・封建的な日本の私小説とは異なる文学、西欧市民社会におけるのに近い文学を成立させたというのである。しかし、漱石の生涯は孤独な教師という原型のままであったのではないか。鷗外については、もし彼が文学に専念して陸軍に属することがなければ、日清・日露戦争での兵士の悲惨さの大きな部分が防げたであろう。彼が「社会的」であったことが、文学にとってはどうであれ、社会にとっては不運であったのは間違いない。