井本喬作品集

タイムマシンには誰が乗るのか

 アニメ映画『時をかける少女』(監督細川守、2006年)をたまたまテレビで見た。たぶんカット版のはずだろうから、レンタルDVDでも見てみた。アニメ版は公開当時評判になりその後も人気があるようだが、実写版も3本ほどあるらしく、私はそのどれも見ておらず、それらをごっちゃにしていた。そもそも原作(筒井康隆、1967年)も読んでいない。

 アニメ版を見ていて、この雰囲気は何かに似ていると思い、映画『桐島、部活やめるってよ』(監督吉田大八、2012年)だと気がついた。放課後、真琴と千昭と功介がバッティングとキャッチボールをしているのが、菊池宏樹と竜汰と友弘が、桐島の部活の終るのを待つ間、バスケットボールごっこをしているのを連想させるのだ。『桐島』では部活組に対する帰宅組と自称していたが、部活に熱中するでもなく、帰って勉強するでもなく、中途半端な気持ちながら何かをしていたいという態度が、いかにも青春らしい。

 『時をかける少女』の原作を読んでみる気になったのは、こういう青春の雰囲気を筒井康隆が描くはずはないと思ったからだ。私は筒井康隆のファンである(最近は読んでいないのでファンだったというべきか)が、彼の文体は明るくあっけらかんとした(いわゆる「何も考えていない」)人物を描くにはそぐわないと思っている。案の定、原作はもっさりとしていた。もとより、この作品でSF的興味は期待できないのは承知だ。SF的道具立て(それもチャチな)で、中学生の恋愛感情をくすぐる程度の作品だ(だから読む気にはなれなかったのだ)。

 アニメは原作とは時代が違うだろうとは予想していた。ちょっと調べてみると、それどころか、原作とは設定自体が違っている。アニメの主人公は原作の主人公の姪であり、次世代の(20年後という設定らしい)、しかも高校生(原作は中学生)の物語なのだ。だから、原作とアニメはほとんど別物と言っていい。それで、原作と映画(アニメ)を比較して、違いを検討してみるという目論見は外れた。では、高校生の物語ということで、『桐島』との比較はどうだろう。

 私の中でステレオタイプ化された高校生というのは、視野がやや短期的で、やや利己的で、やや反権威的で、明るかろうと暗かろうと未来がまだあるという確信は揺るぐことがない、というものである。そしてこの時期の最大の関心事は異性だろう。だから、異性と友達づき合いをして、恋愛感情に気づかずにすんでいる真琴というのは、高校生にとってはうらやましい存在かもしれない。『桐島』では、原作も映画も、恋愛感情はもっと切実に描かれている。真琴も、別離によって、千昭の真琴への感情と、自分の千昭への感情に、否応なく気づかされることになるのだが、別れがそれを淡いままにさせてくれるのだ。

 実際の高校生の感情は『桐島』ほどにはドロドロとしていなくて、真琴ほど軽快ではないだろう。アニメ『時をかける少女』が若者に人気なのは、真琴への憧れ、嫉妬のないうらやましさがあるからではないか。もちろん、真琴が単なる軽薄な娘ではないことは重要である。運命を操るつもりが運命にもてあそばれ、その経験が「何も考えない」青春への決別となるのだ。

 さて、このアニメの魅力を探るのはこの辺で諦め、本筋からは外れた細かいことにこだわってみよう。タイムリープの手段は、原作では薬品になっているが、アニメでは回数をチャージする機器である。時代を反映してデジタル化したわけだ。タイムリープの回数制限というのが、「願い事をかなえられるがその回数が限られている」という寓話に連なる。ほとんどの寓話では、その幸運を有効に活用できないという教訓で終る。真琴の場合は、タイムリープによる巻き戻しという裏技でハッピーエンドになる(ここはネタばれ注意)。

 ところで、このアニメでのタイムリープは、未来から来た人間が元いた時代へ戻る(つまり、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」)1回を除いて、全て過去への回帰である(真琴のセリフに「行ったり来たり」というのがあるが、未来へのタイムリープは描かれていない)。タイムリープによって世界は過去に戻るが、タイムリープした真琴自身は取り消された経過の記憶を保っている。もっと言えば、真琴の肉体も消された時の経過を歴史として含んでいるはずだ。だから、真琴が回数制限なしに何度もタイムリープすれば、真琴だけが歳をとり老けていくことになるだろう。もし、過去へタイムリープして肉体が若返るなら、脳内にある記憶も戻った分だけ失われるので、自分が若返ったということを意識できない。そいう意味では、若返るとは同世代の者に対する相対的な現象と言える。だから、逆説的ではあるが、若返るためには未来へタイムリープしなければならないのだ。

 さて、厳密に言えば、戻った過去にはその時点での真琴もいるはずだが、タイムリープした真琴と入れ替わらなければ、そこからの未来は変わることなく同じことの繰り返しになる。なぜなら、タイムリープした真琴の記憶によらなければ、歴史の改変(災難の回避)は出来ないからだ。真琴の入れ替わりというのが不自然なら、タイムリープで戻った過去の時点から、新しい時間の流れが発生すると考えたらいいだろう。過去の真琴を含めた元の時間の流れは、真琴がタイムリープで出発した時点まで進んだところで途切れてしまう。いわば盲腸のように打ち捨てられて、真琴だけがその記憶を保持している。

 そこで、ちょっと面白いことを考えてみよう。タイムリープした真琴が、何かの事情で過去に戻った瞬間死んでしまったとしよう。すると、時間の流れはタイムリープした真琴の干渉を受けることなく同じことの繰り返しとして進行し、その中にいる真琴は再びタイムリープすることになる。そして真琴はタイムリープに失敗し、時間の流れは繰り返され、真琴はタイムリープに失敗し‥‥ということが永遠に続く。このシチュエーションを使ったのが、フィリップ・K・ディックの「時間飛行士へのささやかな贈物」である。ただし、ディックの作品の構成はより複雑で、未来へ行った時間飛行士たちが、過去へ戻った時に事故死したことになっている。物語の始まりに時間飛行士たちは未来にいて、過去に事故で自分たちが死んだことを知っている。彼等が過去に戻れば、事故で死に、そしてまた彼等が過去から現れ、自分たちの事故死を知ることになるのかもしれない。彼等のうちの一人はこれが繰り返されているのではないかと疑う。この永遠の循環(と思われるもの)を断ち切ろうとする彼の試みが、実は事故の(したがって循環の)原因になってしまっているのではないか、というややこしい物語である。

 未来にタイムリープしたならば、真琴は現在からその時点までの経過を経験せず、それゆえその間の記憶も肉体的歴史も空白だ(だから、若いまま未来に行ける)。ただし、タイムリープのこの方法では全く未知の未来へ行くのは難しそうだ。どの時点へ行くかは、単なる時間経過を目途にするのではなく、その時点がどのようなものかを知っていなければならない。つまり、時間経過の記憶のなかのある時点が目標となるのだから、記憶のない未来は目標とはならない。未来から来た人間でさえも、過去へ来る前の現在へ帰るのである。

 タイムマシンなら、数値としての時間設定で過去へも未来へも行くことが出来る。だが、その違いに注目したいのではない。私たちが時空を漂うとき、私たちが私たち自身であるということの保証はどこに求められるであろうか。それは記憶であろう。自分が継続して存在してきたということの確信は、あいまいであり不正確でありとぎれとぎれであったとしても、記憶の中にしか求められない。コギトは意識の存在を確証する。しかし、意識でさえ短期記憶(ワーキング・メモリ)なのだ。そして、意識が中・長期記憶にアクセス出来なければ、私たちは自分というものを確信できないだろう。

 死体ないし頭部を冷凍保存して、未来の科学が蘇生してくれるのを待つというビジネスがあるらしい。もしそれが可能であっても、記憶が保存されていなければ、タイムマシンの代わりにはならない。物体としての肉体が不死を得ても、精神は一度死んでしまっているからだ。

 〈追記〉

 アニメ『君の名は。』について、時間旅行という観点(のみ)からコメントしておく。三葉と瀧の入れ替わりは、瀧にとっては過去への、三葉にとっては未来への時間旅行でもある。この「過去」と「未来」の間に彗星落下による三葉の住む村の消滅という事件がある。さて、奇妙なのはそのことを瀧がなかなか気付かないことだ。彗星の落下による村の消滅というような大事件を当然瀧は知っているはずであり、三葉に入れ替わったときに自分がいつどこにいるかが分かるはずだから、アニメの描き方よりももっと早くに自分の立場を悟るはずだ。そうでない理由として、入れ替ったときの記憶のあいまいさということがあげられるかもしれない。たとえば、入れ替わるのが意識(短期記憶)だけでしかないとしたら、入れ替わった間の中・長期記憶は元へ戻るときに保持されないのかもしれない(逆に、元の自分の中・長期記憶は入れ替わったときも保持されている)。しかし、そのようにも描かれていない。

 彗星落下のことを知っていたとして、その災厄を防ぐために瀧ないし三葉ができることはあるだろうか。彗星は二つに分裂して、その一つが三葉の村に落下した。その分裂については予測されていなかった。だから、三葉(あるいは入れ替わった瀧)が彗星分裂を予言し、さらにその結果の災厄を予言すれば、彗星分裂がおこった際に村人は三葉の予言を信じ、避難をするだろう(時間的余裕はある)。そういう物語でもよかったはずだ。しかし、そういう物語では、初めから彗星落下が中心テーマとなってしまい、瀧と三葉の奇妙で微妙な交流は脇へ追いやられてしまう。アニメが描きたかったのはそっちの方なのだ。だから、彗星落下はずっと後になるまで瀧に気づかれない。

 ところで、時間旅行による過去の改変というのは矛盾を生ぜしめる。瀧の干渉により彗星落下の災厄から村人が逃れることができたのなら、そこから派生する未来において、瀧は村人が避難したことを知っており、三葉と入れ替わっても、避難を促すような行動をとることはなく、村人は災厄に巻き込まれることになる。すると、そこから派生する未来において、瀧は彗星落下による災厄を知っていることになり、三葉を通じて村人を避難させようとするだろう。過去と未来をつなげようとすると、歴史はループを描いて前へ進まない。

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