井本喬作品集

アッツ島のアメリカ兵

 平山周吉『戦争画リターンズ』(芸術新聞社、2015年)は、副題に「藤田嗣治とアッツ島の花々」とあるように、藤田の描いた「アッツ島玉砕」に関する様々な事柄とそれについての著者の意見を述べた本である。当然のことながら、「アッツ島玉砕」の写真図版がついている。原画をどの程度忠実に写しているのかわからないが、小さいせいもあるのか、暗くて詳細が見にくい。この図版を見て二つの違和感を持った。

 一つは、この本でも取り上げられているが、描かれているアメリカ兵のヘルメットについてである。この本にはアッツ島で戦死した人の子息である榎本好弘の著書(『六歳の見た戦争――アッツ島遺児の記憶』)からの引用があるので、一部をそのまま孫引きしよう。

 ただ、子供心に妙だったのは、米兵と覚しき兵の被っている鉄兜が、イギリス兵の鉄兜のようにどれも浅いのである。当時の子供の多くは、主要国の鉄兜の形は熟知していて、私もその一人だから、想像図とはいえ、私は承服しかねた。

 今の私たちなら、テレビや映画でおなじみだから、当時のアメリカ兵のヘルメットの形は承知している。では、なぜ藤田はこんな間違いをしたのだろうか。著者は、「藤田が従軍画家として実際に赴いたのもシンガポール戦線である。日本軍が敵としてのアメリカ兵を実際に見たのは、まだフィリッピン戦線などに限られていただろうから、ディテール描写が甘くなってしまったのか」と推察する。しかし、藤田は絵を描く過程で軍人たちから助言を受ける機会はあったはずだから、単純なミスとは考えづらい。ウェブで調べてみると、アメリカ軍が新しいヘルメット(M1ヘルメット)を配備したのは1942年からのようだ。それまではイギリス兵と同じようなヘルメット(M1917ヘルメット)だった。アッツ島の玉砕は1943年5月だから、当然アメリカ兵の被っていたのはM1ヘルメットである。しかし、開戦時のフィリッピンでの戦闘は1941年末から1942年4月までだから、アメリカ兵は依然としてM1917ヘルメットを着用していた。その記憶が藤田や周りの軍人たちにあったのだろう。

 1942年8月にはガダルカナル島での戦闘が始まった。テレビで放映されたNHKのドキュメンタリーの映像を見ると、このときのアメリカ兵は新しいヘルメットを着用している。ただし、一部に古いヘルメットの映像もあって、これらの映像が全てガダルカナルのものかは疑わしいのだが、新旧のヘルメットが混用されていたということも考えられる。

 藤田の「アッツ島玉砕」が完成したのは1943年8月29日である。ガダルカナルから一年近くの期間があったのだ。当然、アメリカ兵のヘルメットが新しくなったという情報は得られていたはずだ。藤田にそれを求めても無理と言われるかもしれないが、彼は知っているべきなのである。なぜなら、この本によれば、彼は「哈爾哈河畔之戦闘」(ノモンハン戦)の制作中に雑誌の取材を受け、その際次のような文章を発表しているからだ(1941年)。

  一枚の戦闘画を描くとしても、大変な用意が必要だ。現地も見たい、実戦談も聞きたい、調査しなければならぬ。材料を蒐集せねばならぬ。写生をしなければならぬ、権威ある識者の指導批判を受けねばならぬ、ただ画家一人の力では何も出来ぬ、酷評を甘んじて訂正を何度も繰り返さねばならぬ、永久に残るべき記録画であって見れば少しの誤りもあってはならぬ、先ず軍人がよしと言う軍隊精神が出て居らねばならぬ、技術者が見て兵器其他の欠点があってはならぬ、作戦攻略とその当時の行動が現れなくてはならぬ、更に公衆に感銘を与え、加うるに芸術的の価値ある作品にしなくてはならぬに至っては至難の極みである。

 もし、藤田がこれだけのことをして(むろん、アッツ島の戦闘では、現地調査や実戦談を聞くのは無理だったが)、それでもアメリカ兵のヘルメットの違いが分からなかったとすれば、日本陸軍の情報収集能力は低いものだったと言わざるを得ない。敵兵のヘルメットの形状変化は重要な情報であり、軍内で共有しておくべき情報であるはずだ。上記の榎本が藤田の絵の図版(白黒だが)を見たのはアッツ島玉砕の4か月後のようである。子供でさえ知っていたというのなら、その情報は把握されていたのかもしれない(ただし、榎本の記憶が間違っていて、もっと後になってからの印象が重ね合わされた可能性もある)。藤田の絵を見た軍人たちはそのことを藤田に指摘していないので、少なくともヘルメットが変わった時期については知らなかったのだ。

 情報管理という点では、日本軍は軍内部や国内における情報の流通に神経質であったようだ。だから、こんな基本的な情報も徹底していなかったとも思われる。しかしながら、敵に対しての情報流出に関しては穴だらけであった。日本兵は捕虜になると簡単に情報を喋ってしまう。捕虜にはならないというタテマエだったから、捕虜になったときの対応の仕方を教育できていなかったのだ。また、日本兵は日記を書くのが好きなので、戦死した兵士から集めた日記類はアメリカ軍にとって貴重な情報源になった。さらに、この本の中には驚くべき事例がある。陸軍報道班員としてアッツ島へ派遣された杉山吉良は現地で仮の暗室を作るが、「杉山自身の写真だけでなく、将兵のためのDPE屋さんの役割をして、感謝もされた」ということである。アッツ島の兵士たちは個人的にカメラを持っていたらしい。アッツ島だけの特殊事例ではないようで、火野葦平の「名と弾丸」という随筆に、カメラを持った兵のことが書かれてあるということも著者は触れている。火野葦平も著者も、この兵の言動に興味を示すのだが、私は別の意味で驚いてしまった。

  この後、万年一等兵は戦闘中にカメラを壊してしまう。カメラを失ってはじめて彼は反省する。「戦闘のさなかで写真を撮すなどという行為にうつつをぬかしていた自分を笑いたくなった」、「兵隊であれば、シャッターをおさえる間に、一発の弾丸でも射たねばならなかったのだ」。

  万年一等兵の回心には、時勢に合わせて、筆の妥協を余儀なくされた感が強い。空々しい建前論になっている。火野の真意は、弾丸と一体化した万年一等兵よりも、空の写真を撮る彼に共感していると読める。

 冗談ではない。そもそも戦闘中に写真を写すことが許されていたというのだろうか(記録写真を取るならその役割の者がいるはずだ)。それは論外として、従軍中の兵が私的にカメラを持つことを許されていたこと自体、不思議である。敵にフィルムなり写真なりを奪われることを、日本軍は想定していなかったのだろうか。

 このような日本軍のずさんさの結果の一つとしてのアッツ島玉砕であれば、それを描いた藤田の絵がずさんであることは当然であるのかもしれない。

 違和感の二つ目は、描かれた人物の姿についてである。画面左に日本兵が銃身を持って銃尾を振り上げている。これから降り下ろそうとしているのか。しかし、叩くべき相手が誰なのかよく分からない。あるいは、何度も降り下ろし振り上げているのかもしれない。画面右には日本兵が銃剣のついた銃身を下にして銃を縦に持っている。いまから突き刺そうとしているのか。でも、剣先の敵兵は既に死んでいるようであり、引き抜いたところなのだろうか。その二人がすっくと立っているので目立つのだが、なぜか動きが感じられない。まさにポーズを取っているようなのだ。

 他の兵たちもいろいろな姿勢をしているのだが、重なり合っていて判別しにくい。乱闘の描写であるからいちいちの動きに説明がつくわけではないのだろうが、みなが個々ばらばらの動きをしているようで、統一感がない。だから、個々の人物の姿勢からその動きを推察せざるを得ないのだ。まるで判じもののように。

 もちろん、動画ではないのだから、動きの過程のどこかの一瞬を定着させざるを得ない。それは私たちの経験にはないことだから、戸惑わされるのは当然のことなのだ。静止画で動きを表現しようとすることは、動きを止めることによってでしかできないのだ。それが何の動きの一過程なのかが分かるためには、姿勢を明確にし、あるいは象徴化する必要があるだろう。まるで舞のように。そうだ。この絵の動きは舞のようであり、戦闘の生々しさとは、ずれてしまっている。それが藤田のねらいだったのだろうか。

 しかし、よく見ると不思議なことに気づく。日本兵は日本刀や銃や銃剣を持っているのだが、アメリカ兵士は、一人を除いて、武器を持っていないのだ。例外の一人は画面中央やや右、うつ伏せになって延ばした右手に拳銃を持っているアメリカ兵である。アメリカ兵のほとんどは倒れ込んでいるので武器を離してしまっている設定なのかもしれない。しかし、画面中央やや左下、そっくりかえって立っているアメリカ兵は、倒れる直前のようだが、やはり武器を持っていない(右手に載せている石のようなものが手りゅう弾なのだろうか)。理由としては、藤田にはアメリカ兵の武器、特に小銃についての知識がないので、描かないようにしたことが考えられる。あるいは、アメリカ兵は白兵戦が出来ないとみなしていたのだろうか。白兵戦になれば、アメリカ兵は小銃やスコップを使って戦っただろう。藤田にはそういう白兵戦についてのイメージが得られなかったのかもしれない。

 アッツ島での日本軍の最後の突撃がどのようであったか知らないし、特に知りたいとも思わないが、白兵戦なら負けないという思いが、日本軍に、そして藤田を含めた民間人にも、あったのではないか。つまり、物量に負けたのであって、人間に負けたのではないという負け惜しみ。「飛び道具とは卑怯なり」という滑稽な不公平感。

 戦争や戦闘においての目的は勝つことであるが、負けてしまっても、勝つことが目的ではなかったと意地を張ることはできる。大義のために死ぬことに意味を見出すならば、勝敗はどうでもいいことになるだろう。しかし、そうなると戦意高揚を目的とした戦争画とは異なってくる。

 そもそも戦争画というのは何のために描かれるかという問題がある。写真がなかった頃は記録性が重要だったろう。迫真性という点では写真にかなわなくなっても、写真にはないもの、写真では表現しきれないものを、絵画は描こうとするはずだ。単に、写真が撮れなかった状況を記録として描いておくだけのためではないだろう。

 戦争画(だけではないだろうが)には、記録的要素の他に、物語的要素、美的要素などが複合的に結びついている。そして、記録的要素がおざなりにされれば、他の要素の比重が大きくなるだろう。いわば、リアリティが薄れて観念性が強くなる。藤田の次の作品「サイパン島同胞臣節を全うす」は想像画というより妄想画であろう。

 サイパン島のいわゆる「バンザイクリフ」から飛び降りる女性の映像はテレビなどでいく度か見ていたが、先日の放映では、抱いていた赤ん坊を先に投げ捨ててから後を追って飛び込んだという証言があった(赤ん坊を投げ捨てた場面は映っていない)。海面に浮いている赤ん坊の姿も映し出されていた。その映像も以前に見たことがあるようだが、飛び込んだ女性が投げ捨てたとは知らなかった。

 そういう記録の衝撃は、藤田の絵の、藤田自身に属するものでしかない観念性を、私たちにとって疎遠なものとする。

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