井本喬作品集

ソフィーの別の選択

 『ソフィーの選択』(ウィリアム・スタイロン、1979年、大浦暁生訳、新潮社、1991年)を読もうと思ったのは、司馬遼太郎の『街道を行く39 ニューヨーク散歩』(初版1994年)に取り上げられていたからだ。ブルックリン橋がこの映画(1982年)の中に出てくるという。映画は見たはずだがその記憶がないのでレンタルDVDで確認しようと思ったが、在庫がなかった。購入してまで見る気はなく、しかし気になるので本を読んでみた。原作にはそういう場面はないようである。

 スタイロンの作品は『ナット・ターナーの告白』(1966年、大橋吉之輔訳、河井出書房新社、1979年)を読んだが、史実と創作の関係に疑問を抱かせられた。『ソフィーの選択』も読むのに苦労した。ナチの所業は単なる背景として使うには重すぎる。かといって、正面から取り上げるとするにはフィクションというやり方は不適切だろう。

 内容について言えば、ネイサンという人物像が理解できない。ソフィーを破滅に導くための都合のいい道具立てとしか受け取れないのだ。彼の性格なり症状の解釈として、アルコール依存症とした方がリアリティがありそうだが、それでは神秘性がなくなってしまうのだろう。そして、ソフィーがネイサンに執着するのも分からない。アルコール依存症者の妻というのがこのような態度をとることがあるらしいが、DVに対する理解が進んだ現在では歯がゆさしか感じられない。

 さて、ソフィーの「選択」については読む前から知っているつもりだったが、私は思い違いをしていた。そこからある疑問が生じてきた。

 ソフィーは何を後悔しているのだろう。二人の子供のどちらかの死を選択しなければならず、その選択を放棄すれば二人とも死に追いやることになる。そういう状況で、子供の一方を選択したことに後悔しているのであろうか。しかし、このような状況で他に選択肢があるだろうか。もちろん、どちらかを選ぶというのは、子供を公平に扱うという観点からは許しがたいことだろう。けれども、生存の可能性とか、愛情の違いとか、実際上の選択要因はあるのだし、それらを使うのが嫌なら、くじのような偶然に頼ってもいい。最悪の選択状況でも、最善の選択はできるのだし、そのことで後悔しなければならないとしても、別のもう一つの選択でも同じことだろう。むしろ、そのような選択の結果を引き受ける方が倫理的ではないのか。

 むろん、それでも後悔するのが人間性である、と言いたい人もいるだろう。どうしようもなくても、そのことを罪とみなし、自分を責める、それが人間だ。ソフィーもそうなのだ、と。

 だが、本当にソフィーにはそれ以外の道はなかったのか。

 私はソフィーを好きになれなかった。彼女が利己的に思えたからだ。その理由は、過去に捕らわれているはずの彼女が、愛や性や、その他の現世的な快楽を享受しているからではない。

 彼女は二人の子供の一方を選んだことに苦しんでいる。しかし、彼女には他の選択肢があったことに彼女は全然気づいていない(作者はどうなのか、あえて隠しているのか)。子供を一人で死に向かわせるのではなく、一緒についていってやる、そういう道があったはずだ。描かれているのがそういう選択だと私は思い違いしていたのである。

 ナチの選別者は自発的に死を選ぶ者を止めはしないだろう。もしそれを禁止したというなら、ソフィーの選択の罪悪感は少しは緩和されただろう。あるいは意地悪な選別者が、死ぬなら親子三人でなければならないという選択を新たに考え出すかもしれない。そういういろいろな状況が考えられるとしても、子供を一人で死なせはしないという思いを、ソフィーは持たなかったのであろうか。

 むろん、もう一人の子供を守るために生きるという選択もある。その場合、ソフィーの選択は、死を決定づけられた子供に付き添うか、他の子供の生を確保するためにその子に付き添うか、というものになる。ソフィー自身が自ら(強制されるのではなく)選択できることであり、その決断を自分のものとして後悔しうることなのだ。

 その選択において、ソフィーは自身が生きるか死ぬかを選ばねばならないことになる。それゆえ、生きることを選べば、子供のことより自分自身を優先したという疑惑を生じてしまうだろう。それが苦しみの原因になるとしても、そのことを自覚していれば、選択の責任を自ら負えるのだ。ソフィーが単に過去を苦しむのではなく、自分の選択の決断に苦しめるのは、死を一緒に引き受けるという選択肢があればこそである。それに気がつかないというのは、利己的というより、鈍感すぎる。自分の利己性に気がつかないほど無邪気に利己的なのだ。

 ソフィーがそういう選択をしなかったから、あるいは、そういう選択をしなかったことに苦しんでいないからといって、彼女(あるいは作者)を責めているのではない。そういう選択をしなかったことは一つの決断として、評価は別として、取り扱われるべきだろう。私が指摘しているのは、そういう選択肢があることに気がついていない(あるいは無視している)ソフィー(あるいは作者)の態度なのだ。

 余計なことかもしれないが、早とちりする人のために言っておくと、無理心中とは違う。無理心中とは親の都合に子供を巻き込むことだ。ソフィーの場合は、子供に親が殉じるのだ。このようなことは実の子でなくてもありうることである。妻や恋人や親友や保護すべき者のために一緒に死ぬということは、いろいろな状況で現にあったことだ。

 ソフィーにそのような選択肢を与えないことで、この作品は間の抜けたものになってしまっているのではなかろうか。

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