井本喬作品集

SFのS的要素とは何か

 小松左京に『紙か髪か』(1971)という作品がある。ある研究で作られた新種の細菌が紙を消滅させてしまうが(それにより文明は崩壊の危機にさらされる)、その有効な対策の結果、今度は髪が消滅してしまうというものだ。

 『紙か髪か』には科学的な理屈づけなどない、ただごろ合わせと突飛な想定だけの作品である。しかし、面白い。馬鹿々々しいと思いつつも、紙がいかに私たちの社会を支えているかを再認識させてくれる。SFというのも、所詮は小説だ。何を書こうと自由だし、科学的な根拠にこだわるかどうかも自由だ。それが読者を面白がらせるのに効果があるかどうかが、それだけが問題なのだ。

 専門的な知識の妥当性を判断できるのはごくまれな人だけであろう。では、読者が他ならぬSFに求めているのは何なのだろうか。

 SFが他の小説と区別されるのは、アイデアが創作の動機であり、主題であることによると思われる。しかし、SFが作品として成立するのは、アイデアにリアリティが与えられた結果である。ここで言うリアリティとは作品を私たちの日常に縛り付ける枷ではない。アイデアの上に日常とは異なった世界を作り上げながら、それがあたかも偽りの支えなしに立っているかのように見せかけることだ。その世界の妥当性は要するに私たちが納得すればいいのであって、生活よりも思考に関わるものだ。読者は「なぜ」と常に聞きたがる子供のようなもので、与えられた答えの真偽よりも説得力の方が重要なのだ。

 むろん、人によって納得の水準は異なる。たとえば専門家と素人では語られた内容についての判断は異なる。一方が納得しても他方は疑問に思うだろう。けれども、SFにおけるリアリティとは知識によって裏付けられるものではない。なぜなら、SFの内容そのものが新しい知識に他ならないのだから。SFのリアリティとは、既存の知識そのものではなく、知識を使用する思考の働きに支えられているものなのだ。SFとはデタラメな問題に対する巧妙な解答とも言えよう。問題がデタラメであるほど解答の巧妙さが私たちを感嘆させる。

 それもそんなに高度な能力の話ではない。小説は文章からなりたっており、文章が意味を持つためには、少なくとも首尾一貫性(論理性)が必要とされる。それは文の次元から物語の次元まで求められることだ。SFにおいてはそのことが強く意識されているということなのだ。

 そのようなSFの特性を考えてみるために、具体的な作品に当たってみよう。小松左京に『影が重なる時』(1974)という作品がある。その概要は以下のようなものである。ある日、T市を中心とした区域に不思議な現象が発生する。各人に、その人しか見えない、その人自身の「幽霊」が出現したのである。「幽霊」は石像のように動かず、しかもそれの存在する空間を実体のように占拠している。ただし、それはその人自身のみにとってのことであり、他人には見えないだけではなく触れることもできず、つまり「ない」のである。ここからはネタばれになってしまうが、実はこの現象は、実験用の核弾頭をつけた某国のロケットが事故によりT市上空で爆発し、その時点での三次元空間を過去(つまり物語の現在)に押し戻したせいなのだ。そういう事情が、各人とその「影が重なる時」――爆発の瞬間に判明する、そういう物語である。

 面白いアイデアであるが、小説としては成功していない。なぜならSFとしてのリアリティに欠けるからだ。いろいろな不都合が生じるとき、そのことの追求をはぐらかすのがSFのリアリティだと私は思うのだが、小松は単に無視することで済ませているからである。以下、この作品についての私の疑問を述べてみよう。

 第一点。移動する物体は自分のいまいる空間以外の空間に「影」を生ぜしめることができるが、非移動物体はどうなのか。この問いには作品の中で、「おそらく、重なりあって出現しているんだろう。そういうものはきっと――質量が倍になっているんじゃないかな」と答えられている。それを示す現象として、駐車中の自動車が重みでパンクして、セルモーターが焼き切れたことがあげられている。さて、そこで問題。このようなものは動かすことができるかどうか。質量が無限大になっているのではないから移動は可能なようである。しかし、影と重なりあったまま移動するとすれば影が動くことになる。影が動くとすれば未来が(それとともに過去が)変更されたことになる。影が動くことを否定するならば、物体は影と分離することができることになる。だとすれば、重なるのも(未来を待たずして)できることになるのではないか。

 第二の点。動くものは「その瞬間」に影と重なるような動きをしなければならない。ただし、「その瞬間」が来るまでは影の存在する空間には入り込めない。そのような空間を認知できる主体は、当然その場所を避けようとするだろう。それゆえ、動くものが「その瞬間」に影と重なるためには、避けようとする意思に逆らって、何かの作用が必要となる。人によって動かされるものについても同様である。

 ここで面白い矛盾が起きる。主人公は新聞記者なので印刷工場に電話をして次のように忠告する。「輪転機は何ともない? 故障? ―― モーターがやけたって? ―― あのね、何とかして倍の馬力のモーターをつかうか、負荷を半分にしてやらなきゃ、使えないぜ」。工場がこの忠告に従って倍の馬力のモーターに替えようとする。しかし、それは不可能なのだ。なぜなら、「その瞬間」から送り返されてきた影は既存のモーターのものであり、つまりは「その瞬間」までそのモーターはそこにあるのでなければならないからだ。もし、モーターの交換が可能だったとしても(未来が変更されるとしても)、別の困難がある。新しいモーターの据えられるべき空間には既にそのモーターの影がいついていて、本体のモーターの据え付けを拒否するであろう。

 もっと簡単な例がある。もし電車が高速で自分の影にぶつかったら大事故となる。だが、大事故が起きたなら、その電車は廃棄されるだろうから、その路線を走ることはない。とすれば、「その瞬間」にその電車は線路上にはなく、過去に送り返される影もそうである。となると、線路上で影にぶつかることはないから電車は「その瞬間」まで線路上を走り続けるだろう。そうなると、「その瞬間」にその電車は線路上にあり、その影も線路上に送り返されて、最初の状況に戻ってしまう。小松はこの矛盾を避けるために、ATC装置によって事故を脱線程度にくいとめさせている。しかし、それだけでは矛盾は解消しない。列車が影に妨害されるのなら、もはや電車はその路線を走ることはなく(たぶん、他の路線に回される)、その結果、「その瞬間」に自分の影と重なることはできなくなる。

 自動車にしても同じである。「その瞬間」に今まで通ったことのない道を走っている自動車というのは稀であろう。毎日同じ道を走っていれば、「その瞬間」の前に必ず自分の影とぶつかるだろう。

 可動的な道具にもこの種の矛盾が発生する。扉とか窓は影が邪魔して動きにくくなったなら取り替えられるだろう。しかし、取り替えられたら、そこに影は存在しなくなり、したがって取り替える必要はなくなる。ささいな例として、幽霊(影)の着ている服を大部分の人はもはや着ようとはしないだろう。

 この状況の典型例は次の問いに表現される。自分自身の影にぶち当たって死ぬことができるか。死ねば影は存在できず、影が存在しなければ死ねない。

 第三点。影の空間は一体どの物体を排除するのだろう。作品では、ある人の影の占める空間はその影がつけている衣服をも排除するとされている。衣服が衣服の影に排除されるだけではなく、衣服をつけている人の影に排除されるのだ。腕時計を投げると影の体に当たってはね返り、ズボンを投げると影の体にぶら下がる。しかし、ある物体が他の物体に接触しているだけでその物体の影が占める空間から排除されるならば、際限がなくなってしまうだろう。

 たとえば、「その瞬間」に電車に乗っていた人は、その電車の影の占める空間から排除されるのだろうか。その電車が影となっている場所に、その人が別の電車に乗って通りかかったとしよう。その人が電車の影を通り抜けられるのなら、自分の影とぶつかりさえしなければ、無事に通り過ぎることができる。しかし、電車がその内部空間まで含めて全体として影となっているのであれば、その人はその影とぶつかってしまうことになるだろう。その人の乗っていた電車は自分のではない電車の影を通り抜ける。不幸な人は、影の電車の前面にはりつき、現実の電車の中の壁によってプレスされたようになる。この死骸が両方の電車の壁からすり抜けられないのであれば、現実の電車はひっかかって急停車せざるを得ないであろう。

 これらのやっかいごとを避けるのは簡単なのである。自分の影も通り抜けられるとすればいいのだ。ただ、そうすると、パニックは小規模なものになる。自分の影しか見えないのであるから、ささいな異変である。各人に各人の影があるから社会的に大問題にはなるだろうが、日常的にはたいして支障はない。では、各人に全ての影が見られる(ただし通り抜けられる)という設定ではどうだろう。このような想定のもとでは物語が作りにくいだろう。どういうことが起こるか予想しにくいのだ。

 このように『影が重なるとき』はSFとしては失敗しているが、その妥当性を考えてみるのは楽しい。そういう点でSFはミステリと共通している。両者とも、ある架空的仮定のもとで論理を組み立てるのだが、SFの方がその架空性が高いということなのだろう(当然両者の混合はある)。論理的であるということはSFにとっての制約であるが、SFが唯一の制約としていることだ。それ以外は何が書かれてもいいのである。

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