電気羊はアンドロイドを夢見るか?
特に理由はなかったのだが、P・K・ディックの三つの作品、『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』(1964年、浅倉久志訳、ハヤワ文庫、1980年)、『火星のタイムスリップ』(1964年、小尾芙佐訳、ハヤカワ文庫、1980年)、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968年、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、1977年)を読み返した。ディックを評価することについては私も異論はないのだが、ところどころ引っかかる。矛盾というほどでもないのだが、辻褄があわないというか、納得がいかない部分があるのだ。『高い城の男』(1962年、浅倉久志訳、ハヤカワ文庫、1984年)の訳者あとがきに、「ディック作品にありがちなプロットの破綻」という言葉があり(この解説では『高い城の男』にはそれがないと言っているのだが)、そう思っているのは私だけではないと安心した。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が特に気になったので、映画『ブレードランナー』のDVDを見てみた。ところが、以前にテレビ放映で見たときの記憶とかなり違っている。今回私が見たのはファイナル・カット版(2007年)だったが、レンタルしたケースには別にもう一枚のDVDがあって、オリジナル劇場版(1982年)、インターナショナル劇場版(1982年)、ディレクターズカット版(1992年)の3本が入っていた。以前私がテレビで見たのはインターナショナル劇場版だったらしい(テレビ用にカットされていたかもしれない)。ディレクターズカット版から以降は内容にかなりの違いがあるようで、リドリー・スコット監督自身がイントロダクションで説明していた。それまでの版にあったデッカードの独白(ナレーション)とハッピーエンド部分が削除されているのだ。予備知識なしにファイナル・カット版を見たら、何がどうなっているのか理解に苦しむだろう。オリジナル劇場版を見て確認したのだが、確かにこっちの方が分かりやすい(スコット監督は気に入らなかったようだが)。
映画では舞台である荒廃しかけている(というより使い古されたと言う方が適切だろう)未来都市(2019年11月のロサンジェルス、ただし原作はサン・フランシスコだが)が淡々と描写されている。風俗は一部日本風・中国風であり、機器類はアナログ的である(映画の作られた頃は液晶が普及していなかったし、スマホなどはなかった。デッカードは新聞を読んでさえいる)。太陽は塵にさえぎられているようで、絶えず雨が降っている。
映像だけで説明がないと私たちは困惑してしまうのだが、劇場版にあったナレーションは幾分か理解を助けてくれる。たとえば、住民たちの使う言葉(シティスピーク)について、あるいは、デッカードに捜査のヒントを与えてしまう写真をなぜアンドロイドが持っていたのかについて、そして、アンドロイドがなぜ最後にデッカードを助けたかについて。
分かりにくいと言えば、ブライアントの部下であるガフという男が重要な役割を担っている点もそうである。文庫本のカバーには飛行車(?)を運転するガフと隣のデッカードのスチール写真が使われているが、なぜこの場面が、と以前はピンとこなかった。どうやらガフはデッカードを監視しているようだ。ガフが作る折り紙が持つ意味は、思わせぶりでよく分からない。
他にもいろいろ疑問点はある。デッカードとの会話の中で、安全装置としてレプリカントの寿命は四年にしてあるとブライアントが説明するのだが、後半でのタイレル博士とレプリカントのロイの会話では、レプリカントの寿命が短いのは技術的な問題のせいであるように解釈される。あるいは、レプリカントのプリスが遺伝設計技術者であるセバスチャンにゴミ捨て場(?)で出会ったのは、偶然ではなく仕組まれたものだったが、そこへセバスチャンが来ることを(どうやら趣味の人形作りの部品を漁りに来たようなのだが)アンドロイドがなぜ知ったのか。眼の設計者から聞き出したようなのだが、映画製作者はセバスチャンとともに観客をも騙そうとして教えてくれないので、察しづらい。そして、タイレル社の保安システムの信じられないほどの甘さ。
しかし、いちいちそんなことに疑問を持っていては、この映画は楽しめない。映像はある雰囲気を醸し出そうとしているのであり、そこで演ぜられているのはデッカードとレーチェルの愛の物語なのだ。そして、人間にこき使われ、寿命が四年でしかないレプリカントの悲哀。
原作でもアンドロイドの寿命は四年ほどになっているが、それが明らかにされるのは最後の方で、いわばつけたしでしかない。では、原作では何がテーマとなっているのか。原作ではレイチェルがデッカードに近づくのは、アンドロイドと性交した人間はもはやアンドロイドを殺せなくなるということを利用して、他のアンドロイドをデッカードから守るためだった。そうでなくともデッカードはアンドロイドを人間とは異質のものとみなすという確信がゆらいでおり、何とか逃亡アンドロイドの最後の三人を殺すのだが、同時に深い心の傷を負うのである。
原作と映画が描こうとするものが違う以上、映画が原作の構成を借りながら、その叙述を改変、削除し、新たな叙述を付け加えるのは当然である。しかし、そのような変更の中に、原作の欠陥というか、見落としている点が明らかされることもある。原作では生物が死滅しつつあって、非常に高価なのでペットとして飼うのが困難であるという設定である。そのため生物の「電気模造品」が作られ、販売されている。しかし、人間と区別しづらい「有機的アンドロイド」を作りだす技術があるのなら、有機的な模造生物も可能ではないだろうか。映画ではその矛盾を避けて、遺伝子、細胞、たんぱく質などの合成加工によって模造生物を作ることになっているようだ。つまり、人間もその他の生物も、模造品として作られる技術は同じである方が自然だ。だとすれば、人間とアンドロイドの区別がつきにくいように、その他の生物とその有機的模造品の区別もつきにくいのではないか。デッカードの持っている模造の羊が「電気模造品」ではなく「有機的模造品」であるならば、生物のペットを持てないことをそれほど悩む必要はなくなってしまう(厳密にいえば、やはりその差は人々のランク付けに関わってくるだろうが)。
ところで、映画ではデッカードに撃たれたプリスがコントロールを失った機械のように手足をばたつかせるのだが、レプリカントは電気的ロボットではなく有機的アンドロイドなのだから、その動きはおかしいのではないか。映画製作者たちのレプリカントについてのイメージもあいまいなようである。
物語としては、時間的制約があることにもよるのだろうが、映画の方がすっきりしている。ただし、映画が捨て去った部分が、捨てられて当然だというわけではない。たとえば、原作の中の「ミッション通りの司法本部」のエピソード。アンドロイドの方も人間とアンドロイドの区別がつかない(また、人間もアンドロイドも、自分自身がどちらか分からない)というややこしい状況を、ディックはうまく描けていない。映画が落としてしまったのは当然だろう。しかし、そういう視点も無視できないことにディックは気づいていたのだ。
映画でもその点にわずかながら触れている。スコット監督のイントロダクションで、デッカードがユニコーンの夢を見るのは彼がレプリカントであるかもしれないことの示唆であると述べられている。ラストシーンのガフの折り紙がユニコーンらしいのは、レーチェルにではなくデッカードへのメッセージであるからか。
映画では原作にある二人の逃亡アンドロイドが削除されている。「ミッション通りの司法本部」のエピソード中のガーランド警視は当然脱落する。ロイの妻アームガードはプリスに吸収されて、プリスとロイは恋仲の設定になっている。デッカードが追うのは、リオン・コワルスキー(原作ではマックス・ポロコフ)、ゾーラ(原作ではルーバ)、プリス、ロイの四人である。
四人に減ってもデッカードは苦労している。いずれのレプリカントにも危うく殺されかけてしまうのだ。リオンを殺してデッカードを助けたのはレーチェルである。ゾーラとプリスの女性二人にデッカードが逆襲できたのはご都合主義に見えてしまう。あまつさえ、ロイには追いつめられて墜落死寸前になる。普通の活劇映画ではここで一発逆転となるのだろうが、デッカードはロイに助けられてしまうのだ。
デッカードはむしろ追われる男である。映画がデッカードとレーチェルの逃亡で終わっているのは当然なのだろう。