井本喬作品集

ニザンはダンケルクで死んだ

 最近、『ダンケルク』(クリストファー・ノーラン監督、2017年)という映画をレンタルDVDで見た。EUの時代を配慮したのだろう、ドイツ軍人がほとんど出てこない(銃撃や砲撃や航空機がその存在を示すが)という描き方で、いたずらに敵愾心をあおらないようにしている。災厄の中で人々がどのように行動するかという視点がとられたのだろう。

 同じ頃に、サルトル『シチュアシオン Ⅳ』(人文書院、1964年)の中の『アデン・アラビア』の序文(鈴木道彦訳)を読んだのだが、解説にニザンがダンケルクからの撤退の途中で戦死したとあった。ネットで検索してみると、正確にはオードリュイクというところらしく、ダンケルクよりもむしろカレーに近い。

 ニザンについての解説者たちはダンケルクがどのような戦場であったには興味がないようで、そのことの意味を追求していない。ダンケルクからのイギリス軍の撤退についてはおぼろげな知識はあったのだが、少し調べてみようと思って『イギリスの大撤退作戦 ダンケルクの奇跡』(A・J・バーカー著、1977年、小城正訳、早川書房、1980年)という本を読んでみた。以下の記述の多くはこの本に負う。

 1940年5月10日にドイツ軍の西方侵攻作戦(ジッヘルシュニット計画)が開始され、オランダ、ベルギーへの進撃が始まった。連合軍はこれに対応すべく、マジノ線の北端を軸にして右旋回するようにして、ベルギーへ前進した(D計画)。ところが、ドイツ軍の別動隊は、アルデンヌの森林地帯を抜けて、ベルギーにいる連合軍の南方を迂回し、これを包囲してしまった。ダンケルクに追いつめられたイギリスのヨーロッパ大陸派遣軍は、英仏海峡を渡ってイギリス本土へ撤退する決断をした。

 イギリス軍にとっては幸運なことに、ドイツ軍の戦車は停止し(以後の戦闘のために温存された)、ダンケルクの英仏軍を襲ったのはゲーリングの空軍だった。損害は大きかったが、予想をはるかに超える数の将兵が逃げ出すことができた。ダンケルク撤退作戦(ダイナモ作戦)は5月26日から開始され、6月4日に終了した。ダイナモ作戦が終了したとき、イギリス軍215,131名、フランス軍123,095名、合計338,226名の将兵がイギリス本土にたどり着いていた(ただし、フランス軍は戦いに戻るためにフランスに送り返された)。

 この段階でフランス軍は壊滅したも同然で、6月14日にパリは無血開城し、6月22日にフランスはドイツに降伏した。フランスの降伏までに、イギリス軍のこうむった損害の総数は68,111名、ベルギー軍は23,350名、オランダ軍は9,779名であった。フランス軍の損害は、戦死者約9万、負傷者約20万、捕虜および行方不明者約190万前後(それぞれ詳細は不明)。ドイツ軍の損害は、戦死者27,074名、負傷者111,034名、捕虜および行方不明者18,384名である。

 数字にも見られるように、フランス軍にとってはつらい戦いだった。イギリス軍に見捨てられた上に、イギリス軍の撤退のためにドイツ軍をくい止めなければならなかった。ダイナモ作戦が終了したときに、ダンケルクには三万から三万五千程度のフランス軍が取り残されていた。

 ニザンが戦死したのは5月23日である。5月23日は、ドイツ軍がカレーの南方のブーローニュを占領して、連合軍の包囲を完了した日である。ニザンはこの包囲作戦に巻き込まれたのだろう。ニザンについての解説には、ダンケルクへの撤退中に戦死したと記しているものもあり、そちらの方が正しいようだ。

 ポール・ニザンは1905年2月7日にトゥールに生まれ、1924年、高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)へ入学した。同期にはサルトルがいたが、彼とはアンリ四世高校在校時から親しくしていた。1927年、共産党に入党、1939年、独ソ不可侵条約に反対して離党。そして、1940年の死。

 もし、ニザンがダンケルク以降も生き残っていたとしたらどうだろうか。レジスタンスは彼を活気づけたに違いない。しかし、その後の冷戦をどのように受け止めたであろうか。

 『シチュアシオン Ⅳ』には、メルロー・ポンティへの追悼文(平井啓之訳)も入っている。もしニザンが生き延びていれば、メルロー・ポンティやサルトルのように、政治的にどのような立場をとるか苦悩しただろう。ニザンは離党という経歴があるだけに、苦悩はより一層深かっただろう。

 マルクス主義が知識人に与えた影響の大きさは、今では想像できないかもしれない。『アデン アラビア』(1932年、篠田浩一郎訳、晶文社、1966年)を読んでみても、人間の利己性の軽視、経済システムの無理解、政治的手続きへの無警戒など、何と愚かな判断をしていたのだろうとあきれるのであるが、まさにそれは後知恵というものだ。マルクス主義の理想があまりに魅力的すぎて、その実現可能性を疑ることは非人間的と思われるほどだったのだ。疑念は徐々に大きくなっていったが、最終的にはソ連の崩壊が、マルクス主義への信用を根こそぎ失墜させたとともに、それを信頼していた知識人の権威をも崩壊させてしまったのだ。

 けれども、思想としてのマルクス主義が失敗してしまったのであれば、それに代わるどのような思想もその失敗を乗り越えられないのではないか。それはまさにイデオロギーの終焉であったのかもしれない。

[ 一覧に戻る ]