井本喬作品集

小樽文学館

 小樽は初めてだった。ホテルにチェックインしてから、浅草橋まで行ってみた。濁った運河の片側に古い倉庫が立ち並んでいる(片側だけなのは、運河のもう片側は埋め立てられて臨港線という道路になっているからだ)。倉庫は外観を残して内部がリフォームされ、飲食店などが入っている。インバウンドの観光客も含め、人がたむろしているが、さほど多くない。6月初旬はまだオフシーズンなのだろう。観光人力車夫が、乗る気はなくてもいいからと、声をかけてきた。観光客はこの一帯を見るだけで済ませてしまうが、見どころは他にもいろいろあると言っていた。後で知ったのだが、小樽へ来る客は、浅草橋付近の運河と北一硝子のある堺町通りで観光を済ませてしまい、八割ほどが日帰りであるとのことである。

 小樽は運河で全国的に有名であるが、他の観光資源を生かし切れていないことが指摘されている。確かに、近代の古い建築が多く残っている街並みや、歴史的文化的な遺跡は、観光資源ではあるかもしれない。しかし、いまどきの観光客がそういうものに魅力を感じるだろうか。瞬時にインパクトを与えてくれるものが求められているような気がする。時間をかけていられないのだ。

 他の地方都市同様、小樽も衰退しつつあり、再開発事業もうまくいっていないので、観光に頼る部分が大きい。かつて小樽は港として栄え、大正末には色内十字路を中心に25の銀行が林立し、昭和30年代には稲穂大通りにデパートが三つ並び、市内には映画館は23もあった。繁栄が大きいほど、それが去ったあと、残された遺産がある種の重荷になる。それはどこも同じだ。

 私たちは日銀旧小樽支店まで足を伸ばしたが、その日は閉館日だったので、向かいの小樽文学館(旧小樽地方貯金局)に寄ってみた。小樽は小林多喜二や伊藤整のゆかりの地であることは知っていたし、啄木の短い滞在のことや、石原慎太郎が若い頃一時住んでいたことも知っていた。狭いスペースに何人かの展示コーナーがあって、例のごとく、細かな字の説明パネルやゆかりの品が並べてあり、よほど興味のある人でなければざっと見て回るだけになってしまうだろう。こういう展示の仕方にはもっと工夫が必要だと思うけれど、具体的にどうすればいいか私には分からない。伊藤整の書斎が再現してあった。これも一つの方法ではある。入館者は私たちだけだった。

 展示物の一つに、伊藤整の『幽鬼の街』で主人公がたどったコースを図示したパネルがあった。私は伊藤整のファンであるが、この作品は読んでいなかったので、舞台が小樽の街だとは知らず、そのパネルもチラと見ただけだった。だが、旅行から帰ると、そのことが気になりだした。かつて伊藤整や小林多喜二が歩き回っていた街と、私が訪ねた小樽が、どう重なり合っていたのか、『幽鬼の街』で確かめてみたくなった。そこで、『町と村 生物祭 イカルス失墜』(講談社文芸文庫1992年)に収録されたものを読んでみた。この作品は初出で使われた実名がその後改変され、さらに一部は元に戻されているらしい。初出を参考にできなかったので、以下では的外れな推測をしているかもしれない。また、小樽の歴史については、いちいち出典は記していないが、ネットの記事を参考にさせてもらった。

 小樽の街は東の海と西の山に挟まれて南北に延びている。『幽鬼の街』は、街の中心部を東西と南北に走るいくつかの通りを主人公が彷徨し、様々な幻想に襲われるという内容である。理解しやすいために、あらかじめ主人公のルートを示しておくと、現在の地名で、中央通り運河の対岸→日銀通り→寿司屋通り→花銀通り→公園通り→水天宮→職人坂→寿司屋通り→稲穂小学校→浅草通り・日銀通りとなる。なお、運河に沿う臨港線はこの時代にはまだできていない。土地は山から海へ急な傾斜をなしているので、東西の道はかなりの坂になっている。

 『幽鬼の街』の語り手であり、主人公である「私」は、「小樽駅前の広い坂道を、海のほうへむかって行った。坂道の正面の港内には赤い船腹をでくんと突きだした北洋通いの貨物船がものうげに幾隻も浮かんでいた」。この坂道が第二火防線(中央通り)である。「街の両がわには、北海道名産アイヌのアツシ、熊の彫りもの、小樽市名所八景、手宮の古代文字とその因縁、樺太案内記、北千島漁場詳解、などと看板に書いた土産ものを売る店があり、〆二、九正、角一などと大きな文字をガラス戸に書きしるした旅館がならんでいる」。「私」は「駅前の通りである第二火防線が、稲穂町の第一通りと交叉する左側の角にあるこの市の唯一の洋風ホテルである北洋ホテル」に近づく。「北洋ホテル」は大正7年にできた初代北海ホテルのこと。ホテルから「久枝」が出てきて、「私」を中に引き込み、かつてここで逢引きしていたときのことを責める。「私」は彼女に導かれて、「停車場通り」(中央通り)を海の方へ下る。二人は手宮線(現在は廃線)の踏切を渡り、色内町に至る。「海岸沿いに左右に石畳の落ちついた街がのびている。ここは色内町である。貿易商、鉄商、漁具商、紙問屋、郵便局、銀行などが、おもおもしく並んでいる」。

 「さらにこの街角を海に行けば、埋立地と街のあいだの運河にかけた釣橋をすぎ、税関、北日本郵船の古びた木造二階建の移民休憩所の前をも通る」。「釣橋」は現在の中央橋か。「税関」は、今は函館税関小樽税関支署が小樽地方合同庁舎内にある。「北日本郵船」は日本郵船と北日本汽船を合体させたのか、あるいは単なる間違いか。日本郵船と北日本汽船は樺太航路などで競合していた。北日本汽船は昭和15年に日本海汽船となり、平成5年に大阪商船三井船舶に吸収合併された。

 「私」は「埋立地」の倉庫群の中に立てられた天幕小屋で、「久枝」の愛人である「ウラジミール」に会う。「ウラジミール」はここで格闘の見世物をしている。違う女のことでもめだした「久枝」と「ウラジミール」から逃れて、「私」は「埋立地から色内町の第一火防線下へ出る月見橋に達した」。この「月見橋」は現在の月見橋とは位置が違い、浅草橋に相当するようだ。これに続く文の「つぎの埋立地と南浜町との間にある運河にかけられた木製の釣橋」がどの橋なのか分からない。運河の埋め立ての際に橋の位置や名前が変わったのかもしれない。

 「第一火防線」は現在の日銀通り、この辺りはいわゆる「北のウォール街」である。色内十字路(日銀通りと色内通りの交差点)に至れば、「右は色内町へ出る角で北海道拓殖銀行、左は境町の角で三菱銀行支店があり、その五階には小樽商工会議所がある。向こう角の右には小樽郵便局の低い二階建の古色蒼然たる玄関があり、左角には白堊の現代ふうな第一銀行小樽支店がそびえている。その並びに沿って坂を登れば、為替貯金支店があり、日本銀行小樽支店が四隅に塔のある大きな姿態でうずくまっている」。旧北海道拓殖銀行小樽支店(大正12年築)、旧三菱銀行小樽支店(大正11年築)、旧第一銀行小樽支店(大正13年築)、日本銀行旧小樽支店(明治45年築)は今でも建物が残っている。「為替貯金銀行」は旧小樽地方貯金局(中に小樽文学館がある)に当たるのだろうが、今の建物は昭和27年建築と比較的新しい。

 「私」は北海道拓殖銀行の前で小林多喜二に出会う。多喜二は「唯物教」の使徒となってその教えを説く。天に昇った多喜二と別れた「私」は、手宮線の色内駅(簡単な復元がされている)下の共同便所に入るが、誰ともわからぬ女に脅かされて、日銀の横から妙見川へ出た。川沿いの道(寿司屋通り)を歩いていると、妙見川はいろいろささやいて「私」を責める。「私」は左折して「花園町第一通り」(花銀通り)を登った。「この通りは、市のもっとも繁華な一区画で玩具屋、絵葉書、ビヤホール、書店、蛇の目寿司、喫茶店、写真機店などがたちならび、道路がわりあいに狭いのに、乗合自動車、馬車、自動車が往復し、左右の鈴蘭街灯の下をさまざまな人が歩いているのであった」。

 途中、函館本線の踏切で列車の通過を待っていると、子を連れた女がいて、昔関係した女らしいのだが、「私」は名前を思い出せない。「私」は女を追って路地に入ったが見失う。「花園町公園通り」に出た「私」は、「公園館」(大正2年開設の映画館)の切符売場で「上野までの三等寝台券」を買おうとしたが、見知らぬ男にいちゃもんをつけられ、駅員には拒否される。「すでに夕暮れに近かった。公園通りの両がわに出る夜店商人の群れが、台をならべて支度をはじめていた。古本だとか、植木だとか、化粧品、玩具、下駄、帽子の型直し、家具用の新発明クリームなどの売り手が、荷物の箱から商品をとり出してそのへんに並べていた」。すると、小樽高商時代にここで一緒に石鹸と花を売った川崎登が現れる。二人は「花園町第一大通りの角をつっきって、鉄道線路の上にかけられた陸橋を渡り」、「郷社水天宮」まで登って、小樽の街を眺める。「そこからは灯がついたばかりの灯台、それにつづく長さ一里の防波堤が見え、その手前に十隻ほどの汽船の投錨している小樽港が一望に見渡された」。

 川崎登は「私」が信頼しうる数少ない友人で、「私」を慰め励ましてくれるが、やがて消えてしまう。「私」は一人で来た道を下り、「石の鳥居のそばの蕎麦屋」でキツネウドンを食べていると、「文学大講演会」の「ポスタア」が目の前にあり、講師は芥川龍之介と村見遁(里見敦のこと)とある。会場は「稲穂男子小学校」であり開催日は今日である。「私」は行くことにして、鳥居の先を右折して「古着街山田町」へ入る(職人坂)。職人坂は、色内と入船を結ぶ道として、山田吉兵衛ほか二人により、明治15年に作られた。この道の両側には仏壇屋、家具・建具屋、古着屋、古道具屋などの職人が多かったので、職人坂という名がついた。また、一帯は山田吉兵衛の所有地であったことから山田町となった。

 「私」はいろいろ話しかけてくる古着どもにつきまとわれ、逃れるように妙見川に出た。そこで一人の少年が「私」に近づき、「八千代館の飾り電灯の反映のなかでじっと私の顔を見上げて」話しかけてくる。「八千代館」は映画館。少年は中学生の頃の「私」であった。川沿いの道(寿司屋通り)を一緒に稲穂小学校に向かいながらの会話で、彼も「私」の不誠実さを責める。説得しようとする「私」にかまわず、彼は「稲穂町の第二大通り」を小樽駅の方へ行ってしまう。「稲穂町の第二大通り」は現在の国道5号線。一方、「私」は「高商通り」(寿司屋通りの延長)の坂を上り、「木の陸橋」(現在は鉄道高架になっている)で線路を越えて稲穂小学校へ行く。「広い講堂の前のほう三分の一ばかりを占めた百人ほどのその聴衆の横手から、板壁に沿って私は入っていった」。

 講演会では、村見遁のとりとめのない話のあと、芥川龍之介が「『何を書くか』ではなく『いかに美しく書くか』」という文学論を披露する。やがて龍之介はカッパに変身して木によじ登り、彼の価値基準によって順位づけられた文学者の列を呼び寄せる。龍之介と一緒に木の上にいた「私」は、いつの間にか稲穂小学校から出て、「滋養軒の前をとおって、小樽警察署と帝国電灯会社の前から右折して、小樽駅構内の南端にかかっている陸橋浅草橋をわたり、第一火防線にそうて組合協会の前をすぎた」。「陸橋浅草橋」は現在の富岡橋に当たる。「私」は「第一火防線」(日銀通り)と「稲穂町第一大通り」(第一大通り・サンモール一番街)の交差点の「大国屋の筋向いの角になっている札幌ビイル直営ビヤホオル」に入る。

 大国屋は大正7年に富山から進出、平成5年まで大国屋デパートとして存続していた。現在その地にはオーセントホテル小樽が建っている。「稲穂町第一大通り」には大正6年河野呉服店(後のニューギンザデパート)、大正12年今井呉服店(後の丸井今井)が移転してきて、三つのデパートが並び、にぎわうことになる。ニューギンザデパートと丸井今井小樽店の間には北海ホテル(二代目?)があった。この三つの施設は平成元年再開発(サンモール一番街)により、丸井今井小樽店、小樽グランドホテル、小樽マルサとなるが、その後相次いで閉鎖され、平成21年に解体されてしまう。跡地はエキサイ会小樽病院とウィステリア小樽稲穂(サ高住)になっている。「札幌ビイル直営ビヤホオル」は丸村河村ふとん店小樽支店に変わったが、それも平成15年に閉鎖されて今はない。

 「ビヤホオル」には中学や高商の同級生、また東京の文学者仲間がいて、「私」の姿が見えないのか、盛んに「私」の悪口を言っている。「私はすごすごとそこを離れて第一火防線向うがわの扉から暗い広い通りに出」て歩いていくが、客引きのような女に捕まり、「この不動銀行と北門銀行とのあいだをはいってゆきますと、停車場通りから第一火防線まで、それから第一大通りから鉄道線路のあいだの四角な地帯の全部、それと北洋ホテルの横町やら向こう通りは、どの小路にも、きれいな娘が待ちかねていますよ。‥‥ここが小樽の名所、電気館下の歓楽境でございますよ」と誘われる。

 「不動銀行」は不動貯金銀行。昭和20年合併で日本貯蓄銀行となり、昭和23年協和銀行と改名、変遷を経て現在はりそな銀行になっている。協和銀行に継承された小樽支店が現在日本政策金融公庫小樽支店の場所にあった。北門銀行は昭和14年拓銀に吸収合併され、小樽支店が拓銀の小樽第二支店になった。平成10年拓銀の破綻の際、北海道地区の営業を譲渡された北洋銀行が継承し、現在の北洋銀行小樽中央支店となった。

 「鉄道線路」は手宮線と思われる。「電気館」は第一大通りの西側の都通りにあった大正3年開設の映画館。東京浅草の電気館を真似たので、第一火防線が浅草通りと呼ばれるようになったとの説もある。都通りには今でも電気館ビルという建物が残っている。

 この矩形の土地の中で、「私」は幼馴染の女に出会って彼女の店の部屋で話しているうちに、自分の精子(あるいは胎児)のような生きものが多数出現し、それらに追われるはめになる。「私は絶体絶命になり、生涯の勇猛心を振りおこし、目をつぶって彼らの群れに突入した。‥‥生きなければならない、ここを過ぎて生きなければならないと私は思っていた」という文章でこの作品は終わる。

 私たちは、中央通り、日銀通り、色内通り、旧国鉄手宮線跡などを歩いたが、水天宮の方は行かなかった。他に、『幽鬼の街』には出てこないが、旧小樽倉庫内の運河館、中央市場の独特の建物がある船見坂、日本郵船旧小樽支店や北運河のある一帯、富岡教会、小樽商科大学、小林多喜二の記念碑がある旭展望台などに行った。通りすがりの一泊だけではほんの表面をかすったにすぎないが、『幽鬼の街』を読むための予備知識にはなった。ただし、『幽鬼の街』を読んでから小樽へ行った方が、より感興が深くなっていたかもしれない。

 作品としての『幽鬼の街』は、私には面白かった。しかし、一般受けはしない作品だろう。作り物めいて、感情移入ができないのだ。故郷を訪れる作家というテーマなら、『トニオ・クレーゲル』が思い浮かぶ。むろん、伊藤整はそういう作品を狙ったのではない。ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が念頭にあったことは、擬人化された妙見川が主人公に話しかけてきたとき、「レオポルド・ブルウム」という名を持ち出していることで察せられる。この作品は帰郷がテーマではなく、小樽は舞台として選ばれたにすぎない。

 『幽鬼の街』は、方法上の試みであると同時に、思想の表明でもある。伊藤整が小説よりも評論で評価されるのは、この作品を読んでも分かる。文学思想という観点からは、小林多喜二と芥川龍之介が取り上げられている。作者は(そして主人公は)直接的な評価は控えているが、作中の彼らの戯画的な扱いが批判的であることを示している。彼らに対する反論がこの作品ということになろうが、力不足であるのは明瞭だ。皮肉っぽく見れば、この作品の大元に込められているのは、文壇で認められたいという伊藤整の強い思いである。むろん、それは作家なら誰にもある思いだが、伊藤整の創作のモチーフが方法論的なものであるため、チャチな感じがするのは否めない。

 ただし、隠されたテーマとして社会と個人の関係がある。主人公は性とエゴイズムについて他者から責められるという妄想の中を歩き回る。しかし、主人公は(そして作者も)、性とエゴイズムの発露が人間の実態であるという信念を抱いている。ただし、その正当性を強く主張する勇気はない。世間から指弾されるのを恐れる気持ちが強い。つまり、臆病なのだ。作者のこの臆病さないし用心深さは、初出にあった実名を後に架空名に変えたことでも察せられる。

 マルクス主義を宗教として叙述しているのは、政府の弾圧を回避するためであると同時に、宗教としてしまうことでその召喚を拒否する根拠を得るためでもあると思われる。マルクス主義の相対化は、次の問いを投げかけることによってなされる。共産主義や社会主義によって、エゴイズムの問題は解決するか。性の問題は解決するか。

 つまり、作者は性やエゴイズムに真からの自責を感じているのではない。それを克服しようとしているのではない。どうしようもないものとして認めているのだ。むしろ、それが生の実体だと主張したかった。だから、この作品における自責の念の表現は、創作上の工夫でしかない。あるいは、私小説の形を真似てみせたのかもしれない。私小説を皮肉るというよりも、私小説の告白の不十分さを批判したかったのだろう。しかし、私小説のようにエゴイズムを堂々と押し出すようなことはしない。それは危険だからだ。保身というさらなるエゴイズム。これは後の「仮面紳士」の発想につながっている。

 しかし、作者は単に臆病なだけではない。自己自身を論理的に追いつめて大胆さを絞り出すことができるのだ(むろん、敵の力の見極めの重要さは変わらない)。『チャタレイ夫人の恋人』の翻訳がその一例である。伊藤整は、D・H・ローレンスにはなれなくとも、D・H・ローレンスを掲げることはできる。つまり、伊藤整の資質は評論に向いていた。

 さて、小樽文学館の展示に戻ろう。ここにも啄木の展示があった。啄木が小樽日報記者として小樽に滞在したのは、明治40年9月27日から翌年の1月19日までのわずか4か月弱にすぎない。それでもこの扱いだから、さすがに啄木の人気は高いのだろう。

 もっとも、北海道の他の都市、函館、札幌、釧路などに比べると、啄木に対する小樽市民の態度には冷淡なところがあるようだ。歌碑も市内に三つしかなく、しかも三番目の小樽駅前の歌碑ができたのが平成17年になってからである。「かなしきは小樽の町よ歌ふことなき人人の声の荒さよ」(水天宮歌碑)と歌われてしまったことが一因だろうか。しかし、「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」と歌われた釧路市には、啄木歌碑が27基もある。

 それはさておき、啄木の人気をしても、小樽文学館をにぎわすことはできていない。駅横の三角市場前の歌碑さえ、観光客は知らぬのではないか。釧路の港文館を訪れたときも、他に見学者はいなかった。もはや教養的な文学に興味を示す人は絶滅しかけているのであろう。

 小樽文学館では「石原慎太郎『十代のエスキース』展」という企画展をやっていて、石原慎太郎の中学・高校時代のエスキース(絵画下絵)が展示してあった。彼に絵の才能があることを初めて知り、思いのほか芸術家肌の人間であることを認識させられた。

 石原慎太郎や大江健三郎の読者たちが、教養主義の最後の世代であるのかもしれない。

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