『暗夜行路』の体験的解釈
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『暗夜行路』のモチーフとして、「気分」というものへの対処の仕方の模索があったのではないかと、私は思っている。初期の作品に見られる、「気分」への高い評価が、徐々に厄介なものと認識されるようになり、そこから解脱することへの希求が表現されている作品、という見方である。「気分」のままに生きることは、他人と共に暮らす中では貫き通せない。不快な「気分」を引き起こす他人への反発という出発点から、「気分」に振り回される自分への困惑、そして、「気分」という自己の牢獄からの解放への道程というのは、成長の過程であり、世俗への妥協でもある。ただ、普通の人々にはさほど困難でもないことが、一部の人間には重大事でありえるのだ。
ところで、『暗夜行路』後半は、夫婦間の危機がテーマになっている。主人公の謙作は、「考」(理性)では妻を許せても、「感情」(気分)では受け入れることができない。原因は妻の「過ち」である。このことの責任は一方的に妻にあり、謙作は(感情的な)被害者である。そういう設定で、謙作の「気分」との闘いが描かれるのだ。
しかし、妻の気持ち自体は問題になっていない。この「過ち」は不倫というより強姦であり、相手が幼馴染のいとこであったので強く抵抗できなかっただけなのである。謙作も、妻が単なる肉体として扱われていたことは理解しており、どんな男に対してもその肉体的要求には抗えないのが女というものだ、と思い込んでいる。女性の主体性は視野にはないようである。
このような設定になっているのは、あくまで謙作の「気分」に焦点を当てるためだろうと私は推測していた。ところが、最近、他に違う要素があるのではないかということに思い当たった。作品をこのような設定にしたのは、謙作の免責のためではなかったろうか。
作家は日々の生活において、妻に対していら立つようなことがあった。家庭の平和のためには自分を抑えなくてはならない。しかし、妻にしてみれば、夫が機嫌を悪くする原因は些細なことであり、しかも、その責任が自分(妻)だけにあるわけではない。妻だって同じような思いをさせられることもある。お互い様なのだ。そのような妻の言い分がもっともなことであるのは作家にも分かっている。しかし、だからと言って「気分」が起こることに対してはどうにもできないのだ。
「気分」は時間がたてば消えていく。後から考えれば、なぜあんなことにこだわったのか、馬鹿々々しくなる。しかし、何度もそれが起こり、積み重なっていくと、嫌悪や憎しみに変質してしまうかもしれない。離婚の原因として多用される「性格の不一致」というのは、そういうものかもしれない。
「気分」を克服の対象として強調しようとしても、些細なことが原因であり、自らにも責任があるようなことでは、滑稽なことになってしまう。「気分」を引き起こした相手に重大な過失があれば、その相手を許す(自分の「気分」を抑える)ことが、取り上げるに値する問題として受け入れられるだろう。そこで、妻の「過ち」が必要になるのだ。
つまり、『暗夜行路』後半は、妻に対する(小さな、しかし作家にとっては重い)不満を昇華させるということが、一つのモチーフになっている、というのが私の仮説である。ただし、作家がそのことに成功したかどうかは分からない。『暗夜行路』の結末の執筆は難航し、ようやく書き上げられたのは、主人公を死に近い状況に置くことによってであった。つまり、死に至るまで「気分」の動揺からは免れられない、ということなのだろうか。
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自らの「気分」の扱いについて悩むのであれば、相手も同じように「気分」に影響されていることに思いをはせ、相手の「気分」を害さないように、また、相手の「気分」をよくするように努力するべきであろう。自らの「気分」ばかりに注目し、それを他人の影響から超越するものにしたいという謙作の努力は身勝手である。謙作は妻の「気分」にも気を遣うべきである。そういう視点は『暗夜行路』にはなさそうである。
ただし、相手の「気分」を察するのは難しい。相手に気を遣ってばかりいるのも鬱陶しい。そこで、もう一つの方法がある。それは謙作が自らの「気分」について妻に打ち明け、妻の協力を求めることである。確かに、謙作は自らの気持ちの問題だと妻に言っている。しかし、それは妻に協力を求めるのではなく、突き放しているのだ。一方的に協力を求めるのも身勝手かもしれないが、妻の方でも謙作の態度に「気分」が影響を受けていて、そのことを持ち出してくれれば、お互いさまということで協力ができるのではないか。
そういう会話ができるのであれば、謙作の悩みなど解消してしまうだろう。しかし、そういうことを冷静に言えないのが人間関係の不思議さである。なぜだろうか。
まず考えられるのは、どうせ理解してもらえないだろうという諦めである。常日頃から意思疎通を円滑にしていれば、そもそもこんな悩みはない。どんな関係においても、相手に知らせたい情報は偏っている。そういう限定的な情報交換を慣習化してしまっている(あるいは、情報交換そのものを最小化している)のであれば、そこから外れたような話し合いは困難なものになろう。
ただし、そのような開け広げな会話は可能だろうかという疑問はある。日常生活はいわば慣習というタテマエのうえで成り立っていて、いちいちホンネを出していては流れが滞ってしまう。各々のホンネはその都度の交渉によって調整されねばならず、効率的ではないのだ。ホンネをタテマエで覆うことで、私たちはエネルギーの消耗を防いでいる。タテマエを偽りであるとして排除しようとすれば、もはや日常は戻ってこない。
ただし、自らの権益を守るためにホンネを出さざるを得ないときがある。感情表出はその典型である。感情は日常に亀裂を生じさせ、修復が困難になる場合もある。「気分」とは表出されるまでには明確化していない感情と言えるかもしれない。だから、「気分」の内容を示すことは、感情表出と同じように、日常を脅かすことになってしまうのだ。
謙作が「気分」を自分だけの問題としているのは、せっかく成立させた日常を壊すほどのエネルギーはもはやなく、「気分」を何とかする以外にそれから逃れる方法はないからではないか。
謙作は(そして作者は)、夫婦という結びつきを新しい人間関係として作り上げたかった。しかし、日常はそのような努力を無限に吸い込むブラックホールであり、あっという間にエネルギーは枯渇してしまう。家庭とは、生きていくために、そして繁殖するために必要な場でしかなかった。お互いの理解というものの居所ではないのである。