歴史の地平
島崎こま子のことを知りたいと思っていくつか本を読んだのだが、その一つが『わが異端の昭和史』(石堂清倫、勁草書房、1896年)だった。こま子について書かれているのは二ページほどであったので、全部を読む必要はなかったのだが、読みだしたらやめられなくなった。淡々とした記述は著者の目の確からしさが感じられ、その記憶の豊かさにも驚かされる。
著者については何も知らなかったが、取り上げられている多数の人々の中には名を知っている人もいて、歴史の証言者としての著者の位置の重要さが分かる。もはや歴史上の人間となった人々の姿が、著者との直接間接の交流の中で生々しく捕えられている。
この本では、抑圧下の左翼運動、評論社での出版活動、満鉄調査部での勤務、敗戦直前の軍隊生活、敗戦後の大連での引き揚げ支援、そしてその間の二度の獄中生活が描かれている。戦前の左翼運動あるいは満州国について興味のない人にとっては、無味乾燥な歴史記述にすぎないと思えるかもしれない。しかし、ここに描かれているのは、単に歴史的制約の中の人間の姿というのではなく、普遍的な人間行動の示唆であり、慄然とさせれらるものがある。
著者の経歴を簡単に引用しておこう。1904年生まれ。金沢の出身。旧制四高から東大へ進み、新人会に入る。卒業後、関東電気労働組合に勤める。1928年、三・一五事件で検挙。1930年保釈。1933年、懲役2年、執行猶予5年の判決。日本評論社入社。1938年、満鉄調査部に入社。1943年、調査部第二次検挙により関東軍憲兵隊に拘束。1944年釈放、執行猶予の判決。召集により入隊。終戦後、大連で日本人引き揚げに尽くす。1949年帰国。帰国後著者は共産党に再入党したが、1961年離党し、除名されている。2001年死去。著作多数。
著者は二度逮捕され、取調べを受け、未決囚として入獄する。取調べでの被疑者の取り扱い、留置場や監獄での待遇が具体的に描かれている。人権どころか命の保障もない過酷な環境であるが、それを管理実行する側の人間の権力のふるい方(常に暴力を伴う)に恐ろしさを感じる。制約がないところでは人間は大なり小なり専制者になりうるのだ。
兵役中に敗戦にあい、苦労してハルピンから大連に移動した筆者は、大連にいる二十数万の日本人の生活安定のため、市民の自治組織として「解放」というグループを作る。他にも様々な団体ができたが、ソ連軍司令部の指示もあって、「大連日本人労働組合」に一本化された。他に西部聨合会という旧時代そのままの組織があって、労働組合に対抗した。著者は労働組合とは距離を置いていたが、説得されて「閑職である調査部」を引き受けることになった。
食料事情が悪化する中で、「自発的な拠金活動」のために「消費組合」が作られ、著者は引揚げが完了するまでその活動に奔走する。「三回にわたり二十数万の同胞が無事に引揚げを完了できたのは消費組合の経済力とその人材のおかげである」。
敗戦は従来の秩序を崩壊させたが、支配層が没落していったということではないようだだ。以下のような例は満州だけではなく他にもたくさんあったろう。
飯森(重任)はたくさんの中国人に死刑を宣告している。戦後中国に抑留され、何年か奉天の北稜収容所でくらし、「思想改造」をおこなって民主主義的に再生したという「声明」を発表して帰国した。一、二カ月のうち自由法曹団あたりと連絡をとったりしたが、まもなく本性をあらわしてタカ派裁判官として蛮名をとどろかした。晩年の愛甲勝也は、どんなやくざな社会党政権でもいいから、それができるまで生きていたいと言っていた。それは彼や仲間の大野保が飯森によって有罪とされ、過酷な処置のため大野が奇怪な死に方をしたことを究明し、飯森に土下座させたいからであった。残念ながら飯森はしたい限りのことをして、愛甲の一足さきに罰されることもなく死んでしまった。
帰国嘆願に日参して人目をひいたのは満鉄衛生研究所安東洪次所長である。化検の丸沢常哉がまず残留を決意して、一人でも多くの所員の帰国に尽力したのにひきかえ、安東は所員をほったらかして自分だけまず帰ろうと、連日の哀訴嘆願は見苦しい限りであった。しかしそれもそのはずで、あとでわかったことであるが、衛生研究所は満州七三一部隊の研究と生産の部門であり、安東は中将待遇であったという。彼は戦犯として捕えられる運命にあることを知っていたのであろう。帰国後アメリカ当局と何ほどかの取引のあと東大医学部「衛生学」教授のポストを手に入れた。
また、一般人(庶民というか)の思想傾向も急には変わらない。
これまでわれわれには、引揚船中や舞鶴収容所内で、「民主分子」にたいするリンチが耐えないという情報がつたわっていた。組合幹部の土岐や野々村が反動勢力の制裁を受ける恐れがあった。そこで組合幹部の精強分子を親衛隊として幹部保衛にあたることになった。組合幹部は三月二十六日の高砂丸で帰ったが、船中で星野陸軍中尉、清水少尉を首謀者とする反動派によって物すごい暴行を受けた。親衛隊は出帆と同時に消えたらしい。
ソ連や中国解放軍と戦わなかった軍人は、引揚船中では目ざましくたたかった。遠州丸が佐世保に入港したととき、陸軍中尉森下清、憲兵軍曹松本勝男、沙河口警察司法主任川口栄重らがリーダーとなり、援護局員や復員官の黙認のもとに組合活動家をつぎつぎにひっぱり出し、さんざんにテロを加え、平井久子は頭を坊主にされた。彼らは清算と称して活動家たちの衣類、時計などの財物を奪いとった。
このほか、女を全裸にしたり、ロープで海面につるし下げて快哉をさけんだ記録がある。どの船でもおなじことが報告されているところを見ると、復員官がオルガナイザーの役割をつとめたのではないかと思われる。
筆者自身も最後の引揚げ船興安丸の船内集会で糾弾されたが、著者の反論に糾弾した方の分が悪くなり、結局船長が集会を切り上げてしまった。このような記述から思わせられるのは、敗戦による変革は人々の心情や考えにどの程度の影響を与えたのか、という疑問である。七十数年後の私たちには、一時的な衝撃とそこからの回復というような経過に見えてくる。
それはさておき、人物の動向に関する著者の知識は博覧強記と言うべきで、島崎こま子だけではなく、窪川イネ(佐多稲子)や、平野謙の兄の平野蕃、柏原兵三の父の柏原兵太郎にまでも触れられている。著者のいた世界が意外と狭いのではないかとも思えるのだが、知的エリート層の人間の少なさが、各分野での大多数をカバーできるほどの何らかのつながりを可能にしたのかもしれない。
取り上げられている人物の中で一番印象的だったのは、五味川純平(栗田茂)の意外な活躍だった(私が知らなかっただけなのだが)。
極限状態の連続のなかで「人間の条件」をつらぬきとおしたことは、不朽の名著に描かれたとおりである。彼の物語は、いわばスーパーマンの業である。しかし彼の場合、そこにはいささかも誇張はない。この人ならば描かれた以上の行動をはたしたであろう。栗田とはそのような人物である。
五味川は消費組合を一つの指示点として、新中国のために日本とのルートを設定し、命がけで満州と日本のあいだを往復してもいる。彼は相当の成果もあげたはずだが、それが誰の手におさまったかは彼にも消費組合にもわからない。ここには一人の李応万がいなかった。政治に置き去りにされた彼は文学に向かいあうほかはなかった。もし五味川にも欠点があったとすれば、それは抜群の能力をもっていたことだけである。
最後の文は著者にも当てはまるだろう。ものごとが悪化するのを防いでいるのは(知られざる)彼らのような人である。要は人なのだ。